2-1.婚約式
春が来た。
突然、過去へと巻き戻されてから――一年。
私は十六歳になっていた。今年の秋には、十七歳になる。
回帰前の私は、十七歳になる直前に母と弟を馬車の事故で失った。そして、その二年後には私自身も命を落とした。
窓を開けると、春の柔らかな風が頬を撫でていく。
あの未来を知っている私に、残された時間は決して長くない。
「ミレイナ、準備はできた?」
お母様の声に、私は振り返った。
「はい。今行きます」
今日は、マリアンナと第二王子アレン殿下の婚約式。
家族として、欠席するわけにはいかない。
鏡の中には、春色のドレスに身を包んだ自分がいる。
いつもと変わらない姿。
なのに――胸の奥だけが、どうしようもなく騒いでいた。
(……会うよね、きっと)
手紙のやり取りを終えてから、一度も顔を合わせていない。
それでも、何度も読み返したあの穏やかな筆跡は、今も鮮明に覚えている。
今日は、その文字の主に会う。
突然、手紙を絶ってしまった非礼。
そして、決して口にすることのできない想い。
それらを胸の奥へ押し込めたまま、私は家族と共に馬車へ乗り込んだ。
(……どんな顔をして会えばいいんだろう)
その問いだけが、馬車が王宮へ向かう間も、ずっと胸の中に残っていた。
***
婚約式が執り行われる神殿の教会は、春の柔らかな光に満ちていた。
壁には春の花を模した装飾が施され、華やかながらも神聖な空気が漂っている。
私は家族の後ろを歩きながら、落ち着かない胸をそっと押さえた。
そして、教会へ足を踏み入れた瞬間――
王族の席の近くに、ひときわ目を引く青年の姿を見つけた。
白銀の髪。
凛と伸びた背筋。
後ろ姿だけでも、すぐに分かった。
(……リオン殿下)
あの日の舞踏会から、少し背が伸びたように見える。
以前よりも、どこか大人びていた。
手紙の中の殿下には、もう慣れていたはずなのに。
こうして“本物”を目の前にすると、やっぱり遠い人なのだと思い知らされる。
殿下がこちらを見ていないのをいいことに、私はしばらくその姿を目で追っていた。
――その時だった。
ふと、リオン殿下が振り返った。
視線が重なる。
心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
殿下は一瞬だけ驚いたように紫の瞳を見開き――やがて、ふっと微笑んだ。
その眼差しは、あまりにも優しかった。
まるで、
『久しぶり。元気だった?』
そう、いつもの手紙の続きを語りかけてくれているようで。
(……そんな顔、しないで)
胸の奥が、きゅっと痛む。
そんなふうに優しくされたら――また、期待してしまう。
私は慌てて小さく会釈し、視線を逸らした。
本当なら、ここで笑顔を返すべきなのだろう。
けれど、そんな余裕はなかった。
胸の鼓動が、まだ収まってくれない。
けれど、感傷に浸っている暇もなかった。
婚約式の主役であるマリアンナの生家とあって、両親のもとには次々と貴族たちが挨拶に訪れる。
私もその隣に立ち、笑顔を崩さず応対した。
こういう場では、回帰前の記憶が役に立つ。
王族と関わりの深い貴族の顔も名前も、彼らの好みもある程度覚えている。
両親が言葉に詰まりそうになれば、すかさず会話を引き取った。
「スクラート子爵の領地は、確か葡萄の名産地でしたよね」
「アルバート伯爵様のご子息は、ヴァイオリンがお得意だと伺っております」
前世では、王子妃になるために身につけた知識。
今は、家族を助けるために使える。
そう思うと、不思議と嫌ではなかった。
そんな時――
「フェリエール伯爵。本日はおめでとうございます」
柔らかな声が降ってきた。
振り向かなくても分かる。
「これは、リオン殿下……! ありがとうございます。こちらからご挨拶に伺うべきところを、申し訳ございません」
両親と共に頭を下げる。
顔を上げれば、すぐ目の前に殿下がいた。
手を伸ばせば届きそうな距離。
それだけで、また鼓動が速くなる。
「ミレイナ。リオン殿下とは初めて会うだろう。きちんとご挨拶しなさい」
お父様に促され、私は一瞬だけ息を呑んだ。
(……そうだった)
公の場では、私たちは今日が初対面。
あの手紙も。
あの一年間も。
最初から存在しなかったことになっている。
「失礼いたしました、リオン殿下」
私は一歩前へ出て、淑女の礼を取った。
「私、ミレイナ・フェリエールと申します」
「お気になさらず」
殿下は穏やかに微笑んだ。
その声も。
その表情も。
誰に向けるものとも変わらない。
私たちは、ただの王子と伯爵令嬢。
それ以上でも、それ以下でもない。
簡単な挨拶を終えると、殿下はそのまま人々の輪へ戻っていった。
その背中を見送りながら、胸の奥がじわりと痛んだ。
(……手紙じゃないと、私たちはこんなに遠いんだ)
便箋の上なら、もっと近かった。
今日見つけた花の話も。
家族の話も。
最近読んだ本の話も。
どうでもいいような小さな出来事まで、何でも話せた。
なのに、顔を合わせれば交わせるのは、決まりきった挨拶だけ。
同じ場所にいるのに。
ほんの少し前まで、あんなにも近くに感じていた人が――今は、まるで別の世界の人に見えた。
(……ちょっと、寂しいな)
胸に落ちたその言葉は、誰にも届かないまま、静かに沈んでいった。




