2-2. 眷恋
暫くして婚約式が始まった。
会場は静寂になり、一気に王族の催し物特有の厳正な空気に包まれる。
前へ進むマリアンナは純白のドレスに包まれ、誰が見ても愛らしく、全てが祝福される幸せの象徴のようだ。
その腕を取っているのは──第二王子、アレン殿下。
回帰前、自分を殺した二人が並んでいる場面を、こうして見る日が来るなんて。
けれど……不思議だった。
恐怖も、悔しさも、憎しみも湧いてこない。
あの日の血の匂いも、絶望の重みも、まるで別人の記憶みたいに遠い。
(未来を変えることができたから?かな……)
それとも、心のどこかが、別の痛みで塞がれてしまっているからだろうか。
拍手が広間を満たし、私もその波に手を重ねた。少し前なら苦しかったはずなのに、憎い二人の幸せな姿を前にしても、笑顔を作るのは簡単だった。
(思ったより呆気なく終わった……)
式が終わり、一息つきたかった私は、人の波が緩んだタイミングで化粧室へ向かった。
身だしなみを整えて、小さく息を吐く。
(……大丈夫)
参列者とは上手く挨拶できたし、殿下とも何事も無かったように話せた。それに、婚約式自体も心を乱すことなく終えることが出来た。
(後は最後まで笑顔よ!)
私は鏡台の前で、無理に笑顔を作る。そうして、来た回廊を戻ろうとした、その時だった。
すっと伸びてきた手が、手袋越しに私の手に触れて、ぐっと引き寄せられる。
「ミレイナ嬢」
突然のことに驚いたが、その声で振り返る間もなく誰なのかすぐに分かってしまった。
リオン殿下は、自身と壁の間に私を隠すように挟み込むと、その近距離で長い指が静かに唇へ添えられた。
「……シーッ」
吐息のような甘い音に鼓動が大きく跳ねる。
間近に近付いた殿下の美しい顔のどこに目線を置けばいいか分からず、私は視線を伏せたまま声を上げた。
「で、殿――」
問いかけようとした口元を、今度は白い手袋の指先がそっと塞ぐ。
「ごめんね」
間近で囁かれた声に、心臓が止まりそうになった。穏やかな声なのに、有無を言わせない雰囲気に、私は小さく頷くことしかできない。
「ありがとう。少しだけ付き合ってくれる?」
リオン殿下はそう言うと、口元に当てられた手を離し、回廊を奥へと手を繋いだまま引っ張っていく。
腕を掴む力は強くないのに、拒めなかった。むしろ、抗うという発想自体が浮かばない。
式場の喧騒が遠くなるほど、胸がじんじんと熱くなる。
人気のない回廊へと足を踏み入れると、そのまま控え室のような部屋に連れて行かれた。
扉が閉まるとカチャリと鍵の音が静かな室内に響く。
(きっと外から他の人が入ってこないようにする為……だよね。第二王子派の貴族に見られると厄介だし……)
そう分かっていても、胸が大きく跳ねた。
「驚かせてしまったね。ごめん」
リオン殿下が、ふっと眉尻を下げる。こんなことを言うと危機感が無さすぎると言われるのだろうけれど、不思議と怖さは感じなくて、その柔らかな表情だけで安心してしまう。
「い、いえ。私は大丈夫です」
「ありがとう。君と話がしたかったんだ」
殿下が紡ぐ言葉は手紙で何度も読んだ言葉より、ずっと甘く聞こえた。
「どうかされましたか?」
私は距離を詰めないよう必死で平静を装う。ふいに、彼は少しだけ目線をそらして言った。
「手紙が返ってこなくなったから……」
(え……)
殿下から言われるとは思っていなかった一言に心が揺れる。
恋なんてしてはいけない人なのに、絶対に叶わない恋なのに。なのに、殿下の言葉ひとつで、心が勝手に疼く。
嬉しい。でも、嬉しいなんて思ってはいけない。
「す、すみません……忙しくて……」
咄嗟に嘘をついた。
「そう思おうとしたんだけど……どうしても気になって」
(気になって……?)
その単語が胸に刺さった。だけど、殿下はもうじきに運命の相手と出会う。そうなれば、私のことなど忘れてしまうだろう。
私はリオン殿下にとって、きっと憎いであろう兄であるアレン殿下の婚約者の姉でしかない。
関係性としては遠いし、決して好ましく思われることのない立ち位置だ。
揺れる気持ちをごまかすように、私は裾をぎゅっと握った。
「……ごめんなさい」
思わず俯くと、顎の下へ殿下の指先が伸びて来て、手袋ごしでもびくりと肩が震えた。
「顔を見せて」
「殿下……お許しを」
「久しぶりに会えたのに……。
ずっと俯いているつもり?」
殿下の困ったような声音に、思わずゆっくり顔を上げると、至近距離に揺れる紫の瞳があった。
手紙で何度も想像した人が、そこにいる。それだけで泣きそうだった。
殿下はその透き通るような紫の瞳で、何かを確かめるようにじっと私を見つめた。まるで失ったものを取り戻すように。
「……元気そうで良かった」
手紙を勝手に終わらせた無礼を責めることなく、ただ、私の身を案じるような言葉と表情に胸が苦しくなる。
私は逃げるように一歩下がって「そろそろ戻りましょう」と言おうとした所を殿下の声が遮る。
「ああ、そうだ。これを君に渡したかったんだ」
殿下は懐から、一冊の本を取り出した。視線を下ろすと、厚めの表紙に見覚えのある異国の文様が見える。
「これは……」
「手紙で話していた、ヘーゼル国の小説。別シリーズの上巻だよ。新しく輸入したと聞いて、君が好きそうだなと思って」
私は一方的に終わらせてしまったのに、殿下は覚えてくださっていた。それだけのことなのに、胸がふわっと軽くなるような感覚がした。
「読んでみたい、でしょ?」
殿下はからかうような優しい笑みを浮かべる。
「……いいのですか?」
「うん。この小説には続きがあるんだ。
だから、続きが気になったら、また知らせて」
それは、つまり、また手紙を送ってほしいという意味で――。私はどう答えたら良いか分からなかった。
「……私は、いつでも待ってるよ」
そう言う殿下の表情は、どこか憂いを帯びていて、どことなく縋るような目をしている。私は何と返すのが正解なのか分からなかった。
***
婚約式からの帰り道、馬車が石畳をゆっくり進むたび、揺れが胸の奥のざわめきをかき立てる。
殿下の囁くような声、近くで見た紫の瞳、「寂しかった」の言葉。
思い出すたび、心臓が苦しいほど締め付けられる。
話しかけてもらえたことが嬉しかった。
手紙を待っていてくれたことが嬉しかった。
私なんかを忘れずにいてくれたことが――泣きたくなるほど嬉しかった。
だけど、回帰前の未来を知る私には分かっている。殿下には、やがて隣に立つべき人が現れる。
それは王太子となる彼に必要な縁であり、王国の未来にとっても大切な選択だ。
だから私は、その場所を望んではいけない。そんなことは痛いくらい分かっている。
分かっているのに、殿下のことを考えてしまう。
ふいに視線を落とした先で、自分の手が目に入った。あの時、殿下に掴まれた手。
もうとっくに離れているはずなのに、まるで熱だけが残ってしまったみたいに、そこだけが妙に意識される。
私はそっとその手を握りしめた。
「……ダメなのに……」
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からない。
馬車の窓の外では、夕暮れの空がゆっくりと藍色へ変わっていく。
けれど胸の奥に灯った小さな熱だけは、どうしても消えてくれなかった。




