1-8.運命
「――っ!」
前を行く誰かにぶつかる。
そう思って、とっさに目を閉じた。
けれど、身体が床へ倒れることはなかった。
ぐっと力強い腕が背中を支え、そのまま身体を引き寄せられる。
「大丈夫?」
耳元に落ちた声は、静かで穏やかだった。
――そして、どこか懐かしい。
その声を知っている。
忘れられるはずがない。
恐る恐る顔を上げた。
白銀の髪。
陽の光を受けて淡く輝く、紫の瞳。
初代国王の祝福を、その身にそのまま受け継いだかのような――あまりにも美しい青年が、私を見下ろしていた。
(……リオン殿下)
その瞬間、ドクンと心臓が大きく跳ねた。
避けたはずだった。
前世で私が初めて殿下と出会った、あの庭園には近づかないようにしていた。
だから、もう二度と会うことはないと思っていたのに。
運命は、そんな私の抵抗など嘲笑うように、別の形で彼を目の前へ連れてきた。
リオン殿下は、前世と何ひとつ変わらない。
優しく微笑んでいる。
「顔色が悪いね。少し休んだ方がいいよ」
「……え?」
その優しさに、胸の奥が大きく揺れた。
(って、ダメダメ!)
この人に近づいてはいけない。
私は慌てて殿下の腕から逃れるように、一歩、後ろへ下がった。
「放っておいてくださいっ!」
「ダメだよ」
思いがけず、即答された。
「ここで騒いだら、余計に目立つから」
小さく苦笑すると、殿下は人目から私を隠すように身体をずらした。
そのまま、ごく自然な仕草で回廊の奥へと歩き出す。
「ちょ、ちょっと……どこへ?」
「王族の控え室」
「えっ……!」
「父上や兄上とは別の部屋だから安心して」
振り返った殿下が、いたずらっぽく笑う。
「私がよく逃げ場所にしているところなんだ」
その声音は穏やかで、冗談めいていて。さっきまで張り詰めていた胸の奥が、ほんの少しだけ緩んだ。
前世でもそうだった。この方といると、何だか不思議な気持ちになる。
けれど、このままではいけない。
ここで殿下と親しくなれば、前世と同じことが起こる。
そう直感した私は、控え室へ入った途端、意を決して口を開いた。
「……あ、あの……っ!」
「ん?」
扉が閉まる。二人きりになった途端、急に心臓がうるさくなった。
私はドレスの裾をぎゅっと握りしめた。
「リオン殿下……!」
「うん」
「その……私、殿下に……興味を持たれたりしたら……困るんです!」
「…………え?」
殿下の紫の瞳が、ぱちりと瞬いた。
けれど、もう止まれない。
「リオン殿下に興味を持たれてしまうと、私は……アレン殿下に利用されて、婚約者に選ばれて……っ」
喉が震える。
それでも、必死に言葉を続けた。
「挙げ句の果てには……殺されるんです!!」
「…………」
「だから……だから……!」
気づけば、目の奥が熱くなっていた。
「私のことは……どうか、どうか放っておいてください……!」
静寂が落ちる。
リオン殿下は、ただ私を見つめていた。
その紫の瞳が、ほんの少しだけ見開かれている。
(……あ)
やってしまった。
王族、それも第一王子に向かって「放っておいてください」なんて。
こんな不敬なことを言ったら、下手をすれば牢獄行きだ。
私は慌てて首を横に振った。
「い、今のは、その……!」
「…………」
「ゆ、夢で! そう、夢を見たんです! 予知夢みたいなもので……!」
自分でも何を言っているのか分からない。
「ほら、女の子って……未来の悪い予感がするとき、あるじゃないですか!」
「……夢?」
「そ、そうです!」
リオン殿下は、じっと私を見る。
紫の瞳が、すっと細められた。
その視線に射抜かれて、背筋が凍る。
(やっぱり……疑わしいですよね……)
当然だ。こんな話、誰が信じるというのだろう。
きっと今から近衛兵を呼ばれて――。
「……そういうこと」
「……え?」
ところが、殿下は何かに納得したように、小さく頷いた。
そして――。
「……ぷっ」
「…………え?」
肩が震える。次の瞬間、殿下は片手で口元を覆った。
「ふ、ふふ……っ」
「で、殿下!?」
まさかの反応に、私は目を丸くする。
「笑い事じゃありません!」
「ごめん、ごめん……!」
そう言いながらも、殿下は笑いを堪えきれないらしい。
「いや……だって、あまりにも必死だから」
「……っ」
「それに、私を避けたい理由が――」
そこで一度言葉を切り、殿下は楽しそうに目を細めた。
「私に興味を持たれたくないから、なんて。そんなこと、初めて言われたよ」
「…………」
恥ずかしすぎる。
今すぐこの場から消えてしまいたい。
けれど。
そんな私を見て笑う殿下の顔が、あまりにも綺麗で。
穏やかで、柔らかくて。
(……笑うと、ちょっと可愛い……かも)
思わず見惚れてしまった、そのとき。
殿下が私の顔を覗き込むように、少しだけ身を屈める。
「でもね」
「……はい?」
「私は君に興味を持たない、なんて――たぶん、もう無理だよ」
「……え」
心臓が、大きく跳ねた。
「君が“私から逃げたい”と言うなら、距離を置くことはできる」
優しい声音だった。けれど、その瞳には不思議な強さが宿っている。
「ただ、私はこう見えて第一王子だから、君が困っているなら、話を聞いて助けることくらいはできるよ」
その言葉に胸の奥が、きゅうっと締めつけられた。
(――って、ダメダメ!)
私は慌てて小さく首を振った。
「アレン殿下は……殿下を貶めるために、私を利用するんです!」
「……うん」
「第一王子が興味を持った令嬢を奪えば、優越感を得られる……というか……!」
早口で捲し立てる私を、殿下は静かに見つめている。
「……なるほどね」
やがて、ゆっくりと頷いた。
「確かに――君は綺麗だから、私は興味を持つかもしれないね」
「――っ!?」
あまりにもさらりと言われて、言葉を失う。頬が一気に熱くなった。
「……な、何を……」
「でも」
殿下は、そんな私の動揺など気づいていないような顔で続ける。
「そうだね。君の話を信じるよ」
「え……?」
思わず顔を上げた。
「ほ、本当に……?」
「うん」
あっさり頷かれる。
――ありがたい。
ありがたい、はずなのに。
こんな荒唐無稽な話を、どうしてこんなにも簡単に信じられるのだろう。
そのことが、逆に不安だった。
「実はね。この舞踏会が終わったら、私たちは“婚約したい相手”を父上に伝えることになっているんだ」
「も、もうそんな話が……!」
「うん」
殿下は困ったように笑う。
「だから、君の話が本当になってしまう可能性もあるわけだ」
「そ、それは……困ります!」
「だよね」
少し考えるように黙ったあと。
殿下はふと、顔を上げた。
「じゃあさ」
「……はい?」
「君の代わりに、誰が兄上の婚約者に相応しいと思う?」
(アレン殿下に相応しい令嬢……?)
そんなこと、考えたこともなかった。
けれど――。
「……妹の、マリアンナです」
「どうして?」
「妹のマリアンナは……夢の中で、アレン殿下と一緒に私を殺したんです」
声が震える。
それでも、私は続けた。
「たぶん……二人は恋仲だったんだと思います」
「…………」
一瞬、リオン殿下の表情が曇った。
まるで、私の言葉の奥にあるものまで見つめるように。
けれど、それもほんの一瞬だった。
すぐにいつもの穏やかな笑みに戻る。
「妹さん、ね」
何かを考えるように、ぽつりと呟く。
「兄上が本当に妹さんに興味を持つなら――それは、それで好都合だ」
「……え?」
「少しだけ、後押ししてみるよ」
「えっ……本当に!?」
胸の奥に、ぱっと光が差したような気がした。
これで、私は殺されずに済むかもしれない。
そんな私を見て、殿下はふっと目を細めた。
まるで、何かいたずらを企んでいる少年のように。
「だけど」
「……?」
「条件が一つ」
「じょ、条件……?」
思わず身構える。
殿下はそんな私を見て、少しだけ笑った。
「妹さんと兄上の婚約が正式に決まるまで――君は、誰とも婚約しないでくれる?」
「…………え?」
その言葉は優しい。
声音も穏やかだ。
なのに、なぜか、逃げ道を塞がれたような気がした。
「安心して」
殿下は笑う。
「これで君は、兄上の“ターゲット”にならずに済むわけだから」
「……分かりました!」
私は深く考えることもなく頷いた。
だって、アレン殿下との婚約を避けられるなら、それでいい。
「じゃあ、これで契約完了ね」
そう言って、殿下は軽く微笑んだ。
「君はここでもう少し休んでいくといいよ」
「ありがとうございます……」
殿下は扉へ向かって歩き出す。
そしてノブに手をかけたところで――ふと、こちらを振り返った。
「またね、ミレイナ嬢」
「…………」
息が止まった。
(……名前、言ってないはずなのに)
けれど、そんな疑問を口にするより早く。
リオン殿下は、いつものように穏やかな笑顔を浮かべていた。
「それじゃあ」
軽く手を振る。
そのまま扉の向こうへ消えていく背中を、私はただ呆然と見送った。
――ドクンドクン
静かになった部屋の中で、自分の心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
(……どうして、こんなにドキドキするの……?)
頬が熱い。胸が苦しい。
前世では、こんなふうに感じたことなんてなかった。
――そう思っているのに。
胸の奥ではもう、とっくに何かが始まっていた。
運命を避けようとした私の目の前に現れた、白銀の王子。
その出会いは、前世とは違う形で。
けれど確かに――私の人生を、大きく変え始めていた。




