第8話 旧式の鋼
朝、目を覚ますと、毛布の厚みの中に薄く雪の匂いが混じっていた。
俺は2段ベッドの下段から身体を起こす。窓の外はまだ青い。訓練場の号令は聞こえない。整備庫の方角からも、金属を磨く音はもう途切れている。
枕元に置いていた灰色帯を手に取って、左袖に着け直した。布の擦り切れが、昨日まで触っていた神嗣家系の家紋章よりも、指に引っかかる。
兵舎の通路を出て、雪を踏み固めた地面を西へ歩く。靴底の乾いた音だけが、駐屯地の朝に置かれていた。
整備庫の扉は、昨日と同じ位置で閉じている。鉄の取っ手を引くと、扉が低く軋んだ。庫内の油と金属の匂いが顔に当たって、俺は1歩を中に踏み入れる。
天窓から朝の光が、整備机の縁を撫でていた。庫内の奥は影に沈んでいる。
工具棚は壁沿いに2列。神紋墨の小瓶が3本、整備机の手前に並べられていた。床には魔石片の小さな箱が、足元を避けるように転がっている。
奥に、1台の機装が立っていた。
旧式。塗装の白は擦り切れ、装甲継ぎ目の1箇所だけが、わずかに浮いている。両肩には何の家紋もない。胸の左に、薄く刻まれた氷の花の家紋。
俺は機装の前で立ち止まる。指は伸ばさない。昨日と同じ距離だ。胸甲の冷たさが、伸ばしかけない手の手前まで届いていた。
整備机の上には、誰かの夜の作業痕跡があった。読みかけのメモ紙。鉛筆の削り屑。冷えた茶の碗。茶の表面に薄い膜が張っていて、湯気はもう上がっていない。
昨夜、整備士は機装の側にいたのか。
俺はその問いを声に出さなかった。机のメモ紙には、神紋の図が1文字だけ描かれている。横棒と縦棒が交わる、短い文字。神嗣士官学校の教本で見た神紋とは、形が違う。
* * *
扉が押し開けられて、逆光の中に男が立っていた。
作業服。油の汚れが胸の前から袖の中まで広がっている。耳の上に短い鉛筆を1本挟み、肩には工具袋。年齢は50前後で、頬の左に古い切り傷の痕が薄く残っていた。
男が扉を後ろ手に閉じ、こちらへ歩いてくる。足音はゆっくり。雪を払う動きはしなかった。
「氷見律か」
「はい」
男の視線が俺の左袖で一拍だけ止まる。だが質問はしなかった。耳の上の鉛筆を一度抜いて、また元の位置に挟み直す。
「俺はジン。お前の機装の親だ」
俺は息を、ひと呼吸分だけ間を置く。
飲み込まずに口に出す、と思っていた予感が、自分の喉の手前で立ち上がった。
「親、ですか」
声が少し硬い。
「じゃあ俺、ジンさんに養われてる側ってことになりますね」
ジンは笑わない。だが拒絶もしない。工具袋を整備机の脇に下ろし、肩を一度回した。
「養うってのは違うな。整備したやつが親って、ただの慣例だ。お前の父親代わりじゃない」
「分かりました」
俺はそう答える。胸の底が、わずかに揺れていた。
ジンが整備机の前に立つ。読みかけのメモ紙を、指で軽く撫でた。
「お前の名前は知ってる。氷見家の嫡男だった」
「だった、ですね」
「ああ、だったでいい」
ジンは鉛筆を耳から外し、メモ紙に「装着」「神紋」「起動」と書いた。
「お前に教えることは、この3つだ。順番に行く」
「お願いします」
ジンが鉛筆を耳の上に戻す。手のひらが机の角から装甲の端へ移り、最後に自分の頭頂部の上で止まった。
「氷見、座れ。先に装着スーツの寸法を確認する」
俺は整備机の前の木の腰掛けに座った。
「俺の寸法は、いつ測ったんですか」
「昨日のうちだ。お前が寝てる間に測った。寝相を見てた」
「それ、聞かなかった方が良かったやつですね」
軽口がまた1つ、喉を越す。
ジンの口角が、ほんの僅かに上がった。
「お前、軽口で逃げる癖があるな」
「自覚はあります」
「持ってていい。前線では、喋れる方が長生きする」
「分かりました」
俺はそう短く返す。
ジンは答えに頷くこともせず、整備机の脇から装着スーツを取り出した。
* * *
装着スーツは、灰色帯の3倍の重さがあった。
粗い繊維の織りで、内側には肌に当たる柔らかい裏地が縫い込まれている。神嗣家系の屋敷で着てきた絹の繊細さとは、別の系統の布だった。常民の織物。
「神嗣の魔石は、機装と相性が悪い」
ジンがそう前置きしてから、スーツの背面を広げた。
「だがお前の場合は粟粒だ。逆に乗りやすい」
「魔石が小さい方が、乗りやすいんですか」
「ああ。魔石は装甲の魔素回路と干渉する。神嗣機甲軍が機甲を選ぶ理由がそれだ。機装は常民向きにできてる」
俺はスーツに腕を通した。神経接続コネクターが、後頭部・両腕・両脚の4箇所に金属の端子として縫い付けられている。端子の表面は冷たく、肌に当てると一瞬の冷えが走った。
布地の裏側には、薄い汗止めの綿が縫い込まれていた。神嗣士官学校の演習着の汗止めは絹だ。常民の綿は粗いが、肌の上での吸い方が違う。重さは肩に残るが、汗の引きは早い。前線向きに作られた布だ、と肌が先に教えてくる。
「コネクターは、後頭部から繋ぐ。両腕は肘の内側、両脚は膝の裏」
「分かりました」
「4点で繋がれば、お前の意志が機装に伝わる。腕を上げようとすれば、機装の腕も上がる」
「動かす感覚は、自分の身体と同じですか」
「最初は違う。慣れると、自分の身体になる。慣れるかどうかは、お前次第だ」
俺は背面を閉じる。スーツの重さが、肩の上に均等に乗った。神嗣士官学校で羽織った演習用の薄い外套より、身体に張り付く感触だ。
ジンが俺の背中側に回り、肩のコネクターの位置を指で押さえる。
「ここで合ってる。ずれてないな」
「はい」
「お前の体型は、神嗣の青年にしては筋肉の付き方が均等だ。神嗣士官学校で剣を握ってたな」
「実技は落第寸前でしたけど」
「落第寸前まで握ってれば、付くもんは付く。痩せ型より動ける」
「俺の魔石が粟粒だって話と、矛盾しないんですか」
「魔石と筋肉は別の話だ。お前の場合、魔石が小さくて、筋肉が動く。機装乗りとしては、その組み合わせが悪くない」
ジンが俺の前に回って、もう一度コネクターの位置を確認した。
「お前は、神嗣の家で育って、機装に乗れる体になってる。皮肉な話だ」
「俺、神嗣に戻りたかったわけでもないんで」
声が、自分でも少し早く出た。
戻りたいか、そうでないか。まだ、そこに答えを持っていない。
ジンはその一拍に触れなかった。
「行くぞ。コクピットだ」
「はい」
* * *
コクピットの入り口は、機装の胸甲の裏側に開いていた。
俺は脚部の昇降梯子を上り、上半身を機装の中に差し込む。シートは狭く、神嗣士官学校の椅子のように体に沿う形ではない。座ると、神経接続コネクターの4点が、シートの内側の端子に微かな音を立てて嵌まった。後頭部・両腕の肘・両脚の膝裏。4つの端子が連動する感触は、肌の下を1本の線が通る感覚に近い。
シートに身体が収まると、装甲の内側で空気の流れが変わった。コアの低い唸りはまだ起きていない。だが装甲の内壁に薄い暖気がこもっていて、肌の表面と装甲の温度差が、後頭部のコネクターを通して微かに伝わってくる。
装甲の内側に、薄く青く光る文字が並んでいる。
神紋。
神嗣士官学校の教本で見た神紋とは、形が違った。教本の神紋は、もっと連続した曲線だった。これは文字ごとに区切られている。横棒と縦棒が交わる短い文字。斜めの線。円の輪郭。1文字ずつが独立した形を持って、装甲内側の壁に薄い青で光っていた。
「ジンさん、内側の神紋、神嗣士官学校で習った形と違うんですけど」
外のジンへ声を上げると、機装の脚部に手を当てる音がした。
「だろうな。教本に載ってるのは、最近の流派だ」
「流派」
「神紋は時代で形が変わる。古いやつほど、1文字ずつ独立してる」
「これは、どのくらい古いんですか」
「分からん。だが、現代の神紋師が書く形じゃない、ってのは確かだ」
ジンが装甲の脚部を一度撫でる音が、コクピットの内側に薄く届く。
俺の視線は、装甲内側の左胸の方角へ移った。
そこに、氷の花の家紋がある。外側よりも、内側の家紋の方が深く彫り込まれていた。塗装の上から刻んだのではなく、装甲そのものに刻まれている。
「ジンさん、氷の花の家紋、ですけど」
「俺が刻んだ」
「なぜ」
ジンが工具を一度置く音が、外の整備机から届いた。
「親としての勝手だ。理由は今は言わん。お前が、この機装で生き残ったら、その時に話す」
「分かりました」
俺は頷きを返さない。
胸の左側で光る氷の花の家紋は、神嗣士官学校で見た氷見家の家紋とは、線の太さが違っていた。教本の家紋は均整が取れている。これは1本ずつ手で彫った線の揺らぎが残っていた。
ジンの手の揺らぎだ。
その揺らぎを、俺は頭の隅に置く。
* * *
「コア起動。コクピット内のレバーを右に倒せ」
外のジンの声が、装甲を通して薄く届く。
俺はシートの右脇に伸びる金属の棒を握り、右へ倒した。
コアが低く唸る。
駆動関節の青光が、コクピットの足元から肩の高さまで一段強くなった。装甲内側の神紋が、薄い青から濃い青へ色を深める。
「動きました」
「次は右腕。ゆっくり持ち上げてみろ」
俺は神経接続コネクター越しに、腕の意志を機装へ送った。
右腕が持ち上がる。
だが俺の意志より一拍だけ遅れた。
動かしているのか、動き返されているのか、まだ分からない。
「悪くない。初回でこれだけ動けば十分だ」
ジンが装甲の脚部を、一度叩く音がした。
俺は機装の右腕をゆっくり下ろす。コアの唸りが一段下がった。装甲内側の青光が、薄い青へ戻る。コクピットの内壁に乗っていた暖気は、消えずに俺の背中の左右に残っていた。
「今日はここまでだ。明日は装着の繰り返し。明後日から、出撃の予定が入る」
「明後日」
「同期がいる。アキラとマランとベルクだ。3人とも常民で、ここで何年か生き残ってる」
「了解しました」
「お前を連れて、獣形の偵察に出る。それまでに、機装に身体を慣らせ」
「はい」
「氷見、1つだけ言っとく」
「どうぞ」
「昨日、伝令から聞いた。お前は、先輩面はしないと言ったらしいな」
「言いました」
「変えなくていい。ただ、後輩面もするな。ここではお前も、3人と同じ立場だ」
「分かりました」
俺は短く返す。
コクピットから上半身を出し、昇降梯子を降りた。装着スーツの内側で背中が薄く濡れている。神嗣士官学校の試験では、一度もかかなかった種類の汗だった。
ジンが整備机の方へ戻り、鉛筆を耳の上に挟み直す。
「明日の朝、整備庫の鍵はお前が開けろ。俺は別の機装の整備が入ってる」
「分かりました」
俺は整備庫の扉に手をかける。
扉を引き開けると、訓練場の方角から号令が雪の上を渡ってきた。複数の声が揃って1つの言葉を発している。声に混ざる側に、俺はまだいない。
雪を踏む乾いた音が、号令の合間に、もう一段近く聞こえた。
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