2-7.デート
返事を出してからというもの、約束の日は驚くほど遠く感じられた。
いつも通り家庭教師の仕事をこなし、生徒達の課題を確認し、授業の準備を進める。やるべきことは山ほどあるはずなのに、ふとした瞬間に思いを馳せてしまう。
家庭教師の仕事に向かう道中や、図書館で参考書を探している時。夜に寝台に入って目を閉じながら、気付けば約束の日のことを考えていた。
(何を着て行こう……)
(殿下はどんなドレスが好みなんだろう……)
(手土産は何が喜ばれるかな……)
そんなことを考えた自分に驚いて、慌てて首を振る。服装よりも、当日の立ち居振る舞いの方が大事だよね。
(殿下はどんな令嬢がお好きなのかな……)
そう考えながら、今話題の恋愛小説のヒロインの仕草を研究してみたり……。でも、次の瞬間には別のことが頭をよぎる。
(ヘーゼル国のお菓子って、どんな味なのかしら……)
結局、自分でも呆れるほど落ち着かなかった。そんな私を見て、ベルは毎日のように頬を緩めていた。
「お嬢様、最近ご機嫌ですね」
「そうかしら?」
「ええ、とっても」
意味深な笑みに居た堪れなくなって視線を逸らす。するとベルはますます楽しそうに笑った。
約束の日が近付くにつれ、胸の奥は色々な感情が入り混じった。
嬉しい。楽しみ。少しだけ不安。
けれど、そのどれよりも強かったのは――。
(早く会いたいなぁ……)
そんな気持ちだった。
そして迎えた約束の日。
窓の外には、どこまでも澄み渡る青空が広がっていた。私は何度目か分からない深呼吸をしてから、迎えに来たエルベローズ公爵家の馬車に乗り込んだ。
暫くすると、馬車はエルベローズ公爵家が所有する湖畔の別荘の前で止まった。
王都から僅かな距離しか離れていないのに、喧騒から離れたその場所は驚くほど穏やかで、風が木々を揺らす音と鳥のさえずりだけが聞こえていた。
(本当に来てしまった……)
手紙の返事を書いた時は勢いだった。けれど日が近付くにつれて緊張は増すばかりで、会いたくて仕方がなかったはずなのに今日だけで何度「やっぱり帰りたい」と思ったか分からない。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
付き添いとして同行してくれたベルが小声で尋ねる。
「だ、大丈夫よ」
「顔色が全然大丈夫じゃありません」
「緊張しているだけだから……」
するとベルはなぜか満足そうに頷いた。
「良かったです」
「何が?」
「好きな方とのお茶会ですもの」
「ベル!」
思わず声を上げると、彼女は楽しそうに笑った。
「では、私は別室で控えて居ますので、楽しんできてくださいね!」
ベルが逃げるようにして、離れていったその時だった。
「ミレイナ嬢」
聞き慣れた声に顔を上げると、離れの入口に立つ人物が目に入る。白銀の髪が陽光を受けて煌めき、紫の瞳が真っ直ぐこちらを見つめていた。
(綺麗な人……)
舞踏会でも、婚約式の日にも思った。けれど今日はあの時とは何かが違う。
彼の姿を見ると、胸がギューっと掴まれたようで、息が止まりそうになる。
「来てくれてありがとう」
柔らかく微笑む彼に、心臓が跳ねる。
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
平静を装って、礼儀正しくお辞儀をすると、殿下は少しだけ困ったように笑った。
「手紙ではあんなに気楽に話してくれるのに」
「え?」
「会うと急に他人行儀になるんだね」
揶揄うようなその言葉に、思わず顔が熱くなる。
「だって……」
「だって?」
聞き返されて言葉に詰まった。そんなこと言えるはずがない。手紙では平気だったのに、実際に会えば顔を見るだけで緊張してしまうだなんて。
「安心した」
「何がですか?」
「私だけ緊張しているんじゃなかった」
「殿下も緊張されるのですか?」
思わず聞き返すと、彼は少しだけ視線を逸らした。
「するよ。……今日を楽しみにしていたから」
その言葉に胸がぎゅっと締め付けられた。
「中に入ろっか」
殿下はそう言って手を差し出す。頭が上手く回っていない私は、一瞬その意味が分からなかった。
けれど、すぐに気付いて慌てる。
(エスコート……!?)
社交界では何度も見たことがある。けれど、自分が殿下にされる側になるなんて思ってもみなかった。
差し出された手を見つめる。手袋越しでも分かる長い指。
「えっと……」
戸惑う私に、殿下は「嫌だった?」と少しだけ首を傾げる。私は慌てて首を振った。
「ち、違います!」
嫌なはずがない。ただ、あまりにも自然なエスコートに、改めて彼が王族なのだと思い知らされる。
少し緊張しながら自分の手を重ねると、殿下は優しく微笑んだ。
手袋越しに触れているだけなのに、鼓動がちっとも落ち着かない。けれど手を離したいとは思わなかった。
歩いて離れの中を進むと、とても落ち着いた雰囲気の邸だった。大きな窓から柔らかな光が差し込み、磨かれた床に反射している。
だけど、そんな周りの雰囲気に意識を配る余裕なんて私にはなかった。
隣を歩く殿下との肩が触れそうで触れない距離をずっと意識してしまう。
(落ち着いて……)
何度も心の中で唱えるけれど全く効果がない。
気まずいわけではなくて、ただ、妙に落ち着かない。
「で、殿下は慣れていらっしゃるんですね」
「何が?」
「その……エスコートとか」
すると、殿下はクスッと笑った。
「いいや、そんなことないよ」
「え?」
「今も少し緊張してる」
「殿下がですか?」
「失敗したらどうしようかと思っていた」
顔をあげると、彼ははにかむように笑っていて、その横顔を見た瞬間、胸がきゅっと締め付けられた。
少し進むと、窓の外には湖が見えた。陽光を受けてきらきらと輝いている。
「綺麗……」
思わず呟くと、殿下が足を止めた。
「湖が?」
「はい」
リオン殿下は少しだけ笑った。
「うん。ここは私も好きなんだ」
「……でも」
「?」
「今日は湖より君ばかり見てしまう」
その言葉の意味を理解した瞬間、全身が熱くなるのを感じて、思わず俯いてしまった。
「可愛い」
追い打ちをかけるように、殿下のくすぐったくなるような声が降ってきて、私は思わず空いた手でドレスをギューッと握りしめる。
「ごめん、言い過ぎたね。
君がここにいるのが嬉しくて」
(もう、ずるい……)
殿下の何気ない言葉や仕草にどうしようもなくドキドキしてしまう自分が恥ずかしくて仕方ないのに、殿下の言葉が嬉しくて仕方がない。
好きな人と過ごす時間が、こんなにも特別だなんて知らなかった。
隣を歩くだけで嬉しくて、彼が話すだけで胸が弾んで、彼の笑顔を見ると、どうしようもなく幸せになる。
(殿下が、好き……)
もうこの気持ちに嘘はつけなかった。きっと私は、ずっと前から気付いていたのだと思う。
けれど、その想いを口にする勇気はまだない。今の関係が壊れてしまうことが怖かった。
だからせめて、今日という日を大切に覚えていたい。
こうして隣を歩けることも、優しく微笑んでくれることも、自分のために時間を作ってくれたことも。全部、ひとつ残らず。
「ミレイナ嬢?」
不思議そうな声に顔を上げると、紫の瞳が真っ直ぐ私を見つめていた。
その眼差しは驚くほど優しくて、胸の奥が温かくなる。
「大丈夫?」
「……はい」
言えるはずがない。今、胸の中が幸せでいっぱいだなんて。あなたに会いたくて仕方なかっただなんて。
ただ、今そばにいられることが幸せだということは伝えたくて、そっと微笑む。
「今日、お会いできて嬉しいです」
そう言うと、殿下は目を細めて笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸がまたひとつ高鳴る。
ああ、本当に。困ってしまうくらい――私はこの人が好きなのだ。




