3-14.馬車
王都を出発して数時間後には、窓の外には、どこまでも続く緑の草原が広がっていた。
夏の日差しは眩しいけれど、吹き抜ける風は涼しく、窓から入り込む風が揺れるカーテンを優しく膨らませる。
前世にも見た景色。
けれど、今はその景色を楽しむ余裕があった。
……最初の二時間までは。
けれど二時間ほど過ぎた頃から、馬車が石を乗り越えるたびに胃がふわりと浮く。
揺れに合わせて視界まで揺れているようで、だんだん口数も減っていった。
(もう、だめ……)
馬車が揺れるたび、胃の奥がふわりと浮き、口の中に唾が溢れてくる。
込み上げてくる物を我慢するように、私はそっと口元にハンカチをあてた。
(気持ち悪い……)
ここ最近、あまり眠れていなかったせいだろうか。
けれど、外交使節の一員として参加する以上、こんなことで弱音は吐けない。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
向かいに座るベルが心配そうに覗き込む。
「ええ……」
気の利いた返事をすることも出来ない私にベルはそれ以上何も言わず、小さく眉を下げた。
お昼を回った頃、一行は街道沿いの広場で最初の休憩を取ることになった。
馬車が止まると、従者たちが慌ただしく動き始める。
「少し外の空気を吸いましょう」
ベルに支えられながら馬車を降りると、心地よい風が髪を揺らした。
(……助かった)
風が心地良く、馬車の中よりずっと楽だ。
「大丈夫か?」
顔をあげると、ルイが心配そうにこちらに歩み寄ってきた。
「……うん」
「馬車酔いか?」
「……うん」
「無理して我慢するなよ。吐けるなら吐いた方が楽になる」
「で、でも……」
「吐けないなら手伝うけど……」
手伝うって……口に指を入れて吐かせるってことよね……。
(そんなの、恥ずかしすぎるわ!)
いくらルイでも吐いているところを見られるのは嫌だ。
「……大丈夫」
「だったら、そうだなぁ……」
「じゃあ、とりあえず次の休憩まで俺の馬に乗るか?」
「どうして?」
「外の景色を見る方が酔いにくいだろ」
「そういうもの?」
「まぁ試してみな」
しばらくして、ルイが手綱を引いて馬を連れて来た。立派な黒い馬は、明らかに他の馬より毛並みがよく、しっかりと愛情を持って世話をされているのが分かる。
「綺麗な子……」
「だろ! こいつは――」
「ミレイナ嬢」
聞き慣れた声に振り返ると、リオン殿下がこちらへ歩いてくる。
(待って……今一番会いたくない人)
だってきっと酷い顔をしている。こんな顔、殿下には絶対見られたくない。
だけど、声をかけられた以上、逃げる訳にもいかない。
「殿下、お疲れ様です」
ルイと一緒に立ち上がって頭を下げる。
「顔色があまり良くないね。大丈夫?」
そんなに酷い顔をしていただろうか。私は慌てて笑みを作る。
「少し馬車に酔っただけです」
「少し所じゃないだろう。今にも吐きそう——」
「ルイ!」
思わず声を上げると、ルイは困ったように頭をかいた。
「事実を言っただけだろ」
「それでも——」
反論しようとしたが、そこで気持ち悪くなり、思わず口を抑える。
「酔うと辛いでしょ。とりあえず座ろっか」
殿下は私を近くの木陰に座らせると、人払いをしてくれた。
「うぅ……」
耐えきれなくなって思わずうずくまる私に殿下は「失礼するね」と一言断って背中にそっと手を添えてさすってくれる。
暫くすると気持ち悪さはだいぶ良くなった。
第一王子である彼の貴重な休憩時間を私に使わせてしまった。それに、こんな醜態を見せてしまうなんて……。
(こんなことなら、大人しくルイについて行けばよかったかな)
ちょうどその時、クリステール様がカップを二つ持ってきた。殿下はそれを受け取ると、片方を私に渡す。
「馬車酔いに効くハーブティーです」
「ありがとうございます」
受け取った生姜の効いたハーブティーはスッキリしていて、気持ち悪くても不思議と飲むことができた。
「だいぶ落ち着きました」
「それは良かった。実は私も馬車移動が苦手でね」
「そうなのですか?」
確か前世でも殿下は視察や外交で長旅の公務を沢山こなされていた。それに前世でサウザンド国に行く時も辛そうな素振りは一切見せていらっしゃらなかったはず。
「王族らしくないでしょ」
殿下はまるで自分のことではないようにふっと笑う。
「でも、何度も長旅をしているうちに対策だけは覚えた。馬車酔いは揺れが少ない馬車の方が起きにくい。また辛いようなら私の馬車へおいで」
「……!」
「揺れが少ないし、辛かったら横になれるから」
「そんな!恐れ多いです!」
私は慌てて首を横に振った。
今、リオン殿下の馬車に同乗するのは、この前送って貰ったのとは訳が違う。
「どうして?」
「どうしてって……」
(アルティナ様は……?)
本来なら、殿下のお傍にいらっしゃるのは私ではなく、アルティナ様なのではないだろうか。
私が同じ馬車に乗れば、周囲に余計な誤解を与えてしまうかもしれない。
(もし、そのせいでアルティナ様との関係まで悪くなってしまったら……)
そんなことだけは避けたかった。
「私は使節団の一員ですので……」
「だけど、辛いでしょ?」
言葉に詰まる。リオン殿下は穏やかな表情のまま続けた。
「それに馬車の中なら、外に会話も漏れにくいから今後の打ち合わせもしやすいし」
「それは……」
確かに、その通りだった。
「私は君が来てくれた方が安心できるけど」
その一言で、何も言えなくなった。
そんな私を見ていたクリステール様が、すっと一歩前へ出た。
「では私は別の馬車へ移りますよ」
「……クリス?」
リオン殿下が目を丸くする。
「ちょうどルイス殿と打ち合わせしたいことがありましたので、馬で移動します」
そう言って恭しく一礼する。
けれど、その口元はほんの少しだけ笑っていた。
(絶対、変に気を遣われている気がする……)
そう思ったけれど、口にはできない。
気付けば話はすっかりまとまっていた。
「ついて来て」
リオン殿下が立ち上がり、いつものように自然に手を差し伸べてくれる。
だけど、私は一瞬ためらってしまった。
「それとも抱き上げて行った方がいい?」
「だ!大丈夫です!」
顔を真っ赤にしてパニックになる私を見た殿下は吹き出すように笑う。その笑顔が眩しくて、私は更に頬を赤くした。
(こんなことしてる場合じゃないのに……)
「じゃあ行こうか」
殿下がもう一度差し出してくれた手に、私は躊躇いながらもそっと自分の手を重ねた。
馬車に乗り込むと、ふと、前回殿下に会った日のことを思い出した。
(待って……今思えば、私……あの日に逃げてから、殿下と二人きりになるの初めて……)
忙しさと、外交への緊張、それにアルティナ様の登場ですっかり忘れていた。
何か言わないとと思って視線を上げると、リオン殿下と目が合って、私は慌てて視線を逸らす。
急に何を話せばいいのか、分からなかった。
ふと、殿下の胸元に、差し上げたものとは違うピンが留められていることに気付く。
ほんの少しだけ。本当に少しだけ、外交につけてきてくださったら嬉しいと思っていた私は、小さく胸が痛んだ。
(……当然よね)
王族なのだから、装いに合わせて使い分けるアクセサリーなど幾つもお持ちなのだろう。
それに――。
(婚約者候補のアルティナ様がいらっしゃるのに、私がお贈りしたものを身に着けられる訳がないわ)
むしろ、あの時の私は何を考えていたのだろう。
婚約者候補の方がいらっしゃるお相手にアクセサリーを贈るなんて。
(アルティナ様に、お嫌な気持ちを抱かせてしまっていたら……)
それに、殿下にも変に気を遣わせただけだったかもしれない。
そう考えると、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
(……私、本当に馬鹿)
舞い上がって、殿下に婚約者候補がいらっしゃることを忘れるなんて――。
その時、馬車をノックする音が響く。
「殿下、出発の準備が整いました」
「隊列はそのままで、予定通り出発して」
「承知しました」
リオン殿下がこうやって指示を出されている姿を初めて見たから、ついつい見てしまう。
「ミレイナ嬢はコロコロ顔色が変わるね」
「え?」
「楽しそうにしていると思ったら、急に考え込んだり……何か気になることでもあったのかな?」
「そ、そんなこと……ありません」
出発の合図の後に馬車が静かに動き始める。
殿下が開けてくださった窓から吹き込む風が心地良かった。
しばらく揺れに身を任せていると、酔いは楽になったものの、まだ胸の奥に重たい感情が残っていた。
「まだ少し辛そうだね」
殿下の穏やかな声が耳に優しかった。
「……少しだけ」
本当は酔ってるからじゃない。なのに、リオン殿下は少し考えるように視線を落とした。
「もし嫌じゃなければ、手を貸してもらえる?」
「手……ですか?」
「昔、視察の途中で医官に教わった酔いに効くツボがあって」
そう言われて、おずおずと右手を差し出すと、殿下の長い指が、そっと私の手首を包んだ。
親指が手首の内側をゆっくり探り、ある一点を優しく押した。
「痛くない?」
鈍い痛みが走る。
「少しだけ」
「少し緩めるね」
(酔いを口実に殿下に近付くなんて……)
駄目だって分かっているのに、その手を解くことが出来なかった。
「少しでも効くといいんだけど」
「……ありがとうございます」
「昔、南方に行った時の馬車酔いが酷くてね。その時はよく効いたんだ」
「南方は蒸し暑いし、街道が荒れていてよく揺れる」
「でも、見た事がないような果物はいっぱいあるし、港町が栄えてて楽しかった」
その話を聞いているだけで、まだ見ぬ景色が目の前に広がっていくようだった。
「きっと、これから楽しい旅になるよ」
優しい声が、一定の馬車の揺れと重なる。
「……はい」
返事をしたつもりだった。けれど、自分の声は思っていたより小さく、遠かった。
不思議だった。
さっきまであんなに色々な感情がグルグルしていたのに、手首を包む温もりと、穏やかな声を聞いているだけで身体から力が抜けていく。
瞼が少しずつ重くなる。
「眠くなった?」
優しく問いかけられる。
「……少し、だけ……」
寝てはいけない。そう思うのに、睡魔には勝てなかった。
「眠っていて大丈夫」
殿下の静かな声が耳に届く。
「目的地に着いたら、ちゃんと起こすから」
その言葉に安心した途端、張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
私は馬車の心地よい揺れと、リオン殿下の穏やかな声に包まれながら、静かに眠りへと落ちていった。




