2-8.茜色
私たちは並んでテラスへと向かった。湖から吹く風が心地よくて、二人の距離は最初より自然になっていた。
それなのに、胸の鼓動だけは少しも静かになってくれない。
離れのテラスには、既にお茶の準備が整えられていた。白いクロスに花が飾られたテーブル。そして――
「これって……!」
思わず目を輝かせる。小説で出てきたヘーゼル国の茶菓子が並んでいた。
薔薇のあしらわれたミルクプリン、ドライフルーツ、ナッツを練り込んだ香ばしいお菓子。
「本当にあるのですね!!」
感動していると、殿下がくすりと笑った。
「私も最初、同じことを思ったよ」
二人で顔を見合わせて、そして同時に笑ってしまった。
なんだろう、不思議だった。さっきまであれほど緊張していたのに、話し始めた途端、自然と肩の力が抜けていく。
一年間の手紙があったからだろうか。まるで古くからの知り合いかのように話が弾む。
席に着くと、殿下が自ら紅茶を注いでくれた。ふわりと立ち上る香りに思わず目を見開く。
「あ……」
「気付いた?」
楽しそうな声に顔を上げると、殿下は嬉しそうに微笑んでいる。
「これ、私が好きだとお話した……」
手紙で一度だけ話したことのある茶葉。昔、伯爵領に立ち寄った旅の客人にいただいて以来気に入っているけれど、少し珍しくてなかなか手に入らない品種。
まさか覚えてくれているなんて思わなかった。
「覚えていらっしゃったんですか?」
「話してくれたことは全部覚えているよ」
何気なく言われた言葉に心臓が跳ねる。何十通もあったのに、内容を覚えてくれているだなんて嬉しかった。
「本当ですか……?」
「うん」
そう言った殿下はどこか当然のことを話しているような顔をしていてる。
だけど、その後、彼は少しだけ顔色を曇らせた。
「だから、返事が来なくなった時は、本当に嫌われたと思った……」
低い声に胸が痛む。今後現れるであろう殿下の婚約者のことや、未来のこと、色々なことを考えて手紙を止めた。けれど、そんな風に思わせていたなんて申し訳なかった。
「そんなことありません!」
気付けば声を上げていた。殿下が驚いたように目を見開く。
「絶対に違います! 殿下を嫌いになったことなんて、一度もありません」
すると、彼は少しだけ目を伏せて、安堵したように微笑んだ。
「良かった」
その一言が、どうしてか胸が締め付けられて苦しく感じる。
「また離れるのは、もう嫌だったから……」
聞こえるか聞こえないかの声でぽつりと零された言葉に思わず息を呑む。
「とにかく喜んでくれて良かったよ」
殿下は少しだけ照れたように視線を逸らした。
その表情と言葉で、鈍感な私でも目の前に並ぶお茶も、ヘーゼル国のお菓子も、この場所も全部、私のために準備してくれたのだと気付いてしまう。
「……ありがとうございます」
どうにかそう答えると、殿下は小さく笑った。
その後は時間を忘れて話した。本のことやお菓子のこと、仕事のことや王都のこと。くだらない失敗談まで。
笑って、話して、気付けば空は茜色に染まり始めていた。
「もうこんな時間……」
思わず呟く。楽しい時間はどうしてこんなに早いのだろう。
「送るよ」
殿下は少しだけ寂しそうに立ち上がった。
「今日はありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます」
名残惜しさを抱えながら頭を下げると、「ミレイナ嬢」と、名前を呼ばれた。
顔を上げると、殿下の紫の瞳が真っ直ぐ私を見ていた。
「また会ってくれる?」
まるで、それが何より大切な願いであるかのような声色。少しだけ不安そうに、少しだけ期待するような表情。
この人はこの国の第一王子。命じればいつでもすぐに会えるのに。彼は第二王子のように権力を振りかざす事などせずに、私の意志を、返事を待ってくれる。
答えなんて、最初から決まっているのに。
「……はい。もちろんです」
そう答えると、殿下は一瞬だけ驚いたように目を見開いた。
それから、安心したように肩の力を抜いて笑う。
「良かった」
その笑顔は、今日見たどの笑顔よりも嬉しそうだった。
夕暮れの光の中で見たその笑顔が、どうしようもなく綺麗で、帰りの馬車の中でも、ずっと胸の奥から離れてくれなかった。




