1-6.舞踏会
デビュタント舞踏会当日の朝。
鏡台の前に座った私は、胸の奥で騒ぎ続ける不安を、必死に押し込めていた。
いよいよ今日だ。
私の未来が、大きく分かれる日。
先日、母と相談しながら決めた通り、髪は緩やかなシニヨンにまとめられている。
普段より少しだけ大人びた髪型。
そして、唇には鮮やかなルージュがのせられていた。
「お美しいですわ!」
「お嬢様には、こういう落ち着いたお色がよくお似合いです」
使用人たちの声に、鏡の中の自分を見る。
そこにいるのは、確かに十五歳の私。
けれど――以前の記憶にある少女とは、少し違って見えた。
髪を整え、母に化粧をしてもらっただけなのに、ずいぶんと雰囲気が変わっている。
仕上げに、年長の使用人がそっと宝石箱を開いた。
蓋が持ち上がる。
窓から差し込む朝の光を受けて、色とりどりの宝石がきらりと煌めいた。
「お嬢様。本日のアクセサリーは奥様が選ばれました。こちらはいかがでしょう?」
差し出されたのは、淡い紫色の石をあしらったアメジストの首飾りだった。
「ありがとう」
それを受け取り、首元へ飾ってもらう。
紫の石が、朝の光を受けて小さな光の粒を胸元へ落とした。
「今日のお嬢様は、いつもより大人びて見えますね」
「とても素敵ですわ」
「今夜は、きっとたくさんの方から声をかけられますわね」
次々に向けられる言葉が、素直に嬉しかった。
けれど、それ以上に胸を満たしているのは――緊張だった。
今日という日は、私の人生を大きく左右する。
もし、また同じことが起こったら?
もし、どれだけ行動を変えても、結局は同じ未来へ引き戻されるのだとしたら?
そんな不安が、頭の片隅から離れない。
(……大丈夫)
私は鏡の中の自分を見つめた。
(今日からは、自分の足で未来を選ぶんだから)
そう心の中で言い聞かせ、ゆっくりと立ち上がる。
胸元で、アメジストが揺れた。
「ミレイナ様、お時間です。そろそろ馬車のご用意が整います」
扉の向こうから声がかかる。
その瞬間。
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
(……行こう)
ドレスの裾をそっとつまむ。
背筋を伸ばす。
そして私は、未来を変えるための最初の一歩を踏み出した。
(今度こそ――絶対に、幸せな未来を掴むんだから)
***
王宮の大広間へ足を踏み入れた瞬間。
以前にも見たことのある光景なのに、思わず息を呑んだ。
(……すごい)
遥か頭上まで続く高い天井。
そこから吊り下げられた無数のシャンデリアが、夜空に浮かぶ星々のように輝いている。
色とりどりのドレスが咲き誇る花のように広がり、髪や首元を飾る宝石が光を弾く。
そこへ、令嬢たちの笑い声や楽団の音色が重なっていた。
(……この感じ)
胸の奥が、ほんの少しざわめく。
(久しぶりだわ)
前世でも、同じ場所に立った。
けれど、ここにいる私はもうあの頃の私ではない。
父の後ろについて挨拶を交わしながら、私はさりげなく周囲を見渡した。
隣ではマリアンナが、珍しいものを見つけるたびに小さく声を上げている。
そんな妹を横目に見ながら、参加者の顔を確認していると――。
ふいに、楽団の演奏が止まった。
広間から、ざわめきが引いていく。
次の瞬間、高らかなファンファーレが響き渡った。
「第一王子殿下、ご入場です!」
誰もが一斉に、広間の入口へ視線を向けた。
ゆっくりと、大扉が開いていく。
その向こうから、一人の青年が姿を現した。
白銀の髪。
そして――淡い紫の瞳。
朝焼けを迎える直前の空のような、どこか儚い色だった。
整った顔立ちには、穏やかな微笑みが浮かんでいる。
けれど、その微笑みとは裏腹に、どこか遠くを見つめているような気配があった。
触れれば、壊れてしまいそうな。そんな儚さと、美しさを同時にまとっている。
(……綺麗な人)
思わず、そう思った。
国王陛下から冷遇されているとはいえ、第一王子。
それに、あの容姿だ。
周囲の令嬢たちも、皆一様に彼へ視線を奪われている。
けれど。
(……ダメ)
私は慌てて視線を逸らした。
(今日は、リオン殿下と関わっちゃいけないんだから)
アレン殿下が、なぜ私を婚約者に選んだのか。
前世で聞かされた理由は――。
第一王子を揶揄うため。
そして、第一王子が私に興味を持っていたから。
けれど、何をもって「興味を持っていた」と判断されたのかは分からない。
だからこそ、余計なことはしない。
リオン殿下に近づかない。
話しかけない。
目も合わせない。
それが一番安全なはずだ。
私は父の影へそっと身を隠すようにして、もう一度周囲へ視線を戻した。
すると、殿下の少し後ろに控える青年が目に入った。
束ねられた藍色の髪。凛とした青い瞳。
近衛騎士の礼装に身を包み、周囲を静かに見渡している。
(……クリステール様)
リオン殿下の側近であり、護衛も務めるエルベローズ公爵家の嫡男。
前世でも、何度か言葉を交わしたことがある。
騎士らしい厳格さよりも、どこか柔らかな雰囲気を持つ人だった。
そういえば、二年前のデビュタントでは――。
彼と踊ることを望む令嬢たちが長い列を作った、なんて話を聞いたことがある。
公爵家の嫡男。
近衛騎士。
整った容姿。
そして、穏やかな人柄。
人気が出ないほうがおかしい。
(……この人とも関わらないようにしないと)
そう思いながら、私は二人の姿を眺めていた。
――そのとき。
ふいに、リオン殿下の紫の瞳がこちらを向いた。
「……っ」
息が止まる。
一瞬。本当に、一瞬だった。
けれど、確かに目が合った。
殿下の瞳が、まっすぐ私を捉えている。
(……え?)
けれど次の瞬間には。
何事もなかったかのように、殿下は視線を逸らした。
私はしばらく動けなかった。
やがて、胸に手を当てる。
ドクドクと心臓が鳴っている。
(……気のせい、よね)
そう自分に言い聞かせる。
きっと、大勢いる令嬢の中の一人を、たまたま見ただけ。
そうに決まっている。
――そう思いたかった。
けれど、その頃の私はまだ知らなかった。
この日、新しい運命が既に動き出したことを。




