1-13.手紙
それからの日々は、慌ただしく過ぎていった。
家庭教師の仕事は口コミで少しずつ広がり、生徒は三人、四人と増えていった。
仕事を終えて屋敷へ戻る頃には、すっかり日が暮れていることも珍しくない。
それでも、不思議と苦にはならなかった。
誰かの役に立てることが嬉しかった。
何より、自分の力で稼いだお金が家族の暮らしを支えていると思うと、胸の奥が誇らしくなる。
そんな充実した毎日の中で――ふと、思い出す人がいた。
ルイ。
そして、もう一人。
あの日、私の荒唐無稽な願いを信じ、未来を変えるために動いてくれた人。
(……リオン殿下)
感謝を伝えたい。
そう思いながらも、私にはその方法がなかった。
だから時折、王宮のある方角を見上げては、小さく息を吐いていた。
そんな、ある日の午後。
家庭教師の仕事を終えて屋敷へ戻ると、使用人のベルが嬉しそうに駆け寄ってきた。
「お嬢様、お帰りなさいませ!」
「ただいま」
「エルベローズ公爵家のご親戚にあたる、グラウス子爵家からお手紙が届いておりますよ!」
「グラウス子爵家……?」
思わず首を傾げる。
エルベローズ公爵家といえば、代々王族の側近を務める名門だ。武芸にも秀で、近衛騎士団を率いる家柄でもある。
リオン殿下の側近、クリステール様のご実家でもある。
けれど、その傍系にあたるグラウス子爵家とは、回帰前にも関わりがなかった。
(……何の用かしら?)
不思議に思いながら封を開く。
中には、丁寧な筆致で簡素な挨拶が綴られていた。
そして――最後に、追伸がひとつ。
『P.S.
婚約者の件は、君の望んだ通りになっただろうか。
これから困ることがあれば、この宛名に手紙を送ってほしい。
必ず、君の助けになるよ』
――息が止まった。
この言葉が誰のものなのか、分からないはずがない。
(……リオン殿下……!)
胸の奥が、じんと熱くなる。
あの夜。
私の言葉を信じてくれて、未来を変えるために動いてくれた人。
ずっと、もう一度お礼を伝えたいと思っていた。
私は手紙を胸元へ抱きしめる。
(……ちゃんと、お礼を言わなくちゃ)
本来なら、深く関わるはずのない相手。
ここでお礼の手紙を送ることで、また未来が悪い方向へ変わってしまうのではないか――そんな迷いもあった。
それでも。
この優しさを、何も言わずに受け取るだけなんてできなかった。
私は便箋とペンを取り出し、机に向かった。
「……まずは、ご挨拶。それから……」
ペン先を紙に置く。
「……未来が変わったなんて書けないし……」
書いては消し、また書いて。
王子妃教育の中で、手紙の書き方は何度も教わっていた。
礼儀正しい文章を書くことなら、難しくない。
なのに。
たった一人に宛てた手紙を書くことが、こんなにも難しいなんて思わなかった。
何度も書き直して、ようやく一通の手紙を書き終えた。
ベルに託してから数日後――。
返事が届いた。
『君の家の事情も落ち着いたようで安心したよ。
家庭教師をしている君は、きっと素敵な先生なんだろうね』
思わず頬が緩む。
そして、その下には――
『そういえば、王宮の庭では東洋から贈られてきた紫陽花が咲き始めたよ。
もうすぐ雨季が来るね。
肌寒い日もあるから、体調には気をつけて』
ただの挨拶だけではない。
王宮で見た花のこと。
季節のこと。
そして、私の身体を気遣う言葉。
その一つひとつが、どこかくすぐったかった。
さらに封筒の中には、小さな栞が入っていた。
紫と青の紫陽花が、押し花になってあしらわれている。
『P.S.
庭園の紫陽花を押し花にしてみたので、良かったら使ってほしい』
(……もしかして、殿下が作ったの?)
そう思っただけで、自然と笑みがこぼれた。
それから――私たちの文通は続いた。
もちろん、宛先はグラウス子爵家。
最初は、あの日の礼に対する殿下の気遣い。
きっと、それだけだった。
けれど。
季節がひとつ巡る頃には、手紙は少しずつ増えていた。
夏には、王都で評判の氷菓子の話。
王宮の庭に咲いた向日葵のこと。
秋には、芋やかぼちゃ、栗を使った甘味の話や、秋桜の押し花。
お互いの好きな小説を紹介し合うこともあった。
冬。
『寒くて手がかじかんで、今日は筆が進みませんでした』
そんな、どうでもいいような悩みを書いたら――
次の手紙には、手袋とハンドクリームが同封されていた。
気がつけば、私も何でも書くようになっていた。
好きな食べ物。
最近読んだ小説。
家族のこと。
家庭教師の仕事で嬉しかったことや、少し困ったこと。
今日見つけた、小さな出来事。
リオン殿下は、忙しいはずなのに。
私のどんな些細な話にも、きちんと耳を傾けてくれた。
返事を読むたびに、まるで目の前で話を聞いてもらっているような気持ちになる。
そして――殿下が綴る王宮の四季を読むたびに、私は不思議な感覚に包まれた。
回帰前、何度も見たはずの景色なのに。
今は、まるで知らない場所のように思える。
夏の日差しに揺れる、向日葵の中庭。
秋風に花弁を揺らす、秋桜の庭園。
雪に包まれた、静かな王宮。
もう二度と戻りたくないと思っていた場所なのに。
――殿下と一緒なら、また見てみたい。
そんな気持ちが、少しずつ芽生えていた。
けれど。
その一方で、胸の奥がほんの少し寂しくなる。
手紙に綴られた景色は分かる。
けれど、それを語っている殿下の声は分からない。
どんな顔をして、どんな表情でその花を見ていたのかも。
最後に会ったのは、あの日の舞踏会。
もう、あれからずいぶん経っている。
私は届いたばかりの手紙を胸に抱き、窓の外を見つめた。
(もし、今……殿下が目の前にいたら)
最初に、何を話すだろう。
ありがとうございます?
お元気でしたか?
それとも――。
そんなことを考えているうちに。
胸の奥から、ぽろりと言葉がこぼれた。
「……会いたいな」
自分で口にしてから、はっとする。
「…………え?」
頬が、じわりと熱くなった。
私は慌てて手紙で顔を隠す。
(……私、今……何て言ったの?)
けれど。
その言葉を、もう一度心の中で繰り返してみても。
やっぱり、同じ気持ちだった。
――会いたい。
ただ、それだけだった。




