2-17.根底
その日は、夜から雨が降り始めた。
蒸し暑い部屋で、私は机に向かい続けていた。
家庭教師の教材。妃教育の課題。マリアンナから届いた手紙への返事。伯爵家の事務仕事。
気づけば、机の上には自分のものより妹の書類の方が多い。
「お嬢様」
ベルが静かに紅茶を置いた。
「もう夜明けも近いですよ」
時計を見る。
午前四時を回っていた。
「あと少しだけしてから寝るわ」
「その『あと少し』が毎日続いております」
「大丈夫よ」
「そのお言葉は、もう信用できません」
ベルがため息をつき、私の顔を覗き込む。
「明日は家庭教師のお仕事もございます。もうお休みください」
「でも、まだ終わっていないもの」
「……お嬢様」
ベルの声が少しだけ低くなる。
「どうして、そこまでご自分を後回しになさるのですか?」
「……」
答えられなかった。
マリアンナのため。
伯爵家のため。
お父様やお母様、弟のため。
そう言えば、きっと全部正しい。
けれど、本当は――。
誰かに頼ることが、昔から苦手だった。
幼い頃から、私は「いい子」でいることを覚えた。
泣かなければ褒めてもらえる。
我慢すれば困らせずに済む。
自分でできれば、誰かの手を煩わせなくて済む。
そうしているうちに、いつの間にか。
――「助けて」と言うことの方が、怖くなっていた。
回帰したからといって、その性格まで変わるわけではない。
せっかく見つけた家庭教師の仕事も、伯爵家の仕事も。
「助かる」と言ってもらえることが嬉しかった。
だからこそ、今さら「もう無理」なんて言いたくなかった。
(私は長女なんだから、しっかりしないと)
そう思って、再びペンを握る。
その瞬間――視界が、ぐらりと揺れた。
「あ……」
インク瓶が倒れる。
黒い液体が机から床へ流れ落ちた。
「お嬢様!」
立ち上がろうとした身体が、力を失う。
すぐにベルが駆け寄り、私の身体を支えた。
「大丈夫ですか!?」
「……少し、立ちくらみがしただけ」
「もう見ていられません!」
珍しくベルが声を荒げる。
「ここ数日、まともに眠っていないでしょう!」
「でも……」
「でも、ではありません!」
肩を支えるベルの手に力がこもる。
「お嬢様が倒れてしまったら、誰が困ると思っているんですか」
「……」
「マリアンナ様だけではありません。旦那様も、奥様も、ルーカス様も。ここにいる私たちだって困ります」
その言葉に、胸の奥が小さく痛んだ。
私はいつも、自分が迷惑をかけないことばかり考えていた。
誰かに頼るより、自分が頑張ればいい。
自分が我慢すれば、それで済む。
そうやって生きてきた。
だから――。
「一度、旦那様にご相談されてはいかがですか?」
「……それは」
口にしようとして、言葉が詰まる。
怖い。
失望されたくない。
「できる娘」だと思ってもらえたのに、こんなことで弱音を吐いてしまったら。
また、困らせてしまったら。
「……大丈夫よ」
結局、いつもの言葉しか出てこなかった。
「少し休めば、またできるから」
ベルは何も言わなかった。
ただ、ひどく悲しそうな顔で私を見つめていた。
その視線から逃げるように、私は机へ戻ろうとする。
まだ終わっていない。
明日までに終わらせなければ。
マリアンナが困る。
伯爵家に迷惑がかかる。
だから――。
(大丈夫)
そう言い聞かせながら、私は再びペンを握った。
自分自身が、限界を迎えていることにも気づかないまま。




