1-11.分岐点
時の流れは早いもので、あの舞踏会から一ヶ月が過ぎた。
回帰前なら――ちょうど今日。
舞踏会から一ヶ月後のこの日に、王宮から使者がやって来て、私に第二王子アレン殿下との婚約を打診してきたはずだった。
(……上手くいってるといいけど)
あのデビュタントの舞踏会でリオン殿下と出会って以来、私は殿下と一度も顔を合わせていない。
アレン殿下に私との繋がりを勘づかれないためには、仕方のないことなのだろう。
あの日、殿下が何をしてくださったのか。
国王陛下に何を伝えたのか。
私には知る術がなかった。
ただ、あの時の言葉を信じるしかない。
(もし……またアレン殿下の婚約者候補に選ばれたら)
その時は、もう遠慮している場合ではない。
誘拐されたことにしてでも家を出る。
幼馴染がいる辺境まで逃げて、そこから何とか国外へ脱出する。
そんな物騒な算段まで考えていた、その時だった。
「お姉様ーっ!」
――バンッ!
「王宮から使者が来ましたわよ!」
ノックすらせずに、マリアンナが部屋へ飛び込んできた。
「ちょっと、マリアンナ……!」
「早く来てくださいな!」
興奮した様子の妹に急かされ、私は慌てて立ち上がった。
王宮からの使者。
その言葉が意味するものは、ひとつ。
――王命。
王家からの正式な沙汰である以上、家族全員で拝命するのが決まりだ。
私はマリアンナとともに、急いで応接室へ向かった。
***
扉を開けると、すでに家族全員が揃っていた。
お父様とお母様は緊張した面持ちでソファに腰掛け、弟のルーカスは落ち着かない様子で指先を弄っている。
マリアンナは私の隣にぴたりと寄り添い、そわそわと落ち着かない。
ほどなくして。
王家の紋章が刻まれた筒を携えた使者が、部屋へ入ってきた。
その瞬間、家族全員が、自然と背筋を伸ばした。
「フェリエール伯爵家へ、陛下より御沙汰を伝える」
使者の声が、静かな室内に響く。
――ドクン
心臓が、大きく跳ねた。
(どうか……)
汗ばんだ掌を、ぎゅっと握りしめる。
(どうか、どうか……)
お願い。もう、あの未来には戻りたくない。
私は息を殺し、使者の言葉を待った。
「本日付けにて――」
使者が、ゆっくりと書状を開く。
「第二王子アレン殿下の婚約者を――」
胸が、ぎゅうっと締めつけられる。
次の瞬間。
「――マリアンナ・フェリエール伯爵令嬢と定められた」
「…………」
「以上である」
(…………え?)
一瞬。何を言われたのか、理解できなかった。
頭の中が真っ白になる。
けれど――。
数秒遅れて、言葉の意味が胸へ届いた。
(……マリアンナ……?)
そして。
(――よ、よかったぁ……!)
全身から、ふっと力が抜けた。
張り詰めていた糸が、一気に切れたようだった。
膝から力が抜けそうになる。
危うくその場に座り込んでしまいそうになって、私は慌てて姿勢を正した。
隣を見ると。マリアンナは、きょとんと目を瞬かせていた。
やがて頬が、ほんのりと赤く染まっていく。
「まあ……」
お母様が口元を押さえた。
「なんて……!」
お父様も厳格な表情のまま、深く頷いている。
ルーカスは意味が分からないのか、姉と両親の顔を交互に見ていた。
――みんな、喜んでいる。
そして私は、ただひたすらに安堵していた。
「こんな大役に選ばれるなんて……」
お母様が、嬉しそうにマリアンナを見る。
「誇らしいわ」
「マリアンナ」
お父様も、普段より少しだけ柔らかな表情で言った。
「王家の一員となる覚悟を持って、しっかりと務めを果たしなさい」
「はい、お父様!」
マリアンナが嬉しそうに頷く。
すると、ルーカスがおずおずと姉を見上げた。
「……マリア姉様は、王宮に行っちゃうの?」
「ええ」
「その……寂しくなるけど……」
少しだけ唇を尖らせて。
「……がんばってね」
「ルーカス……」
マリアンナが弟の頭を撫でる。
「ありがとう」
家族全員が、心から喜んでいる。
妹の未来を案じながら、それでも祝福している。
そんな温かな光景を、私はどこか呆然と眺めていた。
その時だった。
隣から、肘で小さく突かれた。
「……お姉様?」
マリアンナが私を覗き込んでいる。
「マリアンナ……おめでとう」
心からの言葉だった。
けれど、妹はニコリと笑った。
家族へ向ける無邪気な笑顔とは違う。
私だけが知っている――少し歪んだ笑み。
「お姉様、残念でしたわね」
「……?」
「アレン殿下の婚約者は――わ・た・し、ですって」
「…………」
マリアンナはくすくすと笑いながら、私の手を握る。
「妹に先を越されたからって、自暴自棄にならないでくださいね?」
「…………」
やっぱり、この子はこういうところがある。
けれど、そんな妹への苛立ちよりも、今は安堵の方がずっと大きかった。
マリアンナは私から離れると、何事もなかったように家族へ向き直る。
そして、先ほどまでの意地悪な笑みを消し去り、無垢な笑顔を浮かべた。
「お父様、お母様」
胸の前で手を組む。
「アレン殿下の婚約者として恥じぬよう、精一杯努力いたしますわ!」
「ええ。頑張りなさい」
母が嬉しそうに微笑む。
その光景を見ながら、私はそっと胸に手を当てた。
(これで私は――死なずに済む)
回帰前の悪夢は、避けられた。
マリアンナを身代わりにしたような形になったことに、罪悪感がないわけではない。
けれど。
回帰前も、マリアンナとアレン殿下は互いに惹かれ合っていた。
だからこれは――。
(きっと、収まるべきところに収まったんだわ)
そう思うことで、自分の心を落ち着かせた。
***
王宮の使者が帰ったあと。
屋敷には、久しぶりに穏やかな笑い声が響いていた。
そんな家族を眺めながら、私はそっと微笑む。
回帰前とは違う未来を選ぶことができた。
それが叶ったのは――きっと、リオン殿下のおかげだ。
(お礼を言いたいけれど……)
王族である殿下と、ただの伯爵令嬢である私。
立場も距離も、あまりに遠い。
気軽に手紙を送るわけにもいかない。
(……殿下、今頃どうしているのかな)
そんなことを考えた瞬間、胸の奥が少しだけくすぐったくなった。
***
――そして、数日後。
「私、これから引っ張りだこですのよ!」
マリアンナが、高らかに宣言した。
第二王子の婚約者となったことで、彼女を招待したい貴族たちから、山のような招待状が届いたのだ。
本来なら、婚約者としての立場を考え、参加する社交の場は慎重に選ぶもの。
けれど――。
「こんな機会、一生に一度ですもの!」
マリアンナは届いた招待状を一枚一枚眺めながら、嬉しそうに笑った。
「全部出ますわ!」
「全部は、さすがに……」
思わず口を挟む。だが、マリアンナはむっと頬を膨らませた。
「あら、お姉様」
そして、にっこり笑う。
「嫉妬するなんて、見苦しいですわよ?」
「……別に嫉妬なんて」
言い返す前に、マリアンナは新しく雇った侍女を連れて王都の中心街へ出かけていった。
――嫌な予感がする。
そして、その予感は見事に的中した。
マリアンナは見栄っ張りだ。
同じドレスを何度も着ることを嫌い、出席する夜会の数だけ新しいドレスを仕立てようとする。
宝飾品。靴。髪飾り。
付き添いの侍女。馬車の手配。
あれもこれもと揃えていけば、出費は膨らむ一方だった。
当然、フェリエール伯爵家の家計は、みるみるうちに苦しくなっていった。
「…………」
お父様は嬉しいような、頭が痛いような複雑な顔で、届いた請求書の束を眺めている。
そんなある日のこと。
「……ミレイナ、少し良いか?」
「はい?」
廊下で呼び止められた。
振り返ると、お父様がいつになく真剣な顔をしている。
私を別室へ呼び込み、扉を閉める。
先ほどまでの屋敷の浮ついた空気が、嘘のように消えた。
「家計が、しばらく苦しくなる」
「…………」
「お前にも、屋敷の手伝いを頼むことがあるかもしれない」
申し訳なさそうに言う父の隣で、母も心配そうに私の腕へそっと触れた。
「私がもう少し役に立ったら良かったのだけど……ごめんなさいね」
「お母様……」
母はもともと身体が弱い。
ルーカスを産んでからはさらに体調を崩し、社交界にもほとんど顔を出さなくなった。
本来なら今も領地で静養しているはずだったのだ。
それでも今年は、娘たちのデビュタントのために無理をして王都まで来てくれた。
「ううん。大丈夫よ」
私は笑った。
「私にできることなら、何でも任せてください」
両親が少し安心したように頷く。
けれど自室へ戻ると、私は一人で小さく息を吐いた。
(……回帰前とは違うところに、負担が来ちゃったな)
アレン殿下との婚約を避けられた。
家族と過ごせる時間も増えた。
それは嬉しい。
でも、その代わりに――。
このままマリアンナが散財を続ければ、伯爵家の家計は立ち行かなくなる。
最悪の場合、領地経営にまで影響が出るかもしれない。
(何とかしないと……)
机に向かい、頬杖をつく。
今の私にできることは何だろう。
ふと、前世の自分を思い出した。
王子妃になった私は、望んだわけでもないのに、徹底的に教育を受けさせられた。
礼儀作法。
社交術。
外国語。
歴史。
芸術。
経済。
王族として必要な、ありとあらゆる教養。
あの頃は、ただただ辛かった。
けれど。
今思えば、それらは確かな「力」だ。
(……これを使えないかしら)
しばらく考えて――。
ふと、ひとつの考えが浮かんだ。
(家庭教師……?)
貴族令嬢を相手に、礼儀作法や社交術を教える。
それなら、今の私でもできるかもしれない。
問題は――。
(誰に教えるの?)
一応、私は伯爵令嬢だ。
けれどフェリエール伯爵領は王都から離れた地方にある。
王都の社交界では、ほとんど名を知られていない。
そんな私に、わざわざ娘を預けてくれる貴族がいるとは思えない。
「うーん……」
頭を抱える。
何か、別の方法はないだろうか。
その時だった。
――コツ、コツッ。
「……?」
控えめなノック。
そして。
「ミレイナ?」
扉の向こうから聞こえたのは――。
どこか懐かしい、爽やかな声だった。




