1-9.余韻
控え室を出ると、私は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
リオン殿下のおかげだろうか。
胸の奥にこびりついていた不安が、少しだけ軽くなっている。
煌めくシャンデリアの下へ戻ると、先ほどまで重く感じていた会場が、ほんの少しだけ明るく見えた。
自然と足取りも軽くなった、その時だった。
「お姉様!」
妹のマリアンナがドレスの裾をふわりと揺らしながら、こちらへ駆け寄ってきた。
「もう、お姉様! どこに行ってらしたの? 探したんですから!」
「ごめんなさい。少し休憩していたの……」
そう答えると、マリアンナは私の頭の先からつま先まで、じろじろと眺めた。
「まあ、いいですわ」
興味を失ったように言うと、すぐに次の話題へ移る。
「それより、第二王子殿下となかなかお話しできなくて困っていたの。お姉様も手伝ってくださらない?」
――正直、気が重い。
けれどマリアンナは、一度「欲しい結果」が見えてしまえば止まらない性格だ。
私が嫌がれば、今度は腕を引っ張ってでも連れていくだろう。
それに――。
リオン殿下と話したことで、私が第二王子の婚約者候補として狙われる未来は、おそらく避けられる。
胸の奥に貼りついていた冷たい恐怖は、まだ完全には消えていない。
けれど、先ほどまでのように私の足を縛るほどではなかった。
「分かったわ。行きましょうか、マリアンナ」
(なるべく目立たないようにしていれば、大丈夫……)
そう考えていると、マリアンナはぱっと花が咲いたように笑った。
「さすがお姉様! さあ、行きましょう」
「え、ちょっと……!」
有無を言わせず手を取られる。
そのまま私は、会場の中央へと引っ張られていった。
(大丈夫)
そう自分に言い聞かせながら、震えそうになる心臓を押さえつけるように、そっと深呼吸する。
やがて、マリアンナの足が止まった。
視線の先には、大勢の令嬢や令息たちに囲まれたアレン殿下がいた。
マリアンナの言う通り、殿下の周囲には人垣ができている。
これでは、簡単には声をかけられそうにない。
「そちらの令嬢。お名前を伺っても?」
殿下の声が聞こえた。
どうやら誰かに声をかけたらしい。
私は何気なく、その声のした方へ視線を向ける。
――そして。
深紅の瞳と、真正面からぶつかった。
「…………」
息が止まる。
(え……? 私……?)
そう思った瞬間。
「私、マリアンナ・フェリエールと申します」
隣にいたマリアンナが、待ってましたとばかりに一歩前へ出た。
「フェリエール伯爵家の次女で――」
(……マリアンナ……!)
回帰してから、妹の存在をこれほど頼もしいと思ったのは初めてだった。
今だけは、心の底からありがとうと言いたい。
私はその隙に、そっとその場を離れようと一歩下がる。
――が。
「隣の令嬢は?」
アレン殿下の声が飛んできた。
足が止まる。振り返れば、殿下の視線は明らかに私へ向けられていた。
「こちらは姉のミレイナですわ」
マリアンナが、にこやかに答える。
「そうか」
殿下は私を見る。
「で、彼女は口が聞けないのか?」
「姉は人見知りなのです。殿下を前にして緊張しているのでしょう」
さらりと答えるマリアンナ。
(これが……運命の修正力というものなの?)
前世では、私はこの舞踏会でアレン殿下の婚約者に選ばれた。
今回は、何の名もない伯爵令嬢として、できるだけ目立たないようにしている。
それでも、どうしてこうも殿下は私に突っかかってくるのだろう。
けれど相手は王族。
ここで失礼な態度を取れば、私だけではなくフェリエール伯爵家にまで迷惑がかかる。
私は意を決して、深く頭を下げた。
「も、申し訳ございません……。
姉のミレイナ・フェリエールと申します」
口元には、できる限り自然な笑みを浮かべた。
怖い。殿下の視線を感じるだけで、背筋が冷たくなる。
けれど――。
前世のような、あからさまな悪意は感じられなかった。
「ミレイナ嬢。今宵はご挨拶できて光栄です」
アレン殿下は、社交用の笑みを浮かべた。
「……そして、マリアンナ嬢も」
「ありがとうございます、殿下」
マリアンナが嬉しそうに微笑む。
これで終わり。
そう思った。
けれど――。
殿下の深紅の瞳だけは、なぜか私から離れなかった。
まるで、何かを値踏みするように。
品定めでもするような、その視線に背筋が粟立つ。
やがて、殿下はほんの少しだけ口角を上げた。
「……また会えそうな気がしますね」
「…………」
それだけを残して、殿下は人垣の向こうへと歩き去っていった。
私はしばらく、その背中を見つめていた。
(……気のせい、よね)
きっと。
きっと、前世とは違う。
私はアレン殿下の婚約者にはならない。
そう思い込むようにして、私は小さく息を吐いた。
***
その後は、思っていたよりもずっと楽しく過ごすことができた。
声をかけられるたびに丁寧に応じて。
誘われれば、ぎこちないながらも会話を楽しんで。
気づけば、肩には程よい疲れが溜まっていた。
「お姉様、もう帰りましょう?」
隣でマリアンナが、少しつまらなそうに言う。
「足が痛くなってきましたわ」
「そうね。帰りましょうか」
二人で父と合流すると、会場を後にし、馬車へ乗り込む。
車輪が静かに回り始めると、ほどなくしてマリアンナが大きなあくびをした。
「今日の私、きっと評判がよかったわ!」
満足そうに胸を張る。
「お姉様も、ちゃんと淑女っぽかったじゃない」
「ありがとう」
「……まあ、アレン殿下の前では、ちょっと酷かったですけれど」
「…………」
褒めているのか、貶しているのか。
いまひとつ分からない。
「でも、マリアンナは殿下の前でも、とてもよく振る舞えていたわ」
「当然でしょう?」
そう言って、マリアンナは満足そうに目を閉じた。
そして伯爵邸へ着く頃には、すっかり夢の中だった。
***
自室へ戻った瞬間。
「…………はぁ……」
身体から、一気に力が抜けた。
長い一日だった。
こんなに人と話し続けたのは、いつ以来だろう。
疲れたけれど――。
(楽しかったな……)
前世では、こんなふうに舞踏会を楽しんだ記憶なんてなかった。
ただ、誰かの顔色を窺って。
失敗しないように息を潜めて。
いつも怯えていた。
それなのに今日は、たくさんの人が私に笑いかけてくれた。
それだけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
――そして。
ふと、別の顔が浮かんだ。
(……リオン殿下)
控え室で見た、あの笑顔。
前世の殿下は、いつもどこか影を背負っていた。
笑っていても、どこか苦しそうで。
傷ついた人のような笑みを浮かべることが多かった。
だからこそ――。
今日、あんなふうに笑ってくださったことが、妙に心に残っている。
(あんなふうに、笑う方だったんだ……)
穏やかで。優しくて。
そして――少しだけ、子どもっぽくて。
思い出した瞬間。
「……っ」
頬が熱くなった。
何より。
『またね、ミレイナ嬢』
去り際に呼ばれた、自分の名前。
その声まで鮮明に蘇ってくる。
「~~っ!」
私は耐えきれず、ベッドへ倒れ込んだ。
枕をぎゅっと抱きしめ、そのまま足をばたばたと動かす。
「何考えてるの、私……!」
落ち着こう。そう思っても、思い出すたびに胸が跳ねた。
あの笑顔。あの声。あの紫の瞳。
どうしてこんなに気になってしまうのだろう。
私は枕に顔を埋めた。
当初の目標だった「リオン殿下と会わない」は、残念ながら達成できなかった。
「でも、きっと、大丈夫」
小さく呟く。
「今夜は……うまくやれた」
その言葉に呼応するように、胸の奥へ小さな灯がともった。
まだ未来は分からない。
前世とは違う道を歩き始めたからこそ、これから何が起こるのかも分からない。
それでも、ほんの少しだけ未来が変わった。
そんな気がした。
その安心感に包まれながら、私はゆっくりと瞼を閉じる。
――そして。
明日から始まる新しい運命を知らないまま、私は静かに眠りへ落ちていった。




