1-1.死に戻り
暗闇の底で、私は確かに死んだ。
喉の奥を焼き尽くす毒の感覚も。
目の前に浮かんだ、アレン殿下の冷たい瞳も。
そして――妹、マリアンナの歪んだ笑みも。
全部、覚えている。
だからこそ――。
「……ミレイナ? 大丈夫?」
「ミレイナ姉様~!」
聞こえてきた声が信じられなかった。
ぼんやりとした視界の向こうから、二人の人影が駆け寄ってくる。
「……お母、様……?」
そこにいたのは、紛れもなく母だった。
その隣には、まだ幼い弟――ルーカス。
どちらも、私の記憶にある姿より若い気がした。
母は心配そうに眉を下げながら、私の頬へそっと手を添えた。
「気分はどう? 痛むところはない?」
頬に触れた指先から、温もりが伝わってくる。
その瞬間。胸の奥で、張り詰めていた何かが切れた。
「……っ」
息が詰まる。だって、この温もりは、もう二度と触れられないと思っていたものだったから。
「……お母様……!」
堪えきれず、涙が溢れた。
「姉様!」
ルーカスも泣きそうな顔で私へ抱きついてくる。
「ルーカス……」
細い腕を抱きしめ返した瞬間、視界が滲んだ。
温かい。ちゃんと、生きている。
(……どうして?)
母も、ルーカスも。
二人とも、もうこの世にはいないはずなのに。
事故で亡くなった。その知らせを聞いた日のことも、冷たい棺に触れた日のことも、私は鮮明に覚えている。
なのに。今、私の腕の中にある身体は確かに温かい。
(これは……夢?)
それとも、死の間際に見るという走馬灯なのだろうか。
どちらにしても、あまりに生々しかった。
私は震える手で、ルーカスの背を撫でた。
「……生きてる」
声にならないほど小さな呟き。
(お母様も……ルーカスも……生きてる)
それを確かめるように、何度も二人の姿を目で追った。
そのときだった。頭の奥を、鋭い痛みが走った。
「っ……!」
思わず額を押さえる。
「ミレイナ!」
「姉様、大丈夫!?」
「大丈夫……」
痛みはすぐに引いた。
けれど、妙だった。
(……毒の痛みじゃない)
あのとき感じた、身体の内側から崩れていくような苦しさとは違う。
もっと単純な、打ちつけたような痛みだった。
「ミレイナ。あなた、階段から落ちて頭を打ったのよ」
母が心配そうに私を見つめる。
「今日で三日目。やっと目を覚ましてくれたの」
「……階段?」
聞き返しながら、私はゆっくりと周囲を見回した。
見覚えのある天蓋。
明るい色の壁紙。
窓辺に置かれた、小さな花瓶。
ここは――幼い頃に使っていた、私の子ども部屋だ。
(……どうして?)
胸の奥がざわめく。
震える手を持ち上げる。
そこで、ようやく気づいた。
手が……小さい。
指も、手首も。
成人した私のものではない。
「……手鏡を、貸していただけますか?」
母は不思議そうに眉を寄せたものの、すぐに侍女へ目配せした。
差し出された手鏡を、震える指で受け取る。
そして――。
「……え……?」
鏡の中にいたのは、私だった。
けれど。
まだ頬には幼さが残っていて、髪も、顔立ちも、記憶の中よりずっとあどけない。
「……私……今、何歳……でしたっけ」
自分でもおかしな質問だと思った。
けれど、母は何も笑わなかった。
「十五歳よ」
その一言で、心臓が大きく跳ねた。
(十五歳……)
まさか。
(私……十五歳に戻ったの?)
母が私の顔を覗き込み、慌てたように侍女へ告げる。
「すぐに医師を呼んで!」
ほどなくして駆けつけた医師の診察を受けた。
幸い、身体に大きな異常はないらしい。
「強い衝撃を受けたことによる、一時的な記憶の混乱でしょう。しばらく安静にしていれば問題ありません」
「そう……ですか」
医師が部屋を出ていく。
母もルーカスも、ようやく安心したように息を吐いた。
けれど私は、二人から目を離せなかった。
何度見ても、夢ではない。
母もルーカスも、ここにいる。
もう二度と会えないと思っていた二人が、私の目の前で笑っている。
「……会いたかった」
気づけば、そんな言葉が唇から零れていた。
「え?」
ルーカスが不思議そうに首を傾げる。
「……ううん。何でもない」
何でもないはずがなかった。
もう叶わないと思っていた願いが、今、目の前にある。
「お姉様……泣いてるよ?」
ルーカスが心配そうに私を見上げた。
私は笑って、その目元に浮かんだ涙をそっと拭う。
「うん。もう大丈夫」
何が起きているのか、まだ分からない。
さっきまでの人生が悪い夢だったのか。
それとも、今この瞬間こそが夢なのか。
けれど――もし。
もし、本当に過去へ戻ってきたのだとしたら。
(……変えられるかもしれない)
母とルーカスを奪ったあの事故も。
そして――私自身の未来も。
「あの……少し、混乱していて……」
私は母を見上げた。
「少しだけ、一人にしてもらえますか?」
母は何も尋ねなかった。
ただ、幼い頃と変わらない優しい手つきで、私の頭を撫でる。
「分かったわ。今日はゆっくり休みなさい」
「……お母様」
「あなたが目を覚ましてくれただけで、十分よ」
その言葉に、また涙が込み上げる。
けれど、今度は泣かなかった。
「はい……」
「無理はしないでね」
「お姉様、何かあったらすぐ呼んでね!」
二人は名残惜しそうに部屋を出ていった。
扉が静かに閉じると、部屋に静寂が戻った。
私は胸元に手を当て、ゆっくりと息を吐く。
そして、ふらつく足で姿見の前まで歩いた。
鏡に映っているのは、紛れもなく少女だった頃の私。
十五歳。まだ何も知らず、これから待ち受ける未来を疑いもしなかった頃の私。
そっと、自分の腹部へ手を添える。
当然、そこには何もない。
けれど、私は覚えている。この腕でお腹を撫でながら眠った夜を。
誰にも知られないように、小さな命を守ろうとしたことを。
そして――その命が失われたときの絶望を。
ゆっくりと目を閉じる。
「……ごめんなさい」
もう届かない。
謝ったところで、あの子は帰ってこない。
それでも、私には、その言葉しか出てこなかった。
あの人への愛は、最後までなかった。
けれど、お腹に宿った小さな命を愛していたことだけは、嘘ではない。
だからこそ、分かる。あの人生は、悪夢なんかではなかった。
確かに私が生きた、現実だった。
(……本当に、戻ってきたのなら)
拳をぎゅっと握る。
(今度こそ、やり直したい)
まだ伯爵領の屋敷にいる。
十五歳。
おそらく、冬の終わり。
王都へ向かい、正式にデビュタントを迎える前。
つまり――。
(まだ、第二王子には会っていない)
胸の奥で、何かが大きく脈打った。
(それなら……まだ間に合う)
運命は、まだ動き出していない。
そう思った、そのときだった。
――コン、コン。
突然、扉を叩く音が響いた。




