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殿下、私は運命の相手ではありません!~死に戻り令嬢は第一王子の執着に気付かない~  作者: MARUMI
第一章

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1-5.母娘の時間

 ある昼下がり。私は、母の部屋の前で足を止めた。


 ここへ来るのは、少しだけ勇気が必要だった。

 それでも、意を決して扉を軽く叩く。


「お母様、ミレイナです」


 少し間を置いてから、続けた。


「……少し、相談したいことがあって」


「どうぞ。入っていらっしゃい」


 すぐに、穏やかな声が返ってきた。


「失礼します」


 扉を開けると、母の部屋特有の柔らかな香りが鼻をくすぐった。


 窓辺には小さな花が飾られている。


 そのそばに置かれた椅子へ腰掛け、母は刺繍枠を手にしていた。


「ミレイナ。どうしたの?」


 顔を上げた母が、いつものように優しく微笑む。


 その姿を見た瞬間、胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


(……私、いつぶりかしら)


 こうして母の部屋を訪ねるのは。


 前世の私は、王子妃教育に追われていた。

 朝から晩まで勉強。礼儀作法、外交、政治、舞踏、語学。

 母に甘えたり、他愛のない話をしたり、そんな時間は、いつの間にかなくなっていた。


 それどころか、何かを相談することさえ、遠慮していた気がする。


 もう、自分は子どもではないのだから――と。


 けれど、今の私は十五歳。


 そして目の前にいる母は、生きている。

 それだけで、胸がいっぱいになった。


「お母様……あの……」


 スカートの裾を、ぎゅっと握る。


 どうしてだろう。たった一言を口にするだけなのに、妙に緊張した。


 私は一度俯き、それから意を決して顔を上げる。


「舞踏会の準備を……手伝っていただけませんか?」


 母が目を瞬かせた。けれど、すぐにその表情がほどけていく。


「まあ……!」


 花が咲くような笑顔。


「もちろんよ」


 母は刺繍枠を脇へ置くと、嬉しそうに立ち上がった。


「そんなふうに頼ってくれるなんて……嬉しいわ」


「……お母様」


 その言葉だけで、胸の奥がじんと熱くなる。


 母はそんな私を見て、少しだけ目を細めた。


「さあ、こちらへいらっしゃい」


 そう言って、鏡台の前にある椅子へ私を座らせる。


「まずは髪から整えましょうか」


「髪……?」


「ええ。少し伸びているもの」


 背後に立った母の手が、そっと私の髪へ触れた。


 櫛が髪を梳いていく。そのたびに、髪の間を指が優しく滑っていく。


「最近、あまり手入れをしていなかったでしょう?」


「……はい」


 鏡越しに母と目が合う。


「どうして分かるの?」


「母ですもの」


 クスリと笑われて、思わず私も笑ってしまう。


 この頃の私は、自分をどう見せるかなんてほとんど気にしていなかった。


 刺繍をしたり。

 庭園の花を眺めたり。

 ルーカスと遊んだり。


 そういう時間のほうが、ずっと好きだった。


「でも、大丈夫よ」


 母は私の髪をまとめながら言う。


「少し整えるだけで、ずいぶん印象が変わるわ」


 その声を聞いているうちに、不思議と身体の力が抜けていく。


 前世では、いつも緊張していた。


 何かを間違えてはいけない。


 王子妃として恥をかいてはいけない。


 もっと努力しなくてはいけない。


 そんなことばかり考えていた。


 けれど今は、ただ、母に髪を梳いてもらっている。


 それだけなのに、心の奥に溜まっていたものまで少しずつ解けていくようだった。


「ミレイナ」


「はい?」


「少し、切ってもいいかしら?」


「……切る?」


 鏡越しに母を見る。


「ええ。王都の髪結い師ほど上手にはできないけれど……」


 母が少し照れたように笑う。


「昔みたいに、私が切ってあげたいわ」


 胸の奥が、どくんと鳴った。


 少し怖い鋏の音がしても、母の温かい手が髪に触れると気持ちよくて。

 終わったら、鏡を見せてもらって「可愛い」と笑ってくれた。


 そんな当たり前の時間がいつからなくなったのだろう。


「……うん」


 気づけば、頷いていた。


「切ってほしい」


「ふふ。任せてちょうだい」


 母が小さな鋏を手に取る。


 乾いた音が、静かな部屋に響いた。


 鏡の中で、私の髪が少しずつ短くなっていく。


(……もう二度と、ないと思っていたのに)


 前世で、母は突然いなくなった。


 事故だった。


 あまりにも突然で、何も伝えられないまま、私の前から消えてしまった。


 だから、もう二度と、母に髪を切ってもらうことなんてできないと思っていた。


 それが今、背後に母がいる。

 鏡の中には、私を見つめる母の姿がある。


 その全てがあまりにも懐かしくて、視界が少しだけ滲んだ。


「……痛かった?」


「……え?」


 母の声に、はっとする。


「今、少し顔をしかめたでしょう?」


「ううん。大丈夫」


 慌てて笑う。


 鏡を見ると、目元がほんの少し赤くなっていた。


 母はそれに気づいたのか、気づかなかったのか、何も聞かなかった。


 ただ、いつもの優しい声で言う。


「そう。よかった」


 そして、また髪を梳く。


「あなたは髪が細いからね。引っかかると痛いもの」


「……うん」


 その何気ない言葉が、たまらなく愛しかった。


 私は気づかれないように、そっと深呼吸をする。


 泣いてしまわないように。


 今この時間を、涙で終わらせてしまわないように。


「ところで」


 母が鏡越しに私を見る。


「舞踏会は楽しみ?」


「……」


「今年は王子殿下方も出席されるのでしょう? きっと賑やかになるわね」


 私は一瞬、言葉に詰まった。

 けれど、ここで嘘をつく必要はない。


「……楽しみというより、緊張しています」


「緊張?」


「はい」


 私は膝の上で手を組んだ。


「ちゃんとしなきゃ、って……」


 自分でも驚くほど、素直な言葉が出てきた。


 失敗してはいけない。


 恥をかいてはいけない。


 誰かに嫌われてはいけない。


 そう考えている自分が、まだどこかにいる。


 母はそんな私を、鏡越しにじっと見つめた。


 そして。


「いいのよ」


 優しく言った。


「楽しんでしまって」


「……え?」


「確かに舞踏会には礼儀も作法もあるわ。周りの目だってあるでしょう」


 母は鋏を置き、今度は櫛を手に取った。


「でも、デビュタントは一度きりよ」


 ゆっくりと髪を整えながら、母は続ける。


「無理に背伸びしなくてもいいの」


 鏡越しに、目が合った。


「ミレイナは、ミレイナのままでいればいいわ」


「……私の、まま?」


「ええ」


 母は微笑んだ。


「あなたを好きになる人は、きっと――そんなあなたを好きになるものよ」


 胸の奥に、その言葉が静かに落ちていった。


 戦わなきゃ。


 失敗できない。


 未来を変えなきゃ。


 そう思っていたはずなのに。


 母の前にいると、ほんの少しだけ、肩の力を抜いてもいい気がした。


「……はい」


 小さく頷く。


 母は満足そうに笑った。


「できたわ」


 顔を上げる。


 鏡の中には、少しだけ雰囲気の変わった自分がいた。


 髪が整えられただけなのに、幼さの中にほんの少しだけ大人びた印象が加わっている。


「よく似合っているわ」


 母が嬉しそうに言う。


「次はドレスね」


 そう言って、私の肩に手を置いた。


「色はもう決めたの?」


「はい」


 先日選んだドレスが頭に浮かぶ。


「……紫のものにしようかと」


「ああ、あのドレスね」


 母はすぐに思い当たったようだった。


「ミレイナに似合うと思って、私が選んだのよ」


「……お母様が?」


「ええ」


 母は嬉しそうに微笑んだ。


「だから、あなたが選んでくれて嬉しいわ」


 胸が、また熱くなる。


(あのドレス……)


 他のものと少し雰囲気が違うと思っていた。


 可愛らしいピンクや白ではなく、落ち着いた紫。


 どうしてこれだけ違うのだろうと思っていたけれど。


(お母様が、私のために選んでくれていたんだ……)


「では、そのドレスに合わせてお化粧もしてみましょうか」


「お化粧も?」


「もちろんよ。せっかくのデビュタントだもの」


 母は楽しそうに笑った。


 それから、私のために一つひとつ化粧道具を選んでいく。


 頬に淡く色をのせ。


 唇に薄く色を引き。


 髪の流れを整える。


 その手は、どこまでも優しかった。


 まるで、これから始まる私の未来を、そっと送り出してくれているように。


 鏡の中で、少しずつ自分が変わっていく。


 十五歳の少女。


 これから何が起こるのかも知らない、かつての私。


 けれど今は違う。


 私は、すべてを知っている。


 それでも、母の温かな手に触れているこの瞬間だけは――。


 未来のことを忘れてもいいような気がした。

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