1-14.恋心
ある晩、ふと気づいた。
(……私、どうしてこんなに返事を待ってるんだろう)
手紙が届く日を、心待ちにしている。
封を開ける前に、なぜか一度深呼吸してしまう。
丁寧な筆跡を目にしただけで、胸が熱くなる。
たった一言に一喜一憂して、読み終えたあとには自然と頬が緩んでいる。
そんな自分に気づいて、思わず苦笑した。
(……まるで、これじゃ――)
そこから先を認めるのが怖くて、私は慌てて首を横に振った。
***
そんなある日の昼下がり。
私は新しい便箋を前に、インクの色で悩んでいた。
こちらの青は少し明るすぎる。
かといって、落ち着いた藍色では少し堅苦しい気もする。
「……どっちがいいかなぁ」
小さく呟いた、その時。
「お嬢様、またグラウス子爵家へのお手紙ですか?」
背後から、くすくすと笑い声が聞こえた。
「ベル……」
振り返ると、ベルが楽しそうな顔で立っている。
「ま、またって何?」
「一週間前にも、同じことで悩んでいらっしゃいましたよ」
「ち、違っ……これは、その……!」
言い訳を探していると、ベルがわざとらしく首を傾げた。
「不思議ですねぇ。他の令息へのお返事は、いつも同じ便箋とインクなのに」
「……」
「グラウス子爵家へのお返事だけ、毎回そんなに悩まれるのはなぜでしょう?」
「……何となくよ」
「まあ」
ベルは口元を隠して笑った。
「では、手紙を受け取った時に、あんなに嬉しそうなお顔をされるのも“何となく”なのですね」
「……っ!」
「恋する乙女そのものですよ」
「こ、恋とかじゃないわ!」
「そうですか?」
「そうよ!」
「では、驚くと人はあんなふうに笑うのですね。勉強になりました」
「…………」
ぐうの音も出ない。
私は顔が熱くなるのを感じながら、黙り込んだ。
そんな私を見て、ベルは少しだけ表情を和らげる。
「大丈夫ですよ、お嬢様。誰にも言いません」
「……本当に?」
「もちろんです」
ベルはそう言って、私の肩をぽんと軽く叩いた。
「ただ……私は、お嬢様にもっと年相応の楽しみを知ってほしいと思っています」
「……?」
「手紙を書いていらっしゃる時のお嬢様、とても楽しそうですから」
その言葉に、胸がじんわりと熱くなる。
「前よりずっと、生き生きされていますよ」
「……そんなに分かりやすい?」
「はい」
ベルは即答した。
「お嬢様は、素直なお方ですから」
「……もう」
私は恥ずかしさに耐えきれず、両手で顔を覆った。
本当に、そんなに分かりやすいのだろうか。
もしそうなら――。
(殿下に会ったら、私の気持ちなんてすぐに気づかれてしまうんじゃ……)
そんなことを考えてしまって、また頬が熱くなった。
けれど。
この時の私は、まだ知らなかった。
この胸に芽生えた淡い恋が――やがて、私自身を苦しめることになるなんて。
***
それからというもの、私は毎日のように殿下のことを考えるようになった。
殿下が手紙で教えてくれた花を庭で見つけた時。
新しい便箋を買いに街へ出た時。
手から、殿下に贈っていただいたクリームの香りがした時。
ふとした瞬間に、決まってあの人の顔が浮かぶ。
美味しいものを食べれば伝えたくなる。
面白い本を見つければ教えたくなる。
小さな出来事に胸が弾めば、真っ先に手紙に書きたくなる。
そんなふうに日々を過ごしていると、今まで見過ごしていた小さな幸せまで、きらきらと輝いて見えた。
――恋をするだけで、世界はこんなにも変わるのだ。
そして何より。
ベルが手紙を届けてくれる時間が、楽しみで仕方なかった。
封筒に押された封蝋を見つけるだけで、胸が高鳴る。
震える指で封を開き、丁寧な文字を追う。
たったそれだけのことが、私には幸せだった。
(……ああ、私)
手紙を胸に抱きしめる。
(リオン殿下が、好きなんだ)
ようやく認めた想いは、ふわりと胸の奥を温めた。
けれど――その温もりは、すぐに冷たい影に覆われる。
(……でも)
忘れてはいけない。
私は、未来を知っている。
回帰前の記憶が、残酷なほど鮮明に蘇る。
リオン殿下には、いずれ婚約者が決まる。
気品があり、美しく、誰からも祝福される公爵令嬢。
前世で見た二人は、とてもよく似合っていた。
その婚約が、殿下を王太子の座へと押し上げる。
――私が知っている未来では、そうなる。
(婚約が正式に決まるのは……あと一年くらい?)
お見合いが行われるのは、確か半年ほど先だった。
私だけが知っている未来。
それは今の私にとって、変えることのできない確定事項のように重くのしかかっていた。
それに――。
マリアンナがアレン殿下に嫁ぐ以上、同じ伯爵家から二人も王族へ嫁ぐなんてありえない。
私はただの伯爵令嬢だ。
今では家庭教師として働き、家計を助けるために日々を過ごしている。
王族の隣に立てるような人間ではない。
最初から、私の恋には行き場などなかった。
(この想いを伝えることもできないまま……いつか、全部終わるんだ)
そう思うと、胸が苦しくなった。
殿下の優しさに触れるほど、いつか訪れる別れが怖くなる。
好きになればなるほど――失う日が近づいてしまう気がした。
(叶わなくても……いいじゃない)
そう自分に言い聞かせる。
ただ、今こうして手紙を交わせるだけで幸せなのだから。
そう思おうとした。
けれど。
いつものように返事を書こうとして、ペン先が止まった。
生徒が褒められたこと。
庭に咲いた花のこと。
最近読んだ本のこと。
書きたいことなら、いくらでもある。
それなのに――。
今日は、どうしても書けなかった。
私はしばらく白紙の便箋を見つめたあと、静かに筆を置いた。
そして、書きかけの手紙を机の引き出しへしまう。
(……また明日、書こう)
そう思って、引き出しを閉じた。
――それが、殿下へ送るはずだった最後の手紙になった。
この時の私はまだ知らなかった。
この一通を最後に、自分から距離を置くことが――
やがて、あの人を深く傷つけることになるなんて。




