2-5.勇気
王都、伯爵邸――
婚約式の後、私は食事を食べることができずに部屋に籠っていた。
心配する両親に「少し疲れたの」と伝えると、お母様は心配そうに眉を下げたが、それ以上追求されることは無かった。
「恋に悩んでる場合じゃないのに……」
今日は婚約式でお休みを貰ったが、明日からはまた家庭教師の仕事が詰まっている。それに、婚約者から逃れられたからと言って、自分の死から完全に逃れられたかは分からない。
(また、新たな困難が発生した時のために備えないと……)
小さく息をついて、明日の授業の準備のために机に向かおうとした時、タイミング良く扉が叩かれた。
扉から顔を出すと、ベルがキッチンカートと共に腕を組んで立っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。……お食事をとられていないと聞きましたのでお持ちしました」
「ありがとう。でも、今日は……」
「今から明日の準備をされるのですよね? 少しでも何か食べてください。栄養が行ってないと頭の回転が悪くなります!」
彼女は若いのに容赦がない。勝てる気がしなかった私は扉を開いた。
ベルが準備してくれたのは消化の良さそうなリゾットと野菜スープだった。今日はお祝いだから家族の食卓には肉料理が並んでいたのに……。きっとベルがわざわざ準備してくれたんだろう。
「ありがとう。ベル」
私が感謝の気持ちを伝えると、彼女はホッとしたように微笑んだ。
食べ終えると、ベルはハーブティーを準備してくれた。心を落ち着ける香りが部屋いっぱいに広がる。
「お嬢様、婚約式で何かありましたか?
目の周りのお化粧が崩れているので……」
「マリアンナの晴れ舞台に感動したのよ……」
しかしベルはじっと見つめてくる。
嘘をついても全部見抜かれる、そんな相手だ。
「お嬢様、無理に話して欲しいとは思っていません。
ですが、誰かに話すことで気持ちを手離すことも出来ます。
人を頼ることもたまには悪くないですよ」
"気持ちを手離す"そんな考え方、したことなかった。私は思い切って、殿下への気持ちを話してみることにした。
「……ベル。もし……もしもね。叶わないってわかってる恋をしたら……どう、する?」
ベルが想像していた悩みと違ったのだろう。彼女は一瞬まばたきをして、それからゆっくりと歩み寄り、私の肩にそっと手を置いた。
「叶わないって、“決めている”だけじゃないんですか?」
「相手には婚約者候補になる方がいるのよ……」
"未来を知っている"とは言えない。
でも、ベルは深く聞きはしなかった。
「……私には貴族の方々の婚姻のことは分かりませんけど」
柔らかく笑って、彼女は続ける。
「好きって気持ちは、それだけで立派ですよ。叶うかどうかより……まずは、誰かを好きになれた自分を大事にしてあげてください」
その言葉に胸がきゅっと締めつけられる。
確かに恋なんてちゃんと知らなかった回帰前の私に比べたら、誰かを好きになることができただけでも進歩だ。
(だけど……)
殿下の横に並ぶ未来の令嬢の姿が、瞼の裏にちらついて、息が詰まった。
「……どうして、望んでしまうのかな……」
自分でも驚くほど弱い声だった。
ベルは少し考えるようにしてから言った。
「お嬢様は、まだ起きてもいないことを心配して、我慢しようとしているように見えます」
その言葉に心が揺れた。
回帰してからずっと"知っている未来"に固執しすぎていた気がする。
リオン殿下との出会いも。
家庭教師として働いている今も。
アレン殿下の婚約者が私ではなくなったことも。
既にあの時とは変わっていることが沢山ある。
なのに私は、知っている未来ばかり気にして、怖がって、今を生きることを手放していた気がする。
「明日雨が降るかもしれないからって、今日まで傘を差す必要はありませんよ」
そんな当たり前みたいな言葉が、胸に落ちて涙が滲んだ。
(……私、未来に怯えて、今を全部諦めようとしてたんだ)
「それに、本当にその時が来たら、一緒にいっぱい泣いて差し上げますよ。
忘れないでください。お嬢様には"恋"だけではありません。たくさん味方がいますから」
もし、殿下との恋が叶わなくても、その恋だけが私の全てではない。それで私の価値がなくなってしまう訳ではない。
一緒に気持ちを分かち合える人が居てくれると思うと、心が急に楽になった。
「ありがとう。ベル」
ベルが部屋を出ていくと、私は窓を開けた。
春の夜風が頬を撫でる。
回帰してから何度も見上げた夜空は、同じはずなのに今日は少しだけ違って見えた。
その夜遅く、殿下が貸してくれた小説の上巻を読み終えた。
最後のページを閉じようとした、その瞬間――
ページの隙間から、小さな紙片がはらりと落ちた。
震える手で拾い上げて読む。
『感想を一緒に話せると嬉しい』
その一言だけで鼓動が早くなる。
私は机に向かい、深呼吸をする。
「……書こう。
今だけでも、自分の気持ちに素直でいたい」
震える手で、便箋を広げる。
『お心遣いをありがとうございました。
……続きを、お借りできれば嬉しいです』
書き終えた瞬間、胸が熱くなった。
もう後戻りできないことが、怖くもあり、どこか解放されたようでもあった。




