第9話 仲間の名前
装着スーツを脱いだ後、肩と背中の筋が一段重くなる。
俺は整備庫の壁に掛けたスーツを、フックの位置で揃え直す。神経接続コネクターの端子が4箇所、金属の重みでスーツの背面を下に引いている。布の重みではなく、端子の重みだ。神嗣士官学校の演習着とは、引かれる方向が違う。
整備庫の天窓から、夕暮れの薄い橙が差し込んでいる。庫内の奥は影に沈み、整備机の縁だけが橙色を撫でている。装着訓練の1日が、そこで終わろうとしていた。
ジンは整備机の脇で、別の機装の駆動関節に油を差している。背を向けたまま、片手だけが工具を動かしていた。
「飯食ってこい。明日は早い」
「分かりました」
「氷見、もう1つ」
「はい」
「明日、装着の手順は声に出して確認しろ。1回目より2回目、2回目より3回目で速くなる。声に出す方が、頭の中だけより速い」
「了解しました」
「同期が前後について動く。お前が詰まると、4人全員が止まる。覚悟だけしとけ」
「分かりました」
俺は短く返す。
肩の筋の重さは、装着スーツを着けていた間ずっと張り詰めていた緊張の名残だ。神嗣士官学校の剣の実技でも、ここまで肩が固まる経験はなかった。神経接続コネクターを通して、自分の意志を機装に流し続けるという作業が、身体の表側ではなく裏側を使う。
整備庫の扉を引き開けると、駐屯地の夕暮れが、雪原の青と空の橙を2色に分けて広がっていた。屋根の影が雪の上に長く伸びている。訓練場の方角からは号令の声がもう聞こえない。代わりに駐屯地の中央の方角から、食器の音や常民の声が薄く届いてくる。
食堂の方角だ。
左袖の灰色帯を、俺は指で一度だけ押さえた。位置を確かめる動作で、外す動作ではない。
今夜は初めて部隊の食堂に入る日だ。同期がいる、とジンは言った。
* * *
食堂の扉は、半分だけ開いていた。
俺は扉の縁に手をかけ、もう半分を押し開ける。室内の温度が外の雪原の青よりも一段高い。薪の温度と人の温度が、燕麦の混合パンの香ばしさと温野菜スープの湯気に乗って、俺の顔に当たった。
長机が3列。中央の長机に3人の常民兵が座っている。作業服の背中には、灰色ではなく濃い茶の階級記章が縫い付けられていた。1人がパンを千切り、もう1人が碗を口元に運び、残りの1人が頬杖を突いている。3人の手は、それぞれ違う速度で動いていた。
部屋の隅の長机に、もう1人。1人だけの席で、飲み物の碗を左手で口元に当てている男が、こちらに背の半分を向けている。
中央の3人のうち、入口から一番近い男が俺の左袖の灰色帯を一瞥した。残りの2人は食事を続けている。
「あんたが新入りだろ。ジンさんに聞いてる。氷見だっけ」
声をかけてきた男は20代半ばで、短い茶髪。左の目尻が下がる笑い方をしていた。
「氷見律です」
俺は入口で立ったまま、短く名乗る。
「アキラだ。安木暁、軍曹。あんたの隣の隣で寝てるベルクと、向かい合わせのマランも同じ部隊だ」
アキラがそう言って、横の男と向かい合わせの女の方を順に指す。
ベルクが俺の方へ軽く頷く。30前後、髪は短く、首から細い革紐を下げている。革紐の先は作業服の襟の中に隠れていた。
マランが目だけを上げる。20代前半、長い髪を後ろで1つに束ねていた。左目が微かに細まる。それ以上の動きはなく、視線はすぐ手元のパンへ落ちた。
「お世話になります」
俺はそう短く返す。
「世話なんて大袈裟だ。明日の出撃で死ぬか死なないかの話だけだから」
アキラがそう言って、自分のスープを匙ですくう。
横のベルクが匙を止める。
「アキラ、口に出すな」
「縁起でもないこと言うな、ってベルクには毎日言われてるんだよ、氷見」
「毎日、ですか」
「毎日だ。でも、口に出した方が、出撃の直前で怖がらずに済む。俺の流儀だ」
ベルクは匙をまた動かす。それ以上、アキラの流儀には触れなかった。
俺の喉の手前で、軽口が一拍だけ立ち上がる。
「同感です」
俺はそう言って、入口から長机の方へ1歩近づいた。
「俺、軽口は得意な方なんで、明日の出撃で死なずに済んだら、ちゃんと縁起担ぎ込みでお礼します」
アキラが匙を止めた。
マランの目線が、もう一度俺の顔へ上がる。ベルクが小さく笑う気配がした。
「マジか」
アキラが一拍止まってから、そう言う。
「今夜から仲良くできそうだ」
マランがパンを千切って、長机の俺の前の空席の脇に置いた。
俺はその空席に座る。長机の木の冷たさが、装着スーツを脱いだ後の肩の汗の名残を薄く吸い上げた。
* * *
「明日、北西の偵察だ」
アキラが匙を碗の縁に置いて、そう言った。
「獣形の群れの動きが鈍くなる前に、数を確認しておく」
俺はパンを千切りはじめる。
「そのまま交戦もあるんですか」
「偵察と言いつつ、群れに見つかれば交戦だ」
ベルクが俺の方へ視線を上げる。
「氷見、機装は何回乗った」
「今日が2回目です。装着が1回、起動が1回」
「マジか」
アキラがまた言う。
「それで明日、偵察、行くのか」
「ジンさんは慣らせとは言いましたけど、何回乗れとは言わなかったんで」
「ジンさん、言葉を選ぶ人だからな」
アキラが頷いた。
「明日、俺たち3人がついてる。お前は俺たちの後ろにいろ」
「分かりました」
マランがパンを千切って俺の前に置いた。
「いただきます」
ベルクが懐から、小さな布の包みを取り出す。長机の脇に置いて、結び目を片手で軽く開く。中に絵が3枚入っていた。馬と家、それから何かを抱えた子。線が太く、色は赤と緑と黄色だけだった。
俺はその包みを見るが、訊ねない。
ベルクの方から声が出る。
「氷見、俺、上が5歳、下の双子が3歳だ。中央のパクスにいる」
「家族の話、俺の前でしていいんですか」
「ここでしないと、いつする」
俺は答えない。
匙を持つアキラの手が、一度だけ止まった。マランは絵を見ない。視線は手元のパンへ向いたままだ。
「ベルクの家族の話、月に2回はあるからな」
アキラが軽い声で空気を戻す。
「覚悟しとけ、氷見」
俺は碗の薄い茶に視線を落とし、軽く息を吐く。
「じゃあ俺、5歳と3歳の双子の名前、初日に覚えた方が得ですね」
ベルクが小さく笑う。
「上はリヲン。下はサキとサクラだ。覚えとけ」
「リヲンとサキとサクラ。覚えました」
俺はそう繰り返す。3つの名前は、長机の上で薪の温度と一緒に、俺の喉を通った。
「氷見、お前、家族の話を聞かない癖があるな」
ベルクがそう言って、絵の包みを結び直す。
「神嗣の家では、聞かない流儀があるんで」
「ここは、どこの流儀でもない。聞きたければ聞け」
「分かりました」
「上のリヲンは、絵が好きなんですか」
「絵か。よく見たな。馬と家と、それから俺を抱いてる絵だ」
「ベルクさんが、上の子を抱いてる絵」
「逆だ。あの絵は、上の子が俺を抱いてる。リヲンの中では、その順番だ」
「順番」
「下の双子は、まだ絵は描けない。線が回る」
「線が回る」
「ぐるぐる丸を、ひたすら描く。あれが絵かどうかは、俺には分からん」
俺はそう返す。
* * *
俺は碗の薄い茶をひと口含む。
視線を一度だけ、部屋の隅の方角へ向けた。
隅の長机に、1人だけの男が座っている。作業服。左袖に灰色帯。飲み物の碗を左手で口元に当てて、もう一方の手は長机の上に置いたままだった。男の顔の半分は逆光で、こちらに向けられているのは耳と頬の輪郭だけだ。
俺は視線をその男の上に3秒置く。
アキラが俺の視線の方角を察する。
「あれな」
アキラが匙を碗に戻す。
「月村キョウ。俺たちの2年先輩」
「先輩」
「先輩って呼んでも、向こうは返事しない。食堂で一緒に飯食うのも、向こうから来ないと無理だ」
「ご一緒したことは」
「俺たち3人とは、4年で5回ぐらいだな。向こうから来た日は数えてる」
ベルクが匙を置いた。
「キョウは別家無冠だ。神嗣の家から廃嫡された口だ。お前と同じだ、氷見」
「同じ」
「お前より2年先に来た。お前の2年後を見たければ、あれを見ろ」
アキラがベルクの脛を蹴る音が、長机の下で短く鳴った。
「縁起でもないこと言うな」
「縁起じゃない。事実だ」
ベルクが匙をまた持ち上げる。
「氷見、聞いておくと損はない」
アキラが脛を蹴られた側の片手で、自分の脛を軽くさすった。
「月村さんは、ここに来た最初の1年で誰とも飯食わなかった。2年目から、月に1回ぐらいだ」
「数えてる、ってさっき言ってましたね」
「数えてる。お前も、月に何回飯食う相手になるか、こっちは数えるからな」
「数えられる側ですか」
「そうだ。覚えとけ」
俺はキョウの方角へ、もう一度視線を向けた。
キョウは飲み物の碗を口に当てたまま、視線を窓の方角へ向けている。窓の外は雪原の夜だ。月の光は薄く、長机の上に届く前に空気の中で消えていた。
キョウの顔の角度が、わずかに動いた。だが目は合わない。
俺は答えなかった。
隅の長机の方角を、俺はもう一度見なかった。
* * *
「氷見、明日朝5時に集合だ」
俺が席を立つとき、アキラが背中越しに声を上げた。
「寝坊するな」
「分かりました」
俺は食堂の扉の前で振り返り、軽く頭を下げる。マランは目線だけを上げ、ベルクは匙を持ち上げたまま頷いた。アキラの手は、匙を上げた合図の形で止まっている。
食堂の扉を引き開ける。外の雪原の青と、駐屯地の通路の月の薄い光が、室内の黄色の灯りを輪郭の外に押し出した。
通路の雪を踏む音は、自分の靴底だけから乾いた音で立ち上がっている。
兵舎の入口の前で、俺は一度立ち止まった。
振り返ると、食堂の窓に3人の影が映っている。アキラの背中とベルクの肩、それからマランの結んだ髪。窓の格子が、それぞれの輪郭を薄く区切っていた。
食堂の隅の方角は、窓の外からは見えない。
「リヲンとサキとサクラ」
俺は子の名前を短く声に出す。
名前を口に出してから、一度息を吐いた。3つの名前は、薪の温度が抜けて、北辺の夜の空気の中で別の重さを持っている。
明日は4人と並んで戦う。
そして、食堂の隅にもう1人いた。
俺は兵舎の扉を開け、自分の寝床まで歩く。2段ベッドの下段、枕元の灰色帯。装着スーツは整備庫に置いたままだ。
左袖の灰色帯を、俺は手で触れる。布の擦り切れの感触は、神嗣家系の家紋章を着けていた頃の記憶を、もう薄くしか呼び戻さない。
「明日からは、ジンさんとアキラさんとマランさんとベルクさん」
俺は独り言で、4人の名前を繋げて口にする。
「先輩面はするな、ってジンさんに言われましたから、ちゃんと敬語使うことにしますか」
声に出してから、俺の口角がほんの僅かに上がった。
俺は灰色帯の上に手を置いたまま、目を閉じる。
兵舎の梁の上で、駐屯地のどこかから雪が落ちる微かな音が、もう一段近く聞こえた。
ブックマーク・感想・リアクションをつけていただけると執筆の励みになります!
応援よろしくお願いします!




