3-6.執務室
それから数日間、王宮から届けられた資料と向き合う日々が続いた。
サウザンド国の歴史、王族の家系図、主要貴族の名前、外交儀礼。
前世の記憶と照らし合わせながら確認することで、より正確な出来事を思い出すことができた。
けれど、資料を読み進めるほど、ひとつの違和感が浮かび上がる。
確か前世で、アレン殿下は最初から外交に否定的だったわけではない。
積極的に行動することは少なかったけれど、リオン殿下の方針を邪魔することもなかった。
なのに――
(確か変化したのは、三日目の視察の後)
あの視察で、アレン殿下に近付いた人物がいた。
「確か……カルベン・ペリーヌ男爵」
私は手元の名簿をめくる。
サウザンド国との外交に関わる主要貴族の一覧。
けれど、何度確認してもその名前は見つからなかった。
(どうして……?)
考えられる可能性はいくつかある。
偽名だったのか。あるいは、この資料に載っていない新興貴族なのか。
もし彼がアレン殿下を唆したのなら何者なのかを知る必要がある。
「少し調べてみよう」
外交に必要な情報収集という理由なら、王妃に王宮書庫室の利用許可を求めることができる。
そして、サウザンド国に詳しいカルヴァン男爵にも話を聞けるはずだ。
(使えるものは、全部使わなくちゃ)
私は早速、王妃宛の手紙を書いた。
やることは多かった。家庭教師の仕事は休みを取る必要があるし、伯爵家の仕事も父と相談しなければならなかった。
外交用にドレスや装飾品も揃える必要がある。
だけど、マリアンナの課題を代行している時とは全く違う気持ちだ。
「お嬢様、少しお休みください」
ベルが温かな紅茶を置いてくれる。
「ありがとう。でも、大丈夫」
そう言って、再び資料に目を通そうとした時だった。コンコンと扉が叩かれる。
「お嬢様、お手紙です」
執事が銀のトレーを持って入ってきたので、私は何気なく顔を上げ、そして固まった。白い封筒には王家の紋章が記されていたからだ。
王妃だろうか。何か追加の指示か、それとも外交について何か変更があったのだろうか。
もし、それがリオン殿下に関わることだったら――。
そんな嫌な予感を抱きながら封筒を手に取る。
だけど、差出人の名を見て全ての不安が杞憂だったと思い知る。
リオン・ノクス・ウィステリア
その名前を見た瞬間、心臓が跳ねて、思わず二度見する。
見間違いではない。間違いなくリオン殿下の名前だった。
(リオン殿下の名前で初めての手紙だ……)
封を切ると、中には丁寧な文字で書かれた案内状が入っていた。
『サウザンド国訪問に関する最終説明を行います。○月○日、午前十時に執務室にお越しください。』
流れるような美しい文字。見慣れているはずなのに、今日はなぜか少し違って見える。
形式ばった文章の最後には、ほんの一行だけ手書きで言葉が添えられていた。
『また会えるのを楽しみにしているね』
思わず、その一文をもう一度読み返す。
「お嬢様?」
「あ……何でもないわ」
慌てて手紙を畳むけれど、頬が少し熱い。
(殿下にお会いできる)
そう思っただけで、不思議と胸が軽くなる。私はそっと案内状を胸元へ抱き寄せ、小さく微笑んだ。
***
約束の日。私は少し早めに王宮へ到着していた。
玄関口に向かうと、既に一人の青年が立っている。
結ばれた藍色の髪が初夏の風を受けて揺れ、青い瞳が私を見つけてふわりと綻ぶ。
「ミレイナ嬢、ようこそいらっしゃいました」
彼は品よく会釈しながら歩み寄ってくる。
「クリステール様、お忙しいところお出迎えくださりありがとうございます」
「今日は私がご案内するよう、殿下から仰せつかっておりますから。どうぞ、緊張なさらずに」
「で、殿下がですか……?」
「はい」
別宮の廊下を並んで歩く間、クリステール様は穏やかで話しやすい空気を作ってくれた。
「ミレイナ嬢は本日はこの後、ご予定はありますか?」
「いえ、終わりの時間が分からないので念の為に空けておりますが……」
「そうですか、それは安心しました」
「……?」
本宮や第二王子がいる東宮とは違い、廊下を行き交う文官や騎士たちは慌ただしく動いているにもかかわらず、不思議と張り詰めた空気はない。
必要以上に声を荒げる者もいなければ、焦った様子で走り回る者もいない。
皆が自分の役目を理解し、無駄なく動いている。
(すごい……)
前世でも別宮に招かれたことは一度も無かったので、ここを尋ねるのは初めてだった。
目的の部屋の前には近衛兵が立っていて、彼らはクリステール様の姿を確認すると、扉をノックした。
「エルベローズ公子がお戻りです」
「通して」
扉が開くと、そこにはいつもの穏やかな笑みを浮かべたリオン殿下が立っていた。
その隣にはロアン・キャンベル様もいる。
「よく来たね」
窓から差し込む光の中に立っているリオン殿下は、相変わらず誰もが見惚れる美貌で、白銀の髪をキラキラと光らせている。
私は慌ててスカートを持ち上げて頭を下げた。
「ウィステリアに祝福をもたらす御方に栄光がありますよう……」
「そういう堅苦しいのは大丈夫。ここは身内しか居ないから緊張しないで」
「……はい。ありがとうございます」
そう答えたものの、やっぱり緊張する。顔を上げると、そこは立派な執務机、その前には豪華なソファーが目に入り、壁側には沢山の書物が置かれている。
(殿下の執務室……)
執務に必要な物しか置かれていないのに、不思議と冷たい印象はない。
(こんなことを考えている場合じゃないのに……)
「そういえば、ミレイナ嬢はロアンとは初対面かな?」
リオン殿下は隣に立った黒髪に眼鏡姿の青年に視線を向ける。
もちろん彼のことは知っている。キャンベル公爵の嫡男であるロアン・キャンベル様。
ウィステリアの三大公爵家の一つであるキャンベル公爵家は宰相補佐官を務める由緒正しい家柄だ。
前世でも彼の笑った顔を一度も見たことが無かった。
そして、今世では殿下の仰る通り、初対面だ。
「ミレイナ・フェリエールと申します。よろしくお願いします」
ロアン様に挨拶すると、彼は長い人差し指と中指でクイッと眼鏡を正し、書類を見る時と同じような冷静な視線をこちらに向けた。
「ロアン・キャンベルです。妃教育で出された北方諸国に関する文書は拝見しました。その知識を今回の外交で活かしていただけると助かります」
(あれ……?)
前世では、こんなにお話ししてくださるイメージがなかったので少し驚いてしまった。
「ありがとうございます」
ロアン様との挨拶を終えた後、席に着いた私の前にクリステール様が今日の資料を配ってくださった。
「ミレイナ嬢、外交の話の前に今回の件について私から話させて貰ってもいいかな?」
柔らかな声音だったけど、その表情を見た瞬間、私は姿勢を正した。
空気が変わった。先程までの穏やかな雰囲気ではなく、真剣なお顔。
「はい」
私が頷くと、殿下は少しだけ視線を伏せ、小さく息を吐いた。
「実は君が王妃に呼ばれる前日に、名簿を見て君の使節団入りを知っていた」
その一言に、胸が小さく揺れた。
私は膝の上でそっと手を重ねる。
「……はい」
それ以上、何と言えばいいのか分からなかった。
リオン殿下は私の表情を見つめるように一瞬だけ目を細め、それから静かに続ける。
「本当は、君を連れていきたくはなかった」
その言葉に、思わず顔を上げた。目が合うと、殿下は苦く笑う。
「だけど、それは叶わなかった」
白い指先が書類の端をそっとなぞる。
「王妃は既に君を使うことを決めていた。あの時点で、今の私には君を外交から外すことはできなかった」
穏やかな口調なのに、その声にはわずかな悔しさが滲んでいた。
「だから私は、せめて君を兄上の側ではなく、私付きとして同行させるよう話をした」
私は息を呑む。頭の中で、王妃との会話が蘇った。
『少し面倒な話になったけれど、最終的には第一王子付きとして調整してあるわ』
あの言葉の意味が、今になってようやく繋がった。
(……殿下だったんだ)
私が第一王子付きになったのは、偶然でも、王妃の気まぐれでもなかった。
殿下が動いてくださっていたから。
胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
「……ありがとうございます」
私の言葉に、リオン殿下は静かに目を伏せた。
どこか、困ったように。苦しそうに。
その姿を見て、ようやく分かった。
殿下もまた、この選択を苦しみながら決めたのだと。
そう思うと、自然と声が零れた。
「確かに不安ですし、少し怖いです」
リオン殿下が顔を上げる。
「でも、リオン殿下のお傍でお手伝いできると思うと、私は嬉しいです」
一瞬だけ、紫の瞳が揺れた。
その優しい沈黙を破るように、ロアン様が軽く咳払いをした。
「殿下。そろそろ本題へ。説明だけで午前中が終わってしまいます」
「ああ、そうだったね」
リオン殿下は苦笑しながら机の上の書類を手に取る。
「それじゃあ始めようか」
その瞬間、殿下の表情は執務にあたる王子のものへと切り替わった。




