1-2.姉妹
「お姉様、入ってもよろしいですか?」
その声を聞いた瞬間、全身の血が、すっと冷えた。
(……この声)
忘れるはずがない。
甘くて、愛らしくて。
誰の警戒心も簡単に解いてしまうような、柔らかな声。
マリアンナ。
前世で、私が最後に聞いた声。
毒に苦しむ私を見下ろしながら、あの子は笑っていた。
その光景が、鮮明に蘇る。
震える手。喉を焼く苦しみ。
そして――私へ毒を飲ませた妹の、あの笑顔。
(……怖い)
身体が勝手に強張った。
返事をしなければならないと分かっているのに、声が出てこない。
「お姉様?」
扉の向こうから、もう一度声がした。
「……どうぞ」
ようやく絞り出した声は、自分でも分かるほど震えていた。
扉が開くと、そこに立っていたのは――。
前世の最後に見た“女”ではなかった。
まだ何も知らない、幼い妹。
ふわりと波打つ髪。
大きな瞳。頬には少女らしい柔らかな丸みが残っている。
誰もが思わず手を差し伸べたくなるような、可憐な令嬢。
「お姉様……っ!」
私の姿を確認した途端、マリアンナは目に涙を浮かべ、駆け寄ってきた。
「よかった……本当に、よかったですわ……!」
両手を取ってきた温かな手。その感触に、ほんの一瞬だけ胸が揺れた。
昔の私なら、何も知らなかった頃の私なら、この手を握り返していた。
「……心配をかけたわね。ごめんなさい」
そう言いながら、私はほんの少しだけ手を引いた。
マリアンナは、それに気づいた様子もない。
「いいえ! そんなこと、お気になさらないでください!」
にっこりと笑う。
「私、お姉様のことが大好きですもの。心配するのは当然ですわ」
胸の奥に、冷たいものが落ちていく。
(……この子は)
こんなふうに笑うのだ。
何の曇りもない顔で。
まるで本当に、姉を心配している妹のように。
(こうやって……人を騙すのね)
前世の私は、最後まで気づかなかった。
この笑顔の裏に何が隠れているのか。
「それより……お姉様!」
マリアンナがぱっと顔を輝かせる。
「舞踏会に着ていくドレスが、もう出来上がったみたいですわ!」
「……ドレス?」
「はい!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さくざわめいた。
舞踏会。デビュタント。
記憶の底に眠っていた出来事が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
「本当なら、お姉様のお身体のことを考えて、もう少し後にしたほうがいいのでしょうけれど……」
マリアンナはちらりと私を見る。
「でも、気になりますわよね?」
その言葉に、私は思わず目を細めた。
ああ。そうだった。
(……この子は、こういう言い方をする)
自分から「見たい」とは言わない。
お母様に止められていることも、きっと分かっている。
だから、私に選ばせるのだ。
『お姉様が見たいと言ったから』
そうすれば、自分は悪くない。
十五歳の私には、その浅い思惑すら愛らしく見えていた。
けれど今の私には――あまりにも分かりやすい。
(……そういえば)
記憶を探る。デビュタントの前。
私は確か風邪を引いて、ベッドの上で、届けられたドレスを眺めていた。
そして、マリアンナは――。
(私のドレスを欲しがった)
なら。確かめてみよう。
本当に、あの人生と同じことが起きるのか。
「……そうね」
私は穏やかに微笑んだ。
「この部屋に持ってきてもらえるなら、見てみたいわ」
「まあ……!」
マリアンナの顔が、一瞬で華やぐ。
「本当ですの? 嬉しい!」
ぱっと花が咲いたような笑顔。
「私、お姉様と一緒に選びたかったのです!」
「そう」
「では、早速お母様にお願いしてきますわ!」
マリアンナは嬉しそうに部屋を飛び出していった。
その背中を見送りながら、私は小さく息を吐く。
(……同じだ)
何もかも。
まるで、あの日をなぞるように。
しばらくすると、使用人たちが何着かのドレスを運び込んできた。
衣装掛けに並べられたドレスは、どちらも、デビュタントを迎える私たちのために仕立てられたものだ。
その瞬間。胸の奥がひやりと冷えた。
(……やっぱり)
覚えている。同じドレスだ。
刺繍も、リボンの位置も。記憶の中にあるものと、寸分違わない。
マリアンナも、それを見て目を輝かせた。
「まあ……!」
そして。迷うことなく私のために仕立てられたドレスへ手を伸ばした。
腰には大きなリボンがあしらわれたピンク色のドレス。
それは――。
前世で、私が選んだドレスだった。
「これ……とても素敵ですわね!」
マリアンナは嬉しそうに裾を持ち上げる。
当然、このドレスが誰のために仕立てられたものなのかは知っているはずだ。
サイズだって、私に合わせて作られている。
マリアンナには少し大きい。
それでも。
「お姉様」
振り返った妹が、可愛らしく首を傾げた。
「これ、私にくださいませんか?」
予想していた言葉だった。
「お姉様は、何を着てもお綺麗ですもの」
そう言って、ドレスを胸元に抱く。
「でも……この色だけは、どうしても諦められなくて」
前世の私はらこの言葉に胸を痛めながらも、珍しく譲らなかった。
自分のデビュタントなのだからと。
小さな勇気を振り絞って、このドレスを選んだ。
けれど――。
(過去とは、違う選択をしてみよう)
私はゆっくりと目を上げた。
「いいわよ」
「……え?」
「そのドレス、マリアンナにあげる」
一瞬、妹が目を丸くする。
次の瞬間。
「まあ……!」
顔いっぱいに笑みが広がった。
「本当によろしいのですか?」
「ええ」
「お姉様は、やっぱり世界一優しいですわ!」
ドレスを抱きしめながら、マリアンナが嬉しそうに笑う。
その笑顔は、前世の私が何度も見てきたものだった。
可愛くて。愛らしくて。
守ってあげたくなるような笑顔。
(……さて)
私は衣装掛けに残されたドレスへ視線を向けた。
正直に言えば、デビュタントなどしたくない。
このまま伯爵領で、静かに暮らしたい。
誰とも関わらず。王都にも行かず。
あの人にも、妹にも、二度と近づかない。
そんな人生を選べたら、どれほど楽だろう。
けれど、デビュタントを欠席すれば、両親に迷惑がかかる。
私だけが勝手に逃げるわけにはいかない。
私は残されたドレスを一着ずつ眺めた。
前世の私は、年頃の令嬢らしく、ピンクや白を好んでいた。
リボンにフリル。可愛らしい意匠のものばかり。
(……でも)
今の私が、これを着るのは少し……。
思わず苦笑する。
(さすがに、今の私には可愛すぎるわね)
そして私は、その中から一着を選んだ。
紫色のドレス。
派手さはないけれど、落ち着いた色合いと上品な刺繍が美しい。
「……私は、これにしようかな」
その瞬間。
マリアンナだけでなく、周囲の使用人たちまで目を丸くした。
(まあ……そうなるわよね)
前世の私は、こんな色を選んだことなど一度もなかったのだから。
「まあ……珍しい!」
マリアンナが首を傾げる。
「お姉様のお顔には、その……少し地味ではありません?」
地味。
思わず苦笑しそうになる。
(せめて、落ち着いていて品がある、と言ってくれたらいいのに…)
「たまには、こういう色もいいと思ったの」
「そうですわね……」
マリアンナはしばらく私を見つめた。
何かを探るような視線。
けれど、それもほんの一瞬。
すぐに、いつもの可愛らしい笑顔に戻った。
「ええ。きっとお似合いになりますわ、お姉様」
「ありがとう」
微笑み返す。
鏡の中で、妹と目が合った。
誰が見ても、愛らしい姉妹の姿だっただろう。
前世の私も、きっとそう思っていた。
この笑顔を疑う理由なんて、どこにもないと思っていた。
――あの夜までは。
けれど、私は知っている。
この愛らしい妹が。
同じその笑顔のまま――。
人に毒を差し出すことを。
私はドレスの裾を握りしめた。
(……今度は、騙されない)
そう心の中で呟きながら。
私は、目の前の妹に微笑み返した。




