2-14.薫風の夜
庭園から会場へ戻る頃には、夜風に当たったおかげか、少しだけ気持ちも落ち着いていた。
深く息を吸って、胸の奥に残る痛みを押し込める。
「そろそろ戻ろうか」
「うん」
(もう大丈夫)
そう言い聞かせながら、会場に戻ろうとしたその時だった。
「ミラー公子」
低く落ち着いた声に反射的に顔を上げると、テラスへ続く大理石の柱の傍らに、一人の青年が立っていた。
「……リオン殿下」
彼の白銀の髪がシャンデリアの光を受けて金色に煌めいていて、そこだけ輝いているようにさえ見えてしまう。
「殿下、挨拶が遅れました」
私はルイと一緒に一歩前へ出て頭を下げた。
「今夜は祝賀会だし、気にしなくていいよ」
リオン殿下はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべて、柔らかな声音で話しているのに、なぜだろう。
その場の空気だけが少し張り詰めた気がした。
「先程はゼイン王子を助けてくださったようで、ありがとうございます」
「当然のことをしたまでです」
「さすがミラー公子。噂に違わず誠実な方ですね」
二人とも笑っているのに何となく居心地が悪い。
(気のせい……よね?)
そう思った時だった。リオン殿下の視線が私へ向く。
「ミレイナ嬢」
「は、はい」
「先程は少し顔色が悪いように見えたけど……」
(あんなに距離があったのに……気付いてくれていたんだ……)
その一言だけで胸が温かくなって、さっきまでの暗い気持ちが一瞬でふっと軽くなる。
「ご心配をお掛けしました」
「いいえ。落ち着いたようで安心したよ」
その微笑みがあまりにも優しくて、思わず視線を逸らした。
そんな私を横目で見たルイがふっと笑って口を開く。
「少し休ませたら落ち着きました」
「そうですか。ミラー公子には感謝しなければ」
その言葉に、私は少しだけ違和感を覚えた。
(どうして……殿下がお礼を……?)
考える間もなく、殿下の背後から近衛兵が駆け寄ってきた。
「ミラー公子」
「?」
「エルベローズ公爵がお呼びです」
「公爵が?」
「はい。明日の訓練の件で至急、確認いただきたいことがあると」
その言葉にルイが怪訝そうに眉を寄せる。
「今か?」
「はい」
近衛兵は真剣な顔で頷いた。
ルイは私とリオン殿下を見比べた後、何かを察したように、小さく笑った。
(……?)
その笑みの意味が分からず私は首を傾げる。
ルイはゆっくりとリオン殿下に一歩、歩み寄った。
「殿下」
「どうかした?」
「随分と手回しがいいんですね」
ルイはいつも変わらない人好きする笑みを浮かべているけれど、その奥には試すような色が滲んでいた。
殿下は一瞬だけ目を細めたけれど、すぐにふわっと柔らかい笑顔を作る。
「さて、何のことかな。それよりも、公爵が呼んでいるだとか。急いだ方がいいのでは?」
その返答に、ルイは肩を震わせて笑った。
「なるほど」
それだけ言うと、私へ向き直る。
「ミレイナ悪い。少しだけ待っててくれるか?」
「う、うん」
「すぐ戻る」
ルイがそう言って歩き出そうとした時だった。
「ミラー公子」
リオン殿下が穏やかに口を開く。
「時間が掛かるようなら、私がミレイナ嬢を送るよ」
その言葉に、ルイが止まる。
「……それは大変ありがたいお申し出ですが、今日は俺がミレイナのパートナーなので」
「そうだったね。じゃあ、ミレイナ嬢に決めてもらおうか」
リオン殿下は穏やかに笑ったまま、私へ視線を向ける。
(え、私……?)
「どうする? ミラー公子を待つ?それとも――」
白い手袋に包まれた手が、静かに差し出された。
「私に送らせてくれる?」
その瞬間、頭が真っ白になる。
(ど、どうするのが正解???)
殿下に送っていただくなんて、恐れ多すぎる。だけど、公爵と大事な話があるのなら、私が待っていてもルイに迷惑だろうし……。それに……。
(それに、ちょっと殿下と一緒にいたい……)
私は思わずルイを見ると、彼は私の答えを察したようで、困ったように笑って肩を竦めた。
「殿下がお送りしてくださるなら安心だ」
「ルイ……」
「せっかくだから、送って貰え」
そう言われてしまえば、もう逃げ場はない。
私は恐る恐る殿下の手に自分の手を重ねた。
「よろしく……お願いします……」
そう答えると、紫の瞳が一瞬、驚いたように見開く。だけど、すぐに嬉しそうに微笑んで、そっと私の手を包み込んでくれた。
「こちらこそ」
その声がどこか少し弾んで聞こえた。
「俺からもよろしくお願いします」
そう言って歩き出しかけたルイは、不意に足を止めて振り返ると、リオン殿下を見る。
「殿下。ミレイナを困らせないでやってくださいね」
一瞬だけ、二人の視線が真正面からぶつかった。
どちらも笑っているのに、その笑顔だけが妙に整いすぎていて、言葉にならない緊張が流れる。
「もちろん」
その返事を聞いて、ルイは満足そうに頷く。
「なら安心です」
そう言い残して、今度こそ近衛兵と共に歩き去っていった。
(……今の、何だったの?)
呆然としていると、リオン殿下がふっと息を吐いた。
「行こうか」
殿下はそのままゆっくりと歩き始める。
夜風が初夏の花々を揺らし、甘い香りがふわりと漂った。
会場から聞こえていた音楽も、人々の笑い声も、歩くたび少しずつ遠ざかっていく。
静かだった。なのに、鼓動だけがうるさい。
(夢じゃ……ないよね)
ほんの少し前まで、公爵令嬢と並んで笑う殿下を見て、胸が苦しくて仕方なかった。
自分には関係ない人。そう何度も言い聞かせたのに。
今はその人が、こうして隣を歩いている。
夢みたいだった。
歩幅を自然と合わせてくれていることに気付いてしまって、また胸が熱くなる。
何も話さない。それなのに、不思議と気まずくはなかった。
むしろ、この静かな時間が終わってほしくないとさえ思ってしまう。
ふと、回帰前、デビュタントで殿下と会ったのはこの庭園だったことを思い出す。
(あの時は、リオン殿下に恋をするなんて思いもしていなかった……)
なんだか不思議な気持ちだった。確かに未来を変えたくて行動したけれど、まさかリオン殿下をこんなに好きになるなんて思っていなかった。
回帰前も何かと気遣ってくださって、優しい人だとは思っていたけれど、やはりアレン殿下とは政敵になるお方だったから気持ちを許すことは出来なかった。
(だけど、今は……)
「ここに段差があるので気を――」
「きゃっ!」
突然、耳元に落ちた低い声に驚いた私は、思わずバランスを崩した。
けれど、すぐに殿下の手がそっと私を支える。
「あ……」
「大丈夫?」
「は、はい……」
見上げると、藤色の瞳が心配そうにこちらを見つめていた。
その目に映るのが自分だけだと思った瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「良かった」
身体を支えていた手はすぐに離れたけれど、その一瞬だけで全身が熱くなるのを感じた。




