3-8.寄り道
外交の資料をまとめ終えると、リオン殿下は机の上へ書類を整え、小さく息をついた。
「それじゃあ今日はここまでかな」
その様子を見ていたロアン様も書類を抱えながら立ち上がる。
「では殿下、私はこの後、外務局との打ち合わせがありますので失礼いたします」
「ありがとう」
ロアン様は私にも一礼すると、静かに執務室を後にした。
「本日はありがとうございました。とても勉強になりました」
「こちらこそ」
私が頭を下げると、リオン殿下は柔らかく微笑む。
「思っていた以上に理解が早くて助かったよ」
前世で学んだことが、ちゃんと今の私の力になっている。そう思うと、嬉しかった。
(だけど、それを殿下には言えない……)
「資料と照らし合わせながら考えてみました」
「それでも十分すごいことだよ」
そんな風に真っ直ぐ褒められると、少し後ろめたくて、私は視線を逸らしながら、小さく礼をした。
「それでは私も失礼いたします」
そう言って踵を返そうとした時だった。
「ミレイナ嬢」
「はい」
「帰りは送るよ」
あまりにも自然に言われて思わず目を瞬かせる。
「えっ……でも、ご公務がおありでは」
「今日はもう終わり」
殿下は外交の準備に普段の政務もあるからお忙しいはず。私は断る理由を探した。
けれど、その前にクリステール様が苦笑した。
「殿下は今日の午後の公務を既に調整されています」
「クリス」
いつもの殿下とは少し違う口調に、私は思わず小さく笑ってしまう。
「では……お言葉に甘えます」
「うん。じゃあ行こうか」
***
部屋を出ると、リオン殿下が自然に私の隣へ並ぶ。
クリステール様は少し後ろを歩き、周囲へ鋭い視線を向けていた。
さっきまで穏やかに話していた人とは思えないほど、護衛としての表情になっている。
(隙がない方……)
別宮から静かな回廊に出ると、窓から差し込む初夏の陽射しが白い床へ映り込み、庭園から吹き込む風が心地良い。
回廊には三人の足音だけが響いていた。
「今日は暑いね」
不意にリオン殿下が話しかけてくださる。
「はい。夏真っ盛りですね」
「サウザンド国は王都より涼しいから、向こうへ着いたら夜は冷えそうだね」
「服装を気をつけないといけませんね」
「そうだね」
そんな何気ない会話を交わしながら歩く。
外交の話が終わったからか、不思議と肩の力が抜けていた。
王宮の回廊を歩いているはずなのに、殿下の隣は妙に心地良くて、気まずい沈黙もなければ、無理に話題を探す必要もない。ただ隣を歩いているだけで自然と心がワクワクする。
やがて馬車止めが見えてきて、御者が恭しく扉を開くと、リオン殿下はこちらを振り返った。
「そうだ。帰る前に少し寄りたい場所があるんだけど、時間は大丈夫?」
「寄りたい場所……ですか?」
「うん」
その表情はどこか楽しそうだった。
「もちろん都合が悪ければ伯爵邸まで送るけど」
そこまで言われて断る理由は思いつかない。
「大丈夫です」
「ありがとう」
そう言う殿下は本当に嬉しそうに笑うものだから、どこへ向かうのか少しだけ気になった。
馬車がゆっくりと王宮を後にする。窓の外には、夏の日差しに照らされた王都の街並みが流れていた。
「そういえば、外交用のドレスはもう仕立てた?」
その問いに私は首を横へ振る。
「それが、まだできていなくて……」
「やっぱり」
どこか予想していたように微笑む。
「外交では歓迎式典や晩餐会、茶会も続くからね。
何着か必要になるから、準備も大変だよね」
「はい」
「今日はそのために誘ったんだ」
「……え?」
「外交で着るドレスを揃えようと思って」
思わず瞬きを繰り返す。
「ですが、そのようなことまで殿下に……」
「外交では私の侍女になってくれるんでしょ?」
その言葉に、思わず息を呑む。確かに今回の外交で私は殿下の傍に立つことになるけれど……。
「ミレイナ嬢」
優しく名前を呼ばれる。
「私が贈りたいんだけど、駄目だった?」
リオン殿下は柔らかく笑う。私はこの人の笑顔に弱い。
それに、個人としてではなく、第一王子側の一員としてなら、装いもまた外交の一部なのだろう。
「ありがとうございます。
殿下の隣に恥じないよう、精一杯努めます」
「うん。少し方向性が違う気がするけどね」
その様子を向かい側から見ていたクリステール様がクスリと笑う。
「何? クリス」
リオン殿下は何食わぬ顔で首を傾げた。
「なんでもございません」
クリステール様はそれ以上何も言わなかったが、その目は楽しげに細められていて、私は思わず笑みをこぼしてしまう。
そんな私を見て、リオン殿下もつられるように笑った。
馬車の中の空気が、ふわりと和らぐ。
(リオン殿下とクリステール様の関係性って、少し羨ましい……)
やがて馬車は王都でもひときわ華やかな大通りへ入っていく。高級宝飾店、老舗の香水店、格式高い帽子店。普段は滅多に訪れることのない区域だ。
そして、王都でも名高い仕立て屋の前で馬車がゆっくりと止まった。
リオン殿下が窓の外を確認し、小さく頷く。
「着いたね」
恐る恐る窓の外を見ると、磨き上げられたガラス窓に白を基調とした美しい外観の建物が目に入る。
そこにあったのは、王族御用達として有名な仕立て屋だった。
(確か……半年待ちは当たり前だって聞いた気が……)
クリステール様が先に馬車を降り、周囲を一通り確認してから扉を開ける。
「人払いは済んでおります。どうぞごゆっくり」
「ありがとう」
リオン殿下は立ち上がると、私へ穏やかな笑みを向けた。
「行こうか」
馬車をおりると、入口には貸切を示す札が掛けられている。
その時、店の扉が開き、一人の女性が慌てて外へ出てきた。
四十代ほどだろうか。上品な濃紺のドレスに身を包み、銀色の眼鏡を掛けた凛とした女性。彼女は王家御用達仕立師――エレノア・グレイス。
回帰前、第二王子妃だった時にお世話になったことがある。
女性はリオン殿下を見るなり深く一礼した。
「第一王子殿下。本日はお越しいただき光栄です」
「無理を言って申し訳ないね。感謝するよ」
「とんでもございません。まさか殿下が女性をお連れになる日が来るなんて……」
(絶対、何か勘違いされてる気がする……)
二人のやり取りに私は居た堪れなくなってきた。
そんな私にグレイス夫人はゆっくりと一歩近付く。
「ミレイナ様、私はエレノア・グレイスと申します。本日はどうぞよろしくお願い致します」
「こちらこそよろしくお願い致します」
グレイス夫人は頭を上げると、彼女は職人らしい真剣な眼差しで全身を見つめる。
「なるほど……綺麗な方ですわ」
「え?」
「背筋も、首筋も鎖骨のラインも、とても美しいですわ。これは作り甲斐があります」
「ミレイナ様。失礼ですが、少しだけ歩いていただけますか?」
「あ……はい」
私は戸惑いながら数歩歩く。それを見たグレイス夫人は満足そうに息を吐いた。
「……ええ、やはり、さすが殿下のお眼鏡にかなった方ですわ」
「エレノアの腕は信用しているから、よろしくね」
「お任せ下さい! では早速、採寸から始めましょうか」
「行ってらっしゃい。楽しんできてね」
殿下はニコやかな笑顔で手を振って、フィッティングルームに向かう私を見送ってくれた。




