2-20.雨上がり
「殿下を欺くつもりは――」
「違う」
低い声が部屋に響くと、視界の端で白銀の髪が揺れる。
驚いて顔を上げると、リオン殿下が目の前に膝をついていた。
「殿下、お辞めください!」
「違うんだ」
その声は、いつも飄々としている殿下のものだとは思えないくらい余裕が無くて、少し震えていた。
「私は君を責めるために呼んだんじゃない」
「ですが……私は――」
「俺の話を聞いて」
“俺”その一人称に、思わず目を見開いた。
殿下は強い声でそう言うと、そのまま私の腕を引き寄せた。
慌てて身を引こうとしたけれど、想像よりも強い力にふらりと身体が傾き、気付けば私は殿下の腕の中にいた。
「っ……!」
ほのかに香る白百合の香りに思わず息を飲む。
「お願いだから……そんな風に跪かないで……」
耳元で小さく落ちた声は、掠れていて懇願するように聞こえた。
「君にそうされると辛い」
その言葉だけが静かに落ちた。
雨音だけが部屋を満たし、殿下の私を抱き締める腕が、少しだけ震えていることに気付く。
(どうして……)
責められるのは私のはずなのに、どうして殿下がこんなに震えているのだろう。
まるで殿下が傷付いているみたい……。
「今日、君を呼んだのは……謝らせるためじゃない」
私を包む腕がほんの少しだけ強くなる。
まるで逃がすまいとするようなのに、不思議と苦しくない。
壊れ物を扱うような、どこまでも優しい抱擁だった。
「君が苦しそうだったから助けたかった」
その一言が、胸の奥深くへ静かに落ちた。
「クリスに調べてもらった。家庭教師の仕事も、伯爵家の仕事も。それだけでも十分忙しいのに……その合間を縫って、マリアンナ嬢の課題や公務まで引き受けていたことも」
私は息を呑む。そこまで知られていたなんて、全然知らなかった。
「それに、責めるためならここに呼んだりしない。王宮で済ませてるよ」
(確かに……そうだけど……)
私はその場しのぎのことをして、王族を欺くことをした。
それに、私だって自惚れではない。私と殿下は婚約者でも恋人でも無いし、友人と言える間柄でも無い。王族の方、それに第一王子にそこまでしてもらえる人間ではない。
「どうして、そこまで……」
リオン殿下は少しだけ身体を離した。
紫色の瞳が、真っ直ぐ私だけを映して、困ったように笑う。
「君のことだから、全部一人で抱え込んでいる気がしたから」
その笑みが、少しだけ寂しそうで。
私は何も言えなくなった。
殿下はゆっくりと手を伸ばす。その長い指先が私の頬へ触れ、びくりと肩が震えた。
「……っ」
「ごめんね」
親指がそっと目元をなぞる。
撫でるように、慈しむような手つきはあまりにも優しい。
「手紙では元気だって書いていたのに……君は嘘つきだね」
その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられた。
「もっと早く気付くべきだった」
抱き締める腕が、ぎゅっと強くなって、彼の胸に身体を預けると、心地よい鼓動が耳元で聞こえた。
「君が笑えなくなるくらいなら、優しくなくていい。頑張らなくてもいいんだよ」
胸が締め付けられる。
そんなことを言われたのは初めてだった。
私は努力をするのが当たり前だと思っていた。
姉だから、家族だから。
前世でも、王妃やアレン殿下のために尽くすことが当然だと。
そうやって誰かに認めて貰えなければ自分の居場所は無いとそう思っていた。
「君の優しさで自分を傷つけないで」
胸の奥で何かがほどけていく。
「……それに、しんどい時は俺に頼っていいんだよ」
いつも飄々としていて、穏やかな殿下が、こんなにも必死に私のことを心配してくださっている。
その事実に、張りつめていたものがプツリと切れた。
気付けば、涙が流れていた。
こんな姿、見せたくないのにボロボロと溢れて止まらない。
その時、頭に柔らかい感覚が触れて、そっと髪を撫でられる。
まるで泣き止まない子供をあやすように、優しく、何度も。
「……よく頑張ったね」
その声音があまりにも温かくて、余計に涙が止まらなくなった。
堰を切ったように泣き出した私の背中を殿下はトントンとただ優しく撫でてくれた。
どのくらいたっただろう。涙が落ち着いてきた頃、彼の指先がそっと私のまつ毛をすくう。
「落ち着いた?」
優しい声音にコクリと頷くと、殿下は優しく腕を引いてソファーに座らせてくれる。
だけど、このまま流されたら駄目だ。私はきちんと、してしまったことをこの人に謝らないといけない。
「殿下……その、私、自分のことしか考えないで、妹の妃教育を邪魔してしまいました。申し訳ございません」
私の言葉を最後まで聞いた後、殿下は小さく息を吐いた。
「そのことだけど、本音を言えば、マリアンナ嬢の妃教育が上手くいかなくても構わないよ」
「へ?」
「政敵の婚約者は優秀じゃないのに越したことはないしね……もちろん、君が苦しまないなら、だけど」
(あぁ……確かに、そうだわ……)
そんなことを考える余裕なんて無かった。寝不足と緊張とで頭が回っていなかったのかもしれない。
リオン殿下はそのまま穏やかに続ける。
「だけど、それだと伯爵家としては困るよね。婚約破棄になれば責任を負わされるだろうし……」
伯爵家の事情まで気に掛けてくださるなんて思ってもいなかった。
「ごめんね。私がマリアンナ嬢を兄上の婚約者になるように仕向けたから君を巻き込んだよね」
私は慌てて首を横に振った。殿下は何も悪くない。
「これからマリアンナ嬢の公務は私の方でもフォローするから安心して。そうしたら、兄上も勘違いしてくれるし一石二鳥だ」
「そんな.......殿下にご迷惑を――」
私の言葉を遮るように、殿下は静かに笑った。
「迷惑じゃないよ」
真っ直ぐに向けられる藤色の瞳は社交辞令や嘘をついているようには見えない。
「それに、もし伯爵家が断罪されるようなことがあれば、私がちゃんと守るから安心して」
「殿下にそこまでしていただく訳には――」
「私は先代フェリエール伯爵に恩がある。だから、そこは気にしなくていいよ」
(恩……何のことだろう。そんな話聞いたことないけれど……)
「その話はまたいずれ……ね」
(だけど、そっか……。だから殿下は私を気にかけて下さるのね……)
考え込んでいると、いつの間にか殿下の顔が私を覗き込んでいた。
「また一人で考えてる?」
その瞬間、急に現状を把握した私は彼との距離間の近さを意識してしまい、慌てて顔を覆う。
(今の私……きっと酷い顔してる)
寝不足が続いてそもそも酷い顔なのに、更にさっきの涙で化粧も崩れてるはず。
「どこか具合が悪い?」
「い、いいえ……」
「もしかして、熱がある? 顔が少し赤いけれど……」
その言葉の後、殿下は手袋を外したそっと私の額に触れた。
少しひんやりとした感触にいたたまれなくなって、私は慌てて顔をあげる。
「で、殿下……その……私……今、酷い顔をしていて……」
「それは、男として意識して貰えてるって思っていいのかな?」
殿下の揶揄うような声に私は頬を赤らめる。
「そ、そういうこと言わないでください!」
「大丈夫。十分可愛いよ」
「殿下!」
さっきまであんなに優しかったのに。いつの間にか、いつもの殿下に戻ってる。
殿下の笑顔につられるように、私も思わず笑ってしまった。
無理に作った笑顔じゃない。心の底から自然に浮かんだ笑みだった。
すると殿下はほっと息を吐き、肩の力を抜いた。
「安心した」
「え?」
「……ようやく、笑ってくれたね」
その声はどこまでも優しくて、温かい感情が胸いっぱいに広がっていく。
殿下は何かができる私ではなく、頑張り続ける私でもなく、ただ、そのままの私を心配してくれている。
そのことに気付いた途端、胸の奥が熱くなって。息を吸うたび、温かな何かがゆっくりと満ちていく感じがした。
窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。
雲の切れ間から差し込む柔らかな陽射しが、庭園の濡れた木々をきらきらと照らしている。
まるで長く続いた雨季の終わりを告げているようだった。
私はそっと窓の外へ目を向け、小さく息を吸った。
世界が、少しだけ明るく見えた気がした。




