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ヘラルディック・コア 〜The Crownless Herald〜  作者: Studio SASAME


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第7話 七番駐屯への道

 氷の庭園から戻った夜、俺は荷物を3つにまとめた。

 神嗣(しんし)士官学校の制服と教本1式は東棟の物置に運んでもらう。私物は最小限。落第判定書と廃嫡決定書は革の小箱に収めて、革紐で締めた。(しずく)からの書状は内ポケット。書状は折り目を伸ばさないまま、革紐の小箱の側に挟んだ。

 夜が明けるまで、机に向かったまま眠らなかった。机の上の燭台は燃え尽きていて、芯の焼けた匂いだけが残っている。


  * * *


 春の朝の光が、氷見家(ひみけ)都邸の白い大理石の床を横に割っていた。割られた光の縁に、軍属の靴の影が長く伸びている。

 北辺方面軍の軍属は、軍曹相当の階級章を肩に着けていた。年齢は30前後で、表情はない。書類袋を抱えて玄関の中央に立っている。俺の前で短く頭を下げた。

氷見律(ひみ りつ)准尉、お迎えに参りました」

「お願いします」

 使用人が俺の荷物を玄関に運び終えていた。革の小箱と衣類の包みを抱え、書状を内ポケットに収めてから、灰色の外套を羽織る。神嗣家系(しんしけけい)の家紋章は外套から外してあった。代わりに左袖に灰色の帯。北辺方面軍の無冠(むかん)機装(きそう)兵が着ける階級記章である。

 俺は灰色帯を初めて手で触れる。布は厚く、糸の織りが粗かった。神嗣(しんし)士官学校の制服の繊細な織りとは、まるで別の布だ。神嗣(しんし)家の織物ではない。常民(じょうみん)の織物だった。

 軍属が書類袋から書類を1枚抜き、玄関の床に小机を出して印を求める。俺は印を押した。

「お預かりします」

「父上は」

「旦那様は、書斎にてお見送りでございます」

 使用人がそう答える。俺は使用人の方を見たまま、書斎の窓のほうへは目を向けなかった。父が窓辺に立っているかは分からない。立っていなくてもいい。氷見家(ひみけ)の当主が玄関まで見送る相手は、家督継承者だけだ。廃嫡された嫡男ではない。

 廊下の奥に母の遺影がある。俺は廊下のほうへは戻らなかった。額縁の下の白い小枝の花が、昨日と同じ高さに置かれているはずだ。誰が置いているかを、俺は今日も使用人に確かめなかった。

 玄関を出る。3月の朝の風が、首筋に薄く冷たい。氷見家(ひみけ)都邸の門の外に、北辺方面軍の馬車が1台待っていた。

 俺は門の前で一度だけ振り返る。

 屋敷は何も言わない。


  * * *


 神嗣院都(しんしいんと)中央駅から魔素機関車(まそ・きかんしゃ)が出る。北辺氷雪要塞ほくへんひょうせつようさいまで1日。

 3等車室は6人掛けの向かい合わせで、俺の他には軍属が3人。全員、無冠(むかん)の灰色帯を左袖に着けている。誰も自己紹介はしない。1人は座って早々に外套を頭から被って眠った。1人は窓の外を見ている。残る1人が、向かいの席で俺の左袖を一度だけ見た。視線が灰色帯の上で止まり、それからすぐに外れていく。

 無冠(むかん)への視線。神嗣家系(しんしけけい)の侮蔑とは違う、観察に近い目である。神嗣院都(しんしいんと)の街路で受けてきた視線は、家紋章へ向けられていた。灰色帯への視線を受けるのは、これが初めてだ。

 窓の外が動きはじめる。

 神嗣院都(しんしいんと)の街路樹が、春の若芽の浅い緑で揃っている。魔素機関車(まそ・きかんしゃ)が市門を抜けると、若芽の緑は雑木林の濃さに変わった。1時間ほどで、雑木林は針葉樹に切り替わる。針葉樹の枝に薄い雪が残っていた。3月の北辺は、まだ春には届かない。

 革の小箱を膝の上に置く。(しずく)からの書状は内ポケットに入れたままだ。書状を読み返したい衝動が一度だけ来た。だが、車室の他の軍属の前で書状を開く気にはなれなかった。書状の差出人を、彼らに見られたくない。

 (しずく)の言葉が頭に残っている。

 諦めないで、と(しずく)は言った。約束、と(しずく)はもう一度言い直した。

 頭の中で繰り返してみても、(しずく)が「何を」諦めないでほしいのかは、まだ俺にも分からない。家督のことか神嗣(しんし)のことか、それとも2人のことか。(しずく)は分からないと言った。分からないのに諦めないでほしいと言った。(しずく)の言葉の理屈は、神嗣(しんし)士官学校で習った戦術学のように整っていない。

 だが、(しずく)の言葉の重みは、整っていないまま俺の内ポケットにある。

 針葉樹の幹に積もる雪が、午後にかけて厚くなっていく。窓の外の景色が、白の濃度を一段ずつ上げていった。夕方、白樺の幹だけが残る凍結平原に魔素機関車(まそ・きかんしゃ)が入る。地平線の手前で、列車の影が薄く長く伸びていた。

 北辺氷雪要塞ほくへんひょうせつようさいの輪郭が、その地平線の上に灰色の塊として現れる。


  * * *


 要塞の補給待合所は、夜になっても人の出入りが絶えなかった。

 石造りの広間の壁が分厚く、外の風はほとんど聞こえない。代わりに、要塞内の機甲(きこう)整備音が低く床から伝わってくる。広間の天井は高く、白い魔素(まそ)灯が4隅から照らしていた。長椅子が壁際に並び、補給待ちの常民(じょうみん)御者が3人、低い声で話している。雪まみれの外套が長椅子の背に掛かっていた。

 俺は端の長椅子に腰を下ろす。

 御者たちの会話は途切れ途切れだが、訛りで察した。氷見(ひみ)領下都市ニヴァールの常民(じょうみん)の言葉だった。俺の故郷の領地の言葉である。だが、彼らは俺の方を見ない。

 御者の1人が俺の靴を一度だけ見た。靴から視線が上がらないまま、御者たちは低い声で会話を続けている。神嗣家系(しんしけけい)の侮蔑ではない。新人の補給馬車乗りを観察する目だった。

 壁に魔獣警戒地図が貼られている。北辺の地形図に、赤い印が点々と打たれていた。獣形(じゅうけい)フロスト・ハウンドの群れ生息域、異形(いけい)級フロスト・ウィルムの目撃地点、白無の谷(しろなしのたに)瞬裂(フラッシュ・リフト)発生記録。北辺氷雪要塞ほくへんひょうせつようさいから七番駐屯(ななばんちゅうとん)までの街道沿いに、赤い印は3つあった。

 神嗣(しんし)士官学校の戦術学の教本には、魔獣の分布図は載っていなかった。神嗣魔術士官団しんしまじゅつしかんだんは前線に出る前に簡略な地図を渡される。北辺の現場で書かれた地図を見るのは、俺は初めてだった。

 長椅子の隣に、無冠(むかん)の同乗予定者が腰を下ろす。

 40代後半、無口、顔の左に古い火傷の痕が薄く残る。灰色帯は俺と同じ位置だが、布の擦れが俺のものよりはるかに古かった。

七番駐屯(ななばんちゅうとん)か」

 同乗者がそれだけ言った。俺は頷く。

「俺もだ」

「初めてですか」

「いや、戻りだ。3度目になる」

「3度目」

七番駐屯(ななばんちゅうとん)ってのは、戻る奴と戻らない奴で半々だ。新人なら頭の隅に置いておけ」

「了解しました」

 同乗者はそれだけ言って、外套を頭の上に引き上げる。会話は終わった合図だった。俺もそれ以上は訊ねない。広間の高い天井の白い魔素(まそ)灯の下で、2つの灰色帯が並んで光を受けていた。


  * * *


 翌朝、補給馬車が要塞の北門を出る。

 幌付きの大型馬車で、御者は常民(じょうみん)の中年男。40代後半、短く刈った髪に薄く白いものが混じっている。一人称は「俺」、訛りはニヴァールのもの。御者は背中で俺と同乗者の方に話しかけてきた。

「あんたら、七番駐屯(ななばんちゅうとん)まで3日だ」

「お願いします」

 俺はそれだけ答える。同乗者は頷きだけ返した。

 馬車の幌の中は薄暗く、薄い陽光が幌の隙間から差し込んでいた。床に積まれた補給物資の箱の隙間で、俺と同乗者が背を合わせて座る。馬車が雪を踏む音は、車輪の下から鈍く響いていた。

 1日目は、ほとんど会話がなかった。御者は時々鼻歌を漏らした。同乗者は時々眠った。俺は(しずく)の書状を内ポケットの上から触れるだけで、開かない。

 2日目の夜営は、街道沿いの補給小屋だった。

 薪の火が小屋の中央で燃えていた。御者が薄い茶を金属碗に注ぎ、俺に差し出す。

「飲め」

「いただきます」

 茶は熱くて、葉の香りが弱い。常民(じょうみん)の茶葉だった。神嗣家系(しんしけけい)の屋敷で出される茶とは別物だ。俺は両手で碗を包み、ひと口飲んだ。

 火を挟んで、御者が俺の靴を見ている。

「あんた、神嗣家系(しんしけけい)の出だろう」

「分かりますか」

「靴の革で分かる。神嗣院都(しんしいんと)の革は、北辺の革と縫い目が違う」

「そうですか」

無冠(むかん)で配属されたのは、何家の出だ」

氷見(ひみ)です」

「ほう」

 御者は薪を1本足して、自分の碗にも茶を注いだ。

氷見(ひみ)ね。ニヴァールの領主の家か」

「はい」

「俺はニヴァール育ちだ。だが俺は何も言わんよ」

「ありがとうございます」

「礼を言うことじゃない。北辺じゃ、神嗣(しんし)常民(じょうみん)も、馬車の中じゃ同じ重さだ」

「同じ重さ」

神嗣院都(しんしいんと)じゃ違うだろうがな。ここじゃ、そういう運び方をする」

「そういう運び方」

「乗せた荷の重さを、乗り手の名前で量らん。それだけのことだ」

 俺は答えなかった。

 同乗者は壁際で目を閉じている。眠っているか、起きているかは分からない。

 茶の湯気が薪の火の上で揺れている。御者は薪を1本足して、その薪が燃え始める音だけが、しばらく小屋の中に残っていた。

 3日目、馬車は氷見(ひみ)領下都市ニヴァールの近郊を通り過ぎる。

 街道から2里ほど離れた場所に、ニヴァールの街路が見えた。氷見家(ひみけ)の領地。俺が生まれてから一度だけ家族で訪れた場所だ。8歳の春、母が亡くなる前の年だった。父はその訪問のことを、その後一度も口にしていない。

 俺はニヴァールの街路を見て、何も言わなかった。

 御者も同乗者も、街路の方角を見なかった。馬車は止まらない。

 (しずく)の言葉は、まだ内ポケットの書状の側にある。

 神嗣院都(しんしいんと)を発って、4日。氷見家(ひみけ)の屋敷を出てから、俺は誰の前でもずっと「はい」と短く答え続けてきた。飲み込む癖は氷見家(ひみけ)都邸でつけたものだ。だが、馬車の幌の中で、(しずく)の言葉だけが飲み込まずに残っている。

 明日からは、もう飲み込まずに口に出すかもしれない。


  * * *


 七番駐屯(ななばんちゅうとん)の門は、雪に半分埋もれた木造の柱だった。

 駐屯地は北辺の山際にあり、雪の重さで屋根が低く見える。建物は木造で、訓練場の号令と機甲(きこう)の整備音が、雪の静けさの上に薄く乗っていた。

 補給馬車の御者が門の前で馬を止める。同乗者が先に降りた。俺は革の小箱と荷物を抱えて、最後に幌から地面に下りる。

 御者は背中越しに片手を上げただけだった。俺もそれだけ返す。馬車の車輪が雪を踏み直して、門の中へ運ばれていく。

 門で下士官の伝令が俺を待っていた。年齢は20代前半。

氷見(ひみ)准尉ですか」

「はい」

「作戦本部へご案内します」

 伝令の足が雪を踏む音を、俺は後ろから追った。駐屯地の通路は雪が踏み固められていて、靴底が乾いた音を立てた。

 作戦本部は門から5分ほどの距離にある。木造の2階建てで、入口の扉が重く軋む音を立てた。

 2階の隅の部屋で、トバ少佐が机に向かっていた。

 40代後半。髪は短く、無冠(むかん)ではない。神嗣家系(しんしけけい)の傍流の出で、神嗣魔術士官団しんしまじゅつしかんだんから離れて北辺方面軍に転属した経歴。書類で読んだ情報だが、机の上の書類の積み方が几帳面で、その情報を裏づけている。

 トバ少佐が顔を上げる。俺の左袖の灰色帯を一瞥した。

氷見(ひみ)准尉」

「はい」

「書類は届いている。確認することは1つだ」

「はい」

「お前は、北辺で生き残る気があるか」

「あります」

 トバ少佐が机の上の書類を1枚、こちらに向けて押した。配属命令書である。

「短い返事だな。氷見家(ひみけ)の慣例か」

「いえ。俺の癖です」

「変えなくていい。生きる気があるなら、十分だ」

 俺は配属命令書を読み終え、机に戻した。

「整備庫の場所を、伺ってよろしいですか」

「西だ。伝令が案内する。お前の整備士は、今は外している。明日戻る」

「整備士の名前は」

「明日、本人から聞け。先に俺の名前を出させると、あの男は機嫌を損ねる」

「了解しました」

氷見(ひみ)

「はい」

「ようこそ、ではない。生き残ったら、また話す」

 トバ少佐の言葉は、それだけだった。


  * * *


 整備庫は駐屯地の西の端にあった。

 扉を開けると、油と金属の匂いが顔に当たる。庫内は薄暗く、奥の天窓から斜めに光が落ちていた。整備机が2列、工具棚が壁沿い、床に魔石(ませき)片の小さな箱がいくつか転がっている。

 奥に、1台の機装(きそう)が立っていた。

 旧式。装甲の継ぎ目が古く、塗装の白は何度も塗り直されていた。胸甲の上に、薄く刻まれた家紋がある。

 白い花の輪郭。氷見家(ひみけ)の冬期戦闘符・氷の花の家紋。

 俺は機装(きそう)の前で立ち止まった。

 神嗣家系(しんしけけい)の家紋を、無冠(むかん)機装(きそう)兵に配属される旧式機装(きそう)に刻む慣例は、神嗣院都(しんしいんと)には存在しない。氷見家(ひみけ)の家紋を、誰が何のために刻んだのか。整備士が戻るのは明日だと、トバ少佐は言った。

 俺は家紋に手を伸ばさない。指先を装甲に近づけて、止めた。胸甲の冷たさが、伸ばしかけた指先の手前まで届いている。

 伝令の声が背後で言う。

「兵舎は隣の棟です。寝床は端の2段ベッドの下段、当面はそこです」

「分かりました」

「整備士は、明日の朝に戻ります。整備士の話は、整備士から聞いてください」

「はい」

氷見(ひみ)准尉、1つだけ」

「どうぞ」

「ここでの先輩面は、しないでください。整備士の前ではとくに」

「先輩面をする気はありません」

「念のためです」

 伝令はそう言って、扉のほうへ視線を向けた。話は終わった合図である。俺もそれ以上は訊ねない。

 整備庫を出る。雪の上に伝令の靴跡を追って、兵舎の棟へ向かった。


  * * *


 兵舎の俺の寝床は、隅の2段ベッドの下段だった。

 毛布は厚いが生地は粗い。木の枕に薄い布が1枚かかっている。

 俺は外套を脱いで、左袖の灰色帯を外した。帯を枕元に置く。帯は寝床の枕の横で、薄い灰色の長方形のまま動かない。

 窓の外は雪。駐屯地の屋根の影が、夜の前の青い光の中に伸びていた。訓練場の号令はもう聞こえない。整備庫の方角からは、金属を磨く小さな音だけが、まだ続いている。

 神嗣院都(しんしいんと)を発って、4日。

 (しずく)の言葉。父の沈黙。薪の火の音。

 数えていくと、頭の中の重さの順がいつのまにか変わっている。神嗣院都(しんしいんと)を出た朝、いちばん上にあったのは廃嫡決定書のはずだった。今は、書状の重さのほうが上にある。

 明日の俺は、その整備士の前で、もう「はい」とだけは答えないかもしれない。

 整備庫の方角から、金属を磨く小さな音が、まだ続いている。明日の朝、その音の主が俺の前に立つ。それがどんな男なのか、俺にはまだ分からない。

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