序章
※2026/08/15改定済み
それは、ウィステリア王国の第一王子が、正式に王太子へ任命された祝宴の最中だった。
私、ミレイナ・フェリエールは、第二王子妃としてその席に連なっていた。
華やかな音楽が流れる大広間。
色とりどりのドレスが揺れ、貴族たちの笑い声が絶え間なく響いている。
そんな中、招待客との会話を終えたところで、第二王子アレン殿下の側近が私のもとへやって来た。
「ミレイナ様。アレン殿下が控え室でお呼びです」
「分かりました」
素直に頷きながら、私はそっとお腹に手を添えた。
正直なところ、身重の身体で任命式から続けて宴に出席するのは少し辛い。
だから、あの気遣いを知らない第二王子も、さすがに今日は私の体を案じてくれたのだろう。
そんなことを考えながら、私は控え室へ向かった。
扉の前に立つ近衛へ声をかけ、中へ入る。
「失礼いたします、アレン殿下」
そこで私は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
夫である第二王子アレン・セス・ウィステリア。
そして、その隣には――妹のマリアンナがいた。
妻帯者である殿方、それも王子と未婚の令嬢が、個室で二人きりになるなど褒められたことではない。
けれど。
(妹は家族だもの。一緒にいても……不思議じゃないわ)
いつものように、妹がアレン殿下に甘えているだけ。
そう思って、私は深く考えなかった。
「お待たせしました。アレン殿下」
頭を下げると、アレン殿下はハニーブロンドの髪を揺らして微笑んだ。
「待っていたよ、ミレイナ」
けれど、その深紅の瞳は、少しも笑っていなかった。
「お姉様も一緒に乾杯しましょう」
マリアンナが明るい声を上げる。
ふわりと揺れる、淡いベージュ色の髪。
桃色の瞳。
そして、愛らしい笑顔。
その手には、金細工の美しい杯が握られていた。
中には鮮やかな赤い葡萄酒が注がれている。
「ありがとう。だけど、今はお酒を控えているの」
「あら、ごめんなさい。忘れていましたわ」
マリアンナは悪びれる様子もなく笑った。
そして、テーブルに置かれていた水差しから、別の杯へ水を注ぐ。
「こちらなら大丈夫でしょう?」
「ええ……ありがとう」
ここで断る理由も見つからず、私は差し出された杯を受け取った。
そして――何気なく、口をつけた。
「……っ!」
その瞬間、舌の奥で異様な味が弾けた。
金属のような、苦く、舌にまとわりつく味。
「な……に、これ……」
次の瞬間には、喉が焼けた。
熱い。
身体の内側を灼かれているような熱さだった。
「――っ、ぁ……!」
胃の奥が激しく捻じれる。
まるで内臓を刃物で抉られているような痛みに、私は反射的にお腹を庇った。
足から力が抜けて、膝が床に落ちた。
(なに……これ……)
息ができない。
胸が苦しい。
喉が焼けて、声が出ない。
それでも、必死に思考を巡らせる。
この症状。この味。まさか――
(毒……?)
そう思った瞬間、身体が大きく震えた。
血の混じった咳が喉の奥から込み上げる。
「ごほっ……!」
赤い雫が、白いドレスへ散った。
(いや……)
頭の中が真っ白になる。
(そんな……)
私は震える手で、お腹を抱き締めた。
(赤ちゃん……)
この子だけは。
この子だけは、絶対に。
「た……す……けて……」
誰かに届くように。助けてもらえるように。
必死に手を伸ばした。
けれど――
「汚らわしい!」
バシッ、と乾いた音が響いた。
「……え?」
伸ばした手を、マリアンナが叩き落とした。
何が起きたのか分からない。
ただ、床についた手のひらがじんじんと痛んだ。
そして、頭上から、冷たい液体が降ってきた。
鼻先を掠める、葡萄酒の匂い。
赤い雫が髪を伝い、頬を流れていく。
「はは。家族だと言うのに、随分と冷たいな」
頭上から、声が降ってきた。
その声を聞いた瞬間、胸の奥がズキンと痛んだ。
つい数刻前まで、私に愛の言葉を囁いていた男。
夫である、アレン殿下。
その声とは思えないほど、冷たかった。
「……どう……して……?」
掠れた声が漏れる。
答える代わりに、マリアンナがしゃがみ込んだ。
そして私の顔を覗き込む。
「わぁ……苦しそう」
桃色の瞳が細められる。
「ほんと、可哀想なお姉様」
その笑顔を、私は知っていた。
子どもの頃から、何度も見てきた笑顔。
天使のように愛らしくて、誰からも可愛がられる――私の妹の笑顔。
「ごめんなさいね?」
なのに、今はひどく恐ろしく見えた。
視界の端に、アレン殿下の姿が映る。
「ミレイナ。お前はもう用無しだ」
「……用、無し……?」
何を言っているのか理解できない。
「あら、殿下。お姉様は鈍感ですもの。ちゃんと説明して差し上げませんと、理解できませんわよ?」
「マリア、君は本当に優しいね」
「もう。こんな時に殿下ったら……」
二人が顔を見合わせて笑う。
まるで、私などそこにいないかのように。
「お前は、ただアイツを揶揄うための道具に過ぎなかったんだ」
アレン殿下の声が、静かに響く。
「それなのに、俺に恥をかかせた。その罰だ」
(アイツ……?)
ぼんやりとした頭の中で、その言葉だけが引っかかった。
アレン殿下がそう呼ぶ相手は一人。
白銀の髪に紫水晶のような瞳をした美しい青年。
この王宮で、田舎貴族の令嬢に過ぎない私へ、優しく声をかけてくれた数少ない人。
(第一王子……殿下……?)
なぜ、今。彼の顔が浮かぶのだろう。
「そして――」
アレン殿下が、愉しそうに笑った。
「この祝宴の日の贈り物に、アイツが一番興味を持っていたお前の亡骸を届けるのさ」
ぞくり、と背筋が震える。
何か言い返したい。何か尋ねたい。
けれど、喉は焼け付いて、声にならなかった。
(いや……)
違う。そんなことより。
(赤ちゃんを……守らないと……)
私は震える手を床についた。
身体を引きずるようにして、出口へ向かう。
這ってでも、この部屋から出なければ。
(廊下に出れば……近衛かいる)
きっと。誰かがいる。
助けを呼べば――。
「穢れた血で、汚さないでくれる?」
「――っ!」
背中に強い衝撃が走った。
身体が前へ投げ出され、私はそのまま床へ這いつくばる。
(逃げ……ないと……)
けれど、もう身体に力が入らない。
指先すら、動かせなかった。
頬に、何かが触れる。
妹が持っていた扇子だった。
その先で、私の頬をつつく。まるで、傷ついて動けなくなった小鳥の生死を確かめるように。
「苦しい?」
マリアンナが笑う。
「でも、大丈夫よ。お姉様」
扇子の先が、もう一度頬を撫でた。
「すぐ終わるから……」
その笑顔は、いつもの愛らしさからは想像もできないほど歪んでいた。
もう、私の知っている妹ではない。
舞踏会の前には、どんなドレスが似合うか二人で相談した。
夜更けまで恋愛小説の話をして、好きな登場人物について笑い合った。
あの時間は。
あの笑顔は。
全部――
(嘘、だったの……?)
涙が頬を伝った。それを見たマリアンナは、愉快そうに唇を歪める。
「どうしてって、思ってる?」
その声は、驚くほど淡々としていた。
「お姉様はいつもそう」
妹の桃色の瞳が、細められる。
「欲しがりもしないくせに――私がどれだけ欲しかったものでも、当たり前みたいに手に入れてしまう」
その言葉の意味が、理解できない。
「……マリア、もうその辺にしておこう」
アレン殿下が静かに口を挟んだ。
「人目に触れる前に、片付けないと」
「はい、殿下」
二人の会話は、まるで子どもが悪戯を隠す相談をしているようだった。
視界が、ゆっくりと暗くなっていく。
音が遠ざかる。
身体の感覚も、少しずつ消えていく。
(私……本当に……このまま……死ぬの……?)
怖い。
嫌だ。
(赤ちゃんも……死んじゃうの……?)
涙がこぼれた。
それが悔しさなのか、悲しさなのか。
それとも、ただ怖かっただけなのか。
もう、自分でも分からなかった。
(いや……)
(助けて……)
(誰か……)
けれど、その願いは誰にも届かない。
最後に見えたのは――
妹の、驚くほど綺麗な笑顔だった。
「さようなら、お姉様」
そして、世界が闇に落ちた。
私は、死んだ――はずだった。
『ミーナ』
どこからか、誰かの声がした。
優しくて、温かくて、ひどく懐かしい声。
『ミーナ、ごめんね』
けれど、その声は。
ひどく苦しそうで、切なくて。
今にも泣き出してしまいそうだった。
『……ごめん』
次の瞬間。
まぶたの裏へ、まばゆい光が差し込んだ。
ふわりと鼻先をくすぐる、懐かしい香り。
私はゆっくりと目を開いた。
「…………え?」
視界に映ったのは――
見慣れた天井。
窓辺に置かれたお気に入りのぬいぐるみ。
(……ここは……)
震える指先で、シーツを握り締める。
(夢……?)
違う。夢にしては、あまりにも鮮明だった。
死ぬ直前の苦しさも。
妹の笑顔も、アレン殿下の冷たい声も。
全部、覚えている。
(どうして……?)
私は死んだはずなのに。
なのに――
どうして、私は。
もう一度、この部屋にいるのだろう。




