3-1.予兆
あの日から少しずつ何かが変わり始めたのだと思う。
話を終えたあと、リオン殿下は「送っていくよ」と当然のように言ってくださった。
私は遠慮したけれど、結局押し切られる形で馬車へ乗せられた。
緊張していたはずなのに、不思議だった。
隣に殿下がいるだけで、今まで張り詰めていた糸が少しずつほどけていくようで、気付けば私は、そのまま眠ってしまっていたらしい。
次に目を開けた時には、見慣れた天井が視界に広がっていた。
「……え?」
寝ぼけた頭で辺りを見回すと、伯爵邸の私室のベッドの上だった。
「お嬢様、お目覚めですか?」
ベルが呆れたように笑う。
「子爵様がここまで送ってくださいましたよ」
「えっ……!」
思わず飛び起きる。
「起こそうとされたそうですが、あまりにもぐっすり眠っていらしたので、そのまま寝かせて差し上げてくださいと」
顔から火が出そうだった。
(わ、私……殿下の前で眠ってしまったの!?)
恥ずかしくて布団へ潜り込みたくなったが、それ以上に心配なことがあった。
「え!待って!ベルは子爵様の顔を見たの?」
「いいえ。エルベローズ公爵家の方が人払いされたので誰も見てませんわ」
その一言にホッとした。
それと、その日からマリアンナが伯爵邸に来ることは無くなった。
本当なら喜ぶべきことだった。睡眠時間も少しずつ戻り、家庭教師の仕事にも集中できるようになった。
それなのに。胸の奥には小さな黒い靄が残っていた。
(……きっと)
リオン殿下が、マリアンナの公務を代わりに支えてくださっている。
あの子が困れば、殿下はきっと今日も優しく笑っているのだろう。
そう思うたびに、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
(変なの……)
助かったはずなのに、もう無理をしなくていいはずなのに。
どうしてこんなに落ち着かないんだろう。
「はぁ……」
殿下は伯爵家に恩があると言っていた。
リオン殿下は、今頃マリアンナの隣にいるのだろうか。その想像だけで、胸がちくりと痛んだ。
そんなある日だった。
デジャブのように半泣きのマリアンナが伯爵邸に飛び込んできた。
「お姉様ぁぁぁ!!」
妹が差し出した紙に目を落とすと、そこにはサウザンド国訪問の行程が書かれている。
その文字を見た瞬間、私は思わず目を閉じた。
(もうこの時が来てしまった……)
それまでに何とかマリアンナに教養をつけて、アレン殿下の横暴を阻止して貰うつもりだったのに、何も出来なかった。
むしろこのままでは妹こそが懸念材料になりかねない。
目を開くと、ソファではマリアンナが期待に満ちた顔でこちらを見ていた。
「お姉様も一緒に来てください!」
「無理よ」
マリアンナが固まる。どうやら断られるとは思っていなかったらしい。
「え? どうしてですか?」
「どうしても何も……」
私は小さくため息を吐いた。
どうして一国の外交行事に伯爵令嬢が随行できると思っているのか。
この子は王族や王子妃の立場をまるで分かっていない。
「外交よ? 国内のお茶会ではないの」
「それくらい分かってます」
「分かっていないわ」
少しだけ声が厳しくなった。
「あなたは国家を代表して行くんでしょ? アレン殿下の婚約者として」
「でも!」
「私には同行する理由がないわ」
「あります!」
マリアンナは身を乗り出した。
「私が不安です!」
「それは理由になりません」
「なります!」
「なりません」
「なりますってば!」
子供のような押し問答だった。ベルが横で視線を逸らしている。笑いを堪えているのだろう。
「お姉様がいないと困るんです」
「大丈夫よ」
「大丈夫じゃありません!」
「アレン殿下もいらっしゃるでしょう?」
「殿下は私が優秀だと勘違いしています」
「侍女もいるでしょう?」
「お姉様ほど信用できません」
「外交官は?」
「難しい話しかしません!」
「カルヴァン男爵も外交官として同行するでしょう?」
「先生は怖いです!」
駄目だ。話にならない。私は額を押さえた。
マリアンナは本気で言っている。本気だから困るのだ。
「マリアンナ」
私は静かに妹の目を見る。
「あなたはもう、王子妃になる人間として選ばれたのよ。誰かに頼ることは悪いことじゃない。
でも、自分が果たすべき責任まで他人に預けてはいけないわ」
マリアンナは唇を噛む。その顔はどこか悔しそうだった。
「お姉様は私が恥をかいてもいいの?」
その一言に胸が少しだけ痛んだ。
「……違うわ。だけど、今回は諦めて」
そう告げると、マリアンナは俯いたまま動かなかった。
しばらくして、小さく頷く。
「……分かりました」
その声は震えていて、私は少しだけ胸が痛んだけれど、今回はこれでいい。
いつまでも妹の代わりにはなれないのだから。
帰り際、玄関で見送る私に向かって、マリアンナは一度だけ振り返った。
「……本当に来てくださらないんですね?」
「ええ」
迷わず答えると、マリアンナは寂しそうに笑って、そのまま馬車へ乗り込んでいく。
私は少しだけ申し訳ない気持ちになりながらも、小さく息を吐いた。
玄関先から見送る馬車が、小さくなっていく。
その背を見届けながら、私はようやく肩の力を抜いた。
(これでいい)
そう思っていた。
私は、この時まだ知らなかった。
この小さな”拒絶”が、王宮にいる一人の女性の耳へ届いてしまったことを。
***
三日後、王宮から正式な召喚状が届いた。差出人は王妃だった。
私は紙を見つめたまま小さく息をつく。
「……ベル」
「はい」
「何かしたかしら、私」
「心当たりはないのですか?」
「ないわ」
「では……マリアンナ様でしょうか」
その答えに嫌な予感が強くなる。
(誰かに相談するべき……だよね)
真っ先に浮かんだのは、あの藤色の瞳だった。相談すれば、きっと殿下は助けてくださる。
(でも、駄目)
これは伯爵家の問題。殿下を巻き込めば王家の継承権争いに影響してしまうかもしれない。
(大丈夫。ただ王宮に呼ばれただけ……)
私はその日、眠れない夜を過ごした。




