1-10.燈
同日の夜、王宮――。
国王の執務室の重厚な扉が閉ざされると、外の喧騒はぴたりと途切れ、空気は張り詰めたものへと変わった。
椅子に腰かける国王と、その隣で静かに控える王妃。執務机を挟んだ向かいに、第二王子アレンと第一王子リオンが並んで立っている。
王子がデビュタントの舞踏会に参加した年は、婚約者に望む令嬢を国王夫妻に伝えるのが慣例だった。
「さて……では聞かせてもらおうか。
慣例通り、まずは第一王子から婚約者に望む令嬢の名を申せ」
国王の言葉に、アレンの口元が歪む。そして横目でちらりとリオンを見た。
その視線には、幼い頃から繰り返されてきた歪んだ執着心が、露骨に滲んでいた。
アレンがリオンの何かを奪おうとするのは今に始まったことではない。その対象は物でも人でも何でもよかった。欲しいのは奪ったモノでは無く、奪うことで得る優越感だからだ。
"初代国王の容姿"を何一つ持たなかったアレンは、国王の第一子なのにも関わらず生まれながらにして第二王子だった。
本来であれば誰しもが尊び敬う存在で居れたはずなのに、ただその容姿を持たなかっただけで先代国王や宰相、神殿長からの眼差しにどこか疎外感を感じていた。
その容姿を持つ子はなかなか現れず、妙な期待が膨らみ始めた頃、リオンは王弟に連れられてやってきた。
美しい白銀の髪に神秘的な紫の瞳。自分より歳下のはずなのに彼の身長はアレンより高く、貧しい出のはずなのに、背筋はピンと伸び、礼儀正しかった。
その時に感じた強烈な劣等感をアレンは未だに忘れることが出来ない。
リオンはそこにいる誰よりも王族らしかった。そう、当時王太子であった父よりもだ。
どうにかして、リオンよりも優位な立場を得たかった。
幸い、父がリオンやその母を寵愛することが無かった為、アレンは継承順位が下でありながら実質第一王子のような振る舞いが許された。
だが、リオンにも王子教育が始まる中で容姿だけでなく、振る舞いや頭脳すらも簡単に追い越されていき、至る場所でリオンを褒める声を聞くようになった。
アレンの劣等感は急速に募っていった。
ある日、何となくリオンが身につけていた母親の指輪を盗んだ。返してくれと自分の前で跪いて懇願するリオンの姿にとてつもなく心が満たされた。
そして、その指輪を庭園の池に投げ捨てた時のリオンの絶望に満ちた表情に、とんでもなく気分が高揚したのだ。
それからアレンはリオンの大切なモノを奪い続けた。彼が家から持ってきた物、友として連れてこられた令息、気を許した従者、褒める教師、面倒見の良い使用人。奪ったものを自分のものにして得られる感情はとんでもなく気持ちよかった。
アレンの問題行動に気付いた母は、リオンではなくアレンこそが被害者だと主張し、いつもアレンを庇った。父は見て見ぬふりをした。
そして、デビュタントで婚約者を選ぶという話を聞いた時に決めていた。
リオンが婚約者に選んだ女を奪って、その女を横に侍らせ、自分の好きなように扱い、リオンに見せつけるのだと。
アレンはその時に得られる快感に早く酔いしれたかった。
そんな考えを知ってか知らずか。隣に立ったリオンは微動だにしない。伏せたまつ毛の奥に揺れる紫の瞳は、静かに波一つ立てずに感情を隠していた。
幼い頃から奪われ続けたリオンの胸に積もった怒りは、とうに許す許さないといったレベルのものではない。
ただ、彼はその感情を表に出す価値を感じなくなっていた。
だからこの瞬間も、心は静かだった。
嵐の前の、底の見えない静けさのように。
いつからかリオンは、どうせ奪われるなら最初から何も無い方がいいと思い始めていた。
だが、運命とは残酷で、そんな時ほど奪われたくないと思う人物と出会ってしまう。
リオンは舞踏会場で会ったミレイナの姿を思い出した。
アレンがミレイナの言う通りに動かなかった場合、マリアンナが本当にリオンの婚約者になってしまうかもしれない。
その可能性を、リオンが考えなかったわけではなかった。
彼女の話はあまりにも荒唐無稽だった。普通なら笑い飛ばして終わる。だけど、彼にはミレイナのあの不可思議な言動を信じてしまう理由があった。
(もう一度、足掻いてみようか……。この悪魔のような兄と、呪いのような運命に)
リオンの指先にかすかな力が入る。彼は小さく息を吐くと、意を決したように一歩前へ進んだ。
「私が婚約者に望むのは、マリアンナ・フェリエール伯爵令嬢です」
王妃の眉がわずかに動く。国王は「ふむ」と低く唸った。
室内に、短い沈黙が落ちる。
(……は?)
アレンの思考が一瞬止まった。
理解が追いつかない彼は獣のような目でリオンを睨む。
「冗談は――」
「冗談ではないよ」
リオンは穏やかに遮った。
「私が望む相手は、マリアンナ嬢ただ一人です」
アレンの拳がわずかに震える。
(姉の方なら分かる。だが、あの妹の方の何がいいのか……まぁどうでもいい)
アレンの中で、それ以外の選択肢は初めから存在していなかった。
国王はリオンの答えを確認すると、今度はアレンに視線を向けた。
「ではアレン、次はお前だ」
アレンは迷いもせず、前へ出た。そして、わざとリオンの言葉をなぞるように口を開く。
「畏まりました、父上。
私が婚約者に望むのは、マリアンナ・フェリエール伯爵令嬢です」
王妃が、ぱっと柔らかく微笑んだ。
「まあ……アレン。
あなたがそう仰るなら、伯爵家にも悪い話ではありませんわね」
「お前たち兄弟は、どうしてこう毎回……。
よかろう。二人が同じ令嬢を望むというのなら、我々で話し合い、判断しよう」
王妃がすかさず口添えした。
「でしたら、アレンを優先していただければ……。
フェリエール伯爵家は王家を支える器ではありませんわ。アレンには我が家の後ろ盾がありますが、第一王子には母がいませんから、ございませんでしょう?
王室のためにも、もう少し後ろ盾になるような家門を選ぶべきですわ」
王妃は幼い頃からアレンを溺愛し、アレンの欲望が満たされるよう、常に動いてきた。
国王も、王妃のその態度を知っていて咎めない。
「では、マリアンナ嬢はアレンの婚約者候補として扱う。
正式な発表は後日に行う」
国王の判断にリオンは顔を青くした。もしこの時、真面目にミレイナの名前を出していたらと思うと、怖くて仕方が無かった。
その隣でアレンは勝ち誇ったように口角を上げると、恭しく頭を下げた。
国王と王妃に挨拶をすると、二人は部屋から出された。扉が音を立てて閉まった瞬間、重苦しい政治の空気がふっと消え、廊下には二人だけとなった。
沈黙を破ったのは、アレンだった。
「……ふっ。お前も馬鹿だな。
大人しく先に俺に発言させれば奪われなかったものを」
アレンは勝ち誇ったように唇の端を持ち上げる。
リオンが視線を上げると、アレンの勝ち誇った笑みが、どこか遠く霞んで見えた。
リオンは妹のマリアンナを婚約者にしたいなど、心から思ってはいない。だが、彼女を守るためなら、いくらでも演じられた。
少し眉を下げ、ため息をつくように肩を落とす。“想い人をうばわれて落胆した男”を演じるように。
「……そう、ですね……」
その弱々しい言葉に、アレンは満足げに笑みを深めた。
「だけど、お前は女を見る目がないな。
マリアンナ嬢は側妃候補ならともかく、本命にするような女では無いだろう。
姉の方がずっと上物だっただろう」
アレンの口からミレイナの存在が出た瞬間、リオンの表情がほんのかすかに揺れた。
だが、アレンに気づかせるわけにはいかない。リオンは拳をそっと握って感情を抑え込む。
「……マリアンナ嬢しか見えて居なかったので、姉の方は見ていませんでした」
アレンは気落ちするリオンの反応を楽しむように言葉を続けた。
「まあ、お前もあまり落ち込むなよ。
婚約者など、いくらでも見つかる」
「……はい、兄上」
***
アレンと別れた後、リオンは小さく息を吐いた。
(…… 姉の方がずっと上物だっただろう、か)
その評価自体に異論は無い。問題は、その言い方だった。
彼女を“物”のように並べ、上から目線で評価するその声音。それが、耐え難く不快だった。
あの口からミレイナの存在が語られるだけで汚されるような気がしてしまう。
(だけど、よかった。今回は君を奪われなくて)
あの控え室で彼女が震えながら口にしていた最悪の未来を思い出すだけで胸が痛む。
“どうか、私に興味を持たないでください”
心の底からの叫びだった。
(……そのお願いは、聞いてあげられないけどね)
彼女がどれほど拒もうと、無関心になどなれない。
リオンはそっと窓から見える王都を見下ろした。
輝くその光のどれかひとつの下に彼女がいると思うと、これまでモノクロに映っていた景色も鮮やかに感じられる。
(もう二度と、今度こそ失いたくない)
アレンが勝利の余韻に浸っている間、リオンはただ静かに決意だけを胸に灯していた。




