2-18.怒り
side リオン
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王宮の東棟にある一室。
磨き上げられた白い大理石の床に、真紅と金色の絨毯が敷かれ、窓辺には初夏の花が飾られている。
王族とその客人が穏やかな午後を過ごすための部屋で、窓を打つ雨音を聞きながら、リオンは静かにカップに口をつける。
向かい側には第二王子アレンと、その婚約者であるマリアンナが座っていた。
本来なら参加する理由などない。だが、アレンはこうした場を好む。
義弟であるリオンを呼びつけ、自分の優位を確認するための時間を。
「最近、マリアンナはとても優秀なんだ」
「まあ、アレン殿下」
アレンは上機嫌に笑い、その隣でマリアンナ嬢が頬を赤く染める。
「本当のことだろう?」
アレンは得意げに続けた。
「母上も驚いていた。外交課題は満点、茶会の準備も完璧。優秀な婚約者というのは助かるものだ」
その言葉に、リオンは静かに紅茶を置いた。
「それは素晴らしいですね」
「だろう? マリアンナ、あの課題をリオンにも見せてやれ」
マリアンナは待っていましたとばかりに机の上から書類を取り出した。
「見てくださいませ!」
リオンは差し出された羊皮紙をいつもの穏やかな笑顔で受け取った。
社交辞令として目を落とした文章に、感じたのは違和感だった。
(……随分と完成度が高いな)
文章構成に外交用語の選び方、北方諸国の情勢分析。
十五歳の令嬢が書くには、あまりにも整理され過ぎている。
もちろん優秀な人間はいる。だが、それだけでは説明できない何かがあった。
それこそ外交に詳しいカルヴァン男爵が自ら書いたような文章だ。
マリアンナの評判からこの文章を本人が書いたとは思えない。
(カルヴァン男爵の側近でも買収したのか……)
だが、視線が自然と文字へ向かう。そこで、心臓がひとつ強く打った。
この字の払い。ここがほんの僅かに右上がりになる癖。それにこの文字の最後が少しだけ右へ流れる癖。
(まさか……)
リオンは知っていた。毎週届く手紙で見てきた文字だ。
便箋の上に並ぶ文字を何度も読み返した。間違えるはずがない。これは、ミレイナの字だ。
喉の奥が冷えるのを感じたが、表情は崩さなかった。
王族として染み付いた習慣だった。
だが、胸の奥では別の感情が静かに膨れ上がっていた。
アレンが不思議そうに首を傾げる。
「何か問題でも?」
「いいえ。よく勉強されていますね」
「はは、でしょう?」
アレンはますます機嫌を良くした。彼の中ではリオンから奪って得た婚約者が褒められているのだから、いい気分なのだろう。
「婚約者は優秀な方が助かる。リオンも早く身を固めたらどうだ?」
この言葉は完全にリオンを挑発するものだったが、リオンからすればマリアンナなど、もうどうでもいい。
だが、ここで演技をやめてしまえばせっかくできた隠れ蓑を失ってしまう。
「ええ。兄上の仰る通りです」
リオンは柔らかい笑みを浮かべた。
「マリアンナは最近、茶会も主催したんだよな?」
「はい! とても喜んで貰えましたわ」
マリアンナが楽しそうに言う。
「その噂は私も聞きました。確か珍しい茶葉を準備されたとか。どこから取り寄せられたのですか?」
「お姉様が全部――」
そこで、彼女ははっと口を押さえた。
室内に一瞬だけ沈黙が落ちる。
「……アドバイスをしてくれたのです」
その姿を見ながら、リオンは微笑みを崩さなかった。
(課題に茶会の準備……一体どこまで……)
胸の奥がざわついたが、今ここでマリアンナを責めることに意味はない。知りたいのは別のことだった。
「そうですか……。ミレイナ嬢はお元気ですか?」
「え? お姉様ですか?」
「はい」
マリアンナは不思議そうに首を傾げた。
「元気だと思いますわ」
思います。その曖昧な言葉が妙に引っかかった。
「最近もお会いに?」
「もちろんです!」
マリアンナは笑う。
「毎日のようにお会いしておりますもの!」
その瞬間、リオンの手がわずかに止まった。
(つまり、毎日手伝わせているということか?)
家庭教師の仕事も忙しいと聞いている。それに、確か彼女は伯爵家の仕事も手伝っているはず。そこに加えて、妃教育もやっているとなれば、相当な仕事量だ。
最近、彼女からの手紙の返事が少なくなってきている。それに、手紙の文字や内容からも彼女に元気が無いことを心配していた。
聞いても、彼女はいつも「大丈夫です」と返事をするけれど……。
(……きっと、大丈夫じゃない)
アレンとマリアンナはまだ何か話している。けれど、その声はもう耳に入らなかった。
頭の中に浮かぶのは、机へ向かう彼女の姿ばかりだ。リオンは静かに羊皮紙を机へ戻した。
「大変勉強になりました」
「それは良かった」
「ありがとうございます」
感謝の言葉に偽りはない。
(おかげでようやく知ったのだから……彼女が今、どれほど無理をしているのかを)
***
茶会が終わり、別宮へ続く長い回廊を歩いていると、控えていたクリステールが近付いてくる。
「殿下、何かございましたか?」
リオンは少しだけ歩みを緩めると、クリステールにしか聞こえない小さな声で尋ねた。
「クリス、最近マリアンナ嬢がした公務や妃教育の課題を調べてくれる?」
「……マリアンナ嬢の、ですか?」
クリスは納得のいかないような、不思議そうな表情を浮かべる。
「あぁ、全部調べて」
「全部、ですか?」
「頼んだよ」
「……わかりました」
「それと、ミレイナ嬢の状況も教えて」
クリステールの表情が僅かに引き締まった。
「承知しました」
ふと、外に目を向けると、厚い雲の向こうで、また雨が降り出しそうだった。
胸の奥に広がるのは怒りだった。
アレンへの怒りでも、マリアンナへの怒りだけでもない。
彼女の辛さに気付けなかったことへの怒り。
彼女に頼って貰えない自分への怒り。
そして、彼女自身さえ、自分を大切にしていないことへの怒り。
本当は今すぐに彼女の元を訪ねたい。だけど、きっと彼女のことだ。「大丈夫です」なんて言って逃げられるだろう。
「どうしたら、頼って貰えるのかな……」
小さく漏れた呟きは、雨の匂いを含んだ風に溶けて消えた。




