3-15.野営
──コンコン。
小さく扉が叩かれる音がした。
「ミレイナ嬢」
柔らかな声が耳に届く。
「……ん」
ぼんやりと瞼を開けると、目の前には見慣れた紫の瞳があった。
「あ……殿下」
少し掠れた声が漏れる。
「おはよう。よく眠れた?」
その言葉に、私はようやく自分が眠ってしまっていたことを思い出した。
(私、また殿下の前で眠って!!)
慌てて身を起こそうとして、肩に掛けられていた上着がふわりと滑り落ちる。
(もしかして、殿下の……?)
慌てて拾おうとしたところを殿下の手に制された。
「気分はどう?」
殿下は上着を拾いながら優しく問いかけてくれる。
あれほど気持ち悪かった胃のむかつきは嘘のように消えていた。
頭もすっきりしている。
「……はい。楽になりました」
「それなら良かった」
リオン殿下は心から安堵したように微笑んだ。
「寝不足もあったみたいだね」
その一言に、少しだけ頬が熱くなる。
眠るつもりなんてなかった。
話を聞いているだけのつもりだったのに、安心しきって眠ってしまったのだ。
「申し訳ありません……。こんなに眠ってしまうなんて……」
「謝ることじゃないよ」
殿下は穏やかに首を横へ振る。
「眠れる時に眠っておくのも長旅では大切だから」
その口調はどこか経験者らしく、思わず笑みがこぼれた。
「殿下も、そうなさっていたのですか?」
「最初の頃はね」
少し照れたように笑う。
「無理をして体調を崩したことも多かったから、侍従や医官によく叱られたよ」
「殿下が……?」
「信じられない?」
「少しだけ」
二人で思わず笑い合う。
その時、馬車の外から夕暮れの風が吹き込み、カーテンがゆっくりと揺れた。
窓の外を見ると、西の空は茜色に染まり始めている。
街道の脇には幾つもの天幕が張られ、兵たちが忙しそうに荷を運び、焚き火の準備を始めていた。
「もう……夕方?」
「うん」
思っていた以上に眠ってしまったらしい。
馬車が止まっていることにも、まったく気付かなかった。
少し恥ずかしくなって俯くと、リオン殿下がくすりと笑う。
「そんなに恥ずかしがらなくても大丈夫」
「でも……」
「ぐっすり眠れているのを見て、君のお付きの子も安心していたから」
その言葉に、胸の奥がまた温かくなる。
迷惑を掛けたと思っていた。
けれど、心配してくれる人たちがいて、安心して眠れたことを喜んでくれる人がいる。
それが、少しくすぐったくて、嬉しかった。
「野営は初めてだよね? 」
「はい」
前世もそうだったけど、元々進む予定だった街道が大雨の影響で使えなくなり、道の変更を余儀なくされた為、野営することになったのだ。
「不備のないように準備したつもりだけど、何かあったら遠慮なく言って」
「ありがとうございます」
馬車の扉が開くと、夕焼け色に染まった夏の終わりの風が優しく迎えてくれた。
野営地にはすでに何十張もの天幕が整然と並び始めていた。
兵士たちは荷馬車から次々と荷を降ろし、手際よく杭を打ち込み、焚き火を囲むための石を並べていく。
遠くでは料理番たちが大鍋に火を入れ始め、香ばしい薪の匂いが風に乗って漂ってきた。
「すごい……」
思わず小さく呟く。
こんなにも大勢が一斉に野営の準備を進める光景は圧巻だった。
前世でも見たはずなのに、あの頃は心に余裕がなく、景色を眺めることすらできなかった。
今こうして落ち着いて見渡すと、一人ひとりが役割を理解し、迷いなく動いていることがよく分かる。
(皆、この旅を支えているのね……)
外交という華やかな舞台の裏には、これだけ多くの人の働きがある。改めて、その重みを感じた。
「足元、気を付けて」
差し伸べられた手に視線を落とす。
「ありがとうございます」
そっと手を重ねると、リオン殿下はゆっくりと私を馬車から降ろしてくれた。
昼間より体はずっと軽い。けれど、寝起きだからか少し足元がおぼつかない。
「明日も早いから早く休んでね」
穏やかな笑みに、思わず苦笑してしまう。
午後から寝てばっかりだったのに……。
でも、本当に、この方は人のことをよく見ている。
その時だった。
「嫌ですっ!」
甲高い声が野営地に響き、周囲の視線が一斉にそちらへ向く。
そこには、頬を膨らませたマリアンナと、額を押さえるアレン殿下の姿があった。
「私はこんな所で寝るなんて聞いてません!」
「説明は受けていただろう」
「だって、本当に外で寝るなんて思わないじゃないですか!」
マリアンナは周囲の天幕を見回しながら顔をしかめる。
「虫もいますし、地面ですよ!? ベッドもお風呂もないなんて……!」
「私は貴族ですよ!」
「だから何だ。王族だって同じ条件だ」
アレン殿下の声が一段低くなる。
「そんな言い方しなくても……!」
今にも泣き出しそうなマリアンナに、近くの侍女たちが慌てて駆け寄る。
辺りには何とも言えない気まずい空気が流れていた。
私に駆け寄って来たベルが小さくため息をつく。
「マリアンナ様、大丈夫でしょうか……」
私は静かにその様子を見つめた。今までの私なら、きっと間に入っていただろう。妹を宥め、アレン殿下にも頭を下げ、どうにかその場を収めようとしていた。
けれど、マリアンナはもう子どもではない。
外交使節団の一員として参加した以上、自分で学ばなければならないこともある。
私は静かに視線を逸らした。
「……これはマリアンナが自分で理解しないと変わらないわ」
リオン殿下も、それ以上騒ぎには触れなかった。
ただ歩きながら、小さく呟く。
「初めての野営は、誰でも驚くものだから」
その声音には責める色はなく、経験者だからこその穏やかさだった。
案内された女性用の天幕は、思っていた以上に立派だった。
厚手の布で仕立てられた大きな天幕の中には、木製の簡易ベッドがいくつも並び、それぞれに柔らかな寝具が整えられている。
ランタンの優しい灯りが布越しに揺れ、外とは別世界のような落ち着いた空間になっていた。
(前世より……立派な気がする……)
回帰前はアレン殿下の婚約者として参加したのに、伯爵令嬢として参加する今世の方が気を遣われている……気がする。
「思ったより快適ですね」
ベルが安心したように笑う。
「ええ」
これなら十分眠れそうだ。ベルが手際よく着替えや湯浴みの準備を進めてくれる。
体を拭くと、一日の疲れがすっと流れていくようだった。
簡単な夕食を済ませる頃には、外はすっかり夜になっていた。
野営地のあちこちで焚き火が揺れている。
兵士たちの話し声。見張りの交代を告げる合図。草むらから聞こえる虫の声。王都では決して聞くことのない夜の音だった。
「お嬢様、まだ気分が優れませんか?」
ベルが心配そうに私の顔を覗き込む。
「もう大丈夫よ。昼間眠らせてもらったおかげで、だいぶ楽になったわ」
「それなら安心しました」
ベルは寝台の布団を整えながら微笑む。
「明日も朝が早いそうですから」
外交の旅は始まったばかりだ。まだ先は長い。
ベッドへ腰掛けると、不意に右手首へ視線が落ちた。
昼間、リオン殿下がツボを押してくれた場所。無意識に指先でそっと触れてみる。
『きっと、これから楽しい旅になるよ』
穏やかな声が耳の奥によみがえる。さっきまで苦しかったはずなのに、気付けば小さく笑みが零れていた。
「お嬢様?」
ベルが不思議そうに首を傾げる。
「ううん、何でもないわ」
ランタンの火がそっと落とされる。
天幕の外では、虫の音が静かに夜を満たし、涼しい風が布を優しく揺らした。
虫の音が静かに夜を満たし、涼しい風が布を優しく揺らした。
私は毛布を胸まで引き上げ、ゆっくりと目を閉じる。
今日一日だけでも、リオン殿下には随分と助けていただいた。
馬車酔いで動けなくなった私を気遣い、休ませてくださって、手首のツボまで押してくださった。
その優しさが嬉しくて、胸が温かくなる。
……だからこそ、駄目なのだ。
(私は恋愛しにきたんじゃない)
今回の外交で、殿下をお支えするために選ばれた一人。私情を優先してはいけない。
それに――。
今日お会いしたアルティナ様の優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。
殿下から「ミレイナ嬢を支えてほしい」と頼まれたのだと、あんなにも嬉しそうに話してくださった。
あの方はきっと、この外交を成功させたいと心から思っている。
(私も、ちゃんと向き合わないと)
二か月も旅を共にするのだ。
アルティナ様とは、敵対するのではなく、支え合える関係になりたい。
そう思った時だった。
「ミレイナ嬢。少しお時間よろしいでしょうか」
聞き覚えのある声に、私は慌てて起き上がった。
「ロアン様?」
幕の外に立っていたのは、眼鏡の奥にいつもの冷静な光を宿したロアン・キャンベル様だった。
「夜分に申し訳ありません」
「いえ、大丈夫です。どうされたのですか?」
するとロアン様は、周囲を一度確認してから静かに口を開いた。
「少し、お伝えしておきたいことがありまして」
その言葉に、自然と背筋が伸びる。
外交中の夜に、わざわざ私の元へ来るほどの話。
きっと何か重要なことなのだ。
「ミネルヴァ王国について、先日お話しされていた件ですが」
「あ……」
王宮書庫室でのことを思い出す。
ペリーヌ商会。品薄になった薬草。減少していた輸入量。
「調査を進めました」
ロアン様は小さく息を吐く。
「まず、ペリーヌ男爵についてですが……婿養子のようで、その本質をまだ掴めていません」
「そうですか……」
私は静かに頷く。
前世では、アレン殿下に近付いた人物としてしか覚えていなかったけれど、こうして調べてみると、その背後には別の顔がある気がした。
「そして、もう一つ」
ロアン様の表情が僅かに険しくなった。
「ミネルヴァ王国へ、こちらから追加で密偵を送りました」
「……密偵を?」
「はい」
私は息を呑む。
「ミネルヴァ国内で何か起きているのか。それを確認する必要があるとリオン殿下が判断されました」
「もちろんミレイナ嬢のことは話していません」
「ありがとうございます……」
「礼を言われることではありません」
そう言ってから、ロアン様は少しだけ視線を落とした。
「ただ、一つ気になる報告があります」
「何でしょうか」
「ミネルヴァの北部地方で小競り合いが何度かあったようです」
「小競り合い……ですか?」
「どうやら畜産業の急激な拡大によって管理が追いついていないようですね」
胸の奥に、嫌な予感が広がる。
「……薬草が育つ土地にも、影響が?」
「可能性はあります」
ロアン様は静かに頷いた。
「ですが、まだ確証はありません。現在、密偵からの報告を待っているところです」
私は拳をそっと握った。
前世では、外交に同行するだけで精一杯だった。国同士の交渉の裏側で何が起きているのかなんて、考える余裕すらなかった。
だから、アレン殿下が誰に何を吹き込まれたのかも。その背後に何があったのかも、何も知らなかった。
(今度は……)
同じ未来を繰り返さない。
「ロアン様」
「はい」
「もし、ミネルヴァ国内で何か起きているのなら……外交にも影響しますよね」
「ええ。だからこそ、早めに確認する必要があります」
私は小さく頷いた。
「分かりました。私もできることがあれば協力します」
「ありがとうございます」
ロアン様は一礼すると、少しだけ表情を和らげた。
「ですが、今日はもう休んでください」
「……?」
「馬車酔いが酷かったとお聞きしました。長旅の初日から無理をして体調を崩される方が、私は困ります」
「す、すみません」
「いえ、こちらこそお疲れのところ失礼しました」
ロアン様が去った後、私は再び寝台へ戻った。
不安は消えない。けれど、不思議と先ほどまでの胸の痛みは薄れていた。
(明日から頑張らないと……)
まずはアルティナ嬢とお話をしよう。
そう思って、私は静かに目を閉じた。




