第6話 氷の庭園
廃嫡決定書から3日が過ぎた午後、俺は岩倉家の都邸に向かっていた。
書状が届いたのは前日の夕方だ。岩倉家の使いが氷見家の正門まで持ってきた。白い封筒だった。使いは言葉を添えなかった。
「氷の庭園でお待ちしています」
雫の筆跡だった。士官学校の書式用紙ではなく、私信用の便箋を使っていた。縦書きで3行。字が均等に揃っている。受け取ってから一晩、机の上に置いたままにした。
神嗣院都のこの区画には、大家の都邸が並んでいる。石畳の道の両側に街路樹が立ち、春になると若芽が出る。午後の日が横から当たって、葉の縁が細く光を透かしていた。4月に入ってから3度通った道だが、今日初めてその葉の薄さに気が向いた。
廃嫡決定書は、今も内ポケットにある。4つ折りのまま持ち歩いていた。都邸に戻った日から3日、どこに仕舞うかも決めていない。今日で4日目だ。都邸の正門から外に出たのは今日が初めてだった。
会わずに帰ることも、できた。夕方に書状を受け取ってから、その選択肢が頭を一度通過した。
だが翌朝、足は正門の外に出ていた。使用人が扉を開けた。外の春の光が白かった。
歩くうちに岩倉家の高い石塀が見えてきた。外の街路の音が、石塀の手前で急に変わる。荷馬車の音も棟から漏れる声も、塀の手前で薄くなる。岩倉家が都邸を建てたのは80年前で、当時の当主が外の音を嫌ったという話を、幼少期に雫の父から聞いた。内側に入ると、外の音は遮断される。幼い頃、雫と2人でその境界を試したことがある。塀の手前で立ち止まって、耳を澄ませた。音が薄くなる場所を、先に見つけたのは雫の方だった。
正門の前に立つと、使用人が扉を開けた。
「いらっしゃいませ、氷見様」
案内を頼んだ。庭の方向を言うと、使用人は外廊下を先に歩いた。手入れされた低木が並んでいた。低木の高さが揃っていて、石畳の継ぎ目に苔はない。整えられた庭だ。氷見家の庭とは違う。
庭園の入り口に石の門がある。使用人はその前で立ち止まった。
「こちらで」
使用人は元の方向に戻っていった。
* * *
石の門を押した。
庭が広がった。池がある。春の午後の光を受けて、水面が細かく揺れていた。池の縁に沿って石畳の小道があり、梅の木が数本立っていた。花は散っていた。葉だけが残っている。若い緑で、風が通るたびに細い枝が一斉に動く。
「氷の庭園」と雫が呼んでいた場所だ。冬になると池が氷で覆われる。薄い氷の下に水草の茎が透けて見える時期がある。その後池が完全に凍る。冬から春への変わり目に、氷が縁から溶けはじめる。今は水面が戻っていた。
7歳の夏にここに来た。雫は8歳だった。梅の枝を1本ずつ持って、枝遊びをした。枝を折ってはいけないという決まりがあったので、枝の先を地面に軽く当てるだけだった。雫の枝は俺のより短くて、引き分けが続いた。その日は雫が先に「もうやめましょう」と言った。雫は枝を根元に置いた。負けを認めたのか飽きただけなのか、俺には判断できなかった。「またこんど」とも言わなかった。あの日はそれで終わった。
石畳の小道を歩いた。春の日が背中から当たっていた。
池の縁の石畳は、庭の他の石畳より幅が狭い。2人が並ぶと肩が近くなる幅だ。7歳の時、ここで雫と横に並んで歩こうとして、雫の方が背が高かった。今は違う。だが今日は俺しかいない。
枝遊びをした梅の木は3本ある。1番奥が1番古くて、幹が池の方に傾いている。7歳の時にその幹の端に乗ろうとして、雫に「落ちます」と言われて止めた。実際に落ちた瞬間は記憶にない。落ちていないのか記憶にないだけなのか、今も分からない。幹の樹皮は触ると粗い。7歳の手でつかんだ感触が、まだ指の先にある気がした。
池の水面に波紋が1つ広がった。縁に届いて消えた。水面が少し揺れた。春の光が水面に散った。
梅の枝の下に、人影が立っている。士官学校の制服だ。
近づいた。人影の顔が見えてきた。
雫ではなかった。
* * *
梅の枝の下に立っていたのは、有栖川葉月だった。
士官学校の制服を着ている。礼装用の黒い上着で、第1ボタンが全て留まっていた。雫の同期だ。岩倉家と縁の深い有栖川家の嫡女で、院都では常に雫の傍らにいる。雫が院都にいる間の記憶を探ると、必ずこの人物の姿が隣にある。院都で雫の行動を記録するなら、有栖川葉月の名も必ず入る。雫との付き合いは入学前からだと聞いた。雫が院都にいる間に行く場所も立ち止まる場所も、葉月は把握しているはずだ。
「氷見さん、お待ちしておりました」
葉月が頭を下げた。正式な深礼だ。頭を上げた時、視線は俺の正面に来ていた。
「雫は今、別の場所にいます」
「葉月さん」
「氷見さん」
葉月が続けた。両手を身体の前で揃えたまま、声に震えはない。
「雫に会わずに、お帰りいただけませんか」
池の風が通った。梅の葉が一斉に揺れた。
「雫は、廃嫡決定書を見ていません。岩倉家の当主が止めています」
「ですが、雫はもう知っています。神嗣士官学校での噂が、雫の耳に届かないわけがありません」
俺は答えなかった。梅の枝の上に視線を移した。葉が重なって、空が細く見えた。葉月は続けた。
「雫が氷見さんに会えば、雫は、私の知っている雫ではなくなります」
梅の葉がまた風に揺れた。葉月は待った。俺の返答を待っていた。葉月の両手が揃えたまま動かなかった。葉月の目が、俺から離れなかった。
池の水面がまた動いた。
「氷見さん、雫に責任を感じさせないでください」
俺は葉月の方に向き直った。葉月の目が俺の正面に来た。葉月はまだ待っていた。
「葉月さん、それは、雫の選択ではないですか」
梅の枝に風が通った。葉の揺れが静かになった。葉月の制服の裾が少しだけ揺れて、止まった。
葉月の返答が一拍遅れた。
「ですが——」
葉月の声が途中で止まった。葉月が俺の後ろを見ていた。
* * *
庭園の奥から、人影が来ていた。
士官学校の制服ではなかった。薄い水色のワンピース。春の午後の光の中で、裾が細く揺れている。長い濃い栗色の髪が、肩の後ろで揺れていた。
「雫」
葉月が言った。
「葉月、下がっていて」
雫が言った。葉月が一礼した。梅の枝の下から離れていく足音が続き、静かになった。足音が遠くなった。外廊下の方へ向かう音が低く続き、消えた。
雫が俺の前に立った。2歩ほど離れた距離だ。雫の目が俺の目を見ていた。士官学校の制服ではなく、薄い水色のワンピースを着ている。春の私服だ。
「律さん」
「雫」
「廃嫡決定書のこと、知っています」
「知っているなら、話は早い」
梅の枝の葉が風に揺れた。池の水面が細かく動いた。
雫が続けた。
「律さん、どこに行かれるんですか」
「七番駐屯。北辺の辺境」
「いつ」
「明日」
梅の木の影が水面に揺れた。
雫の右手の指が、薄い水色のワンピースの裾を握った。
池の水面が風で揺れた。雫の声が変わった。整えられた声になっていた。
「律さんと岩倉家の婚約は、家の話です」
「分かっている」
「家の話は、家が決めます」
「分かっている」
梅の葉の影が池の水面を渡った。影が渡り消えた。
雫は目を逸らさなかった。声に揺れはなかった。だが、ワンピースの裾を握る右手の指は、まだ離していない。
「律さん」
「雫」
雫が言った。
「私が、あなたに会いに行く約束を、家は止められません」
庭の風が通った。梅の枝が細かく揺れた。雫の裾がひとたびだけ動いた。
* * *
しばらく、2人の間で言葉がなかった。
池の水面が動いていた。春の風が続いていた。梅の葉の音が細かく続いた。石塀の向こうの街の音は、ここには届かない。2人の間に、その静けさだけがあった。
雫の右手が、まだワンピースの裾を握っていた。握ったまま、離さなかった。
池の水面に、春の風で波紋が1つ広がった。縁に向かって静かに進んでいく。
「律さん、1つだけ」
「言え」
雫が言った。
「諦めないで」
俺は答えなかった。波紋が石畳の縁に届いた。そこで消えた。池の水面が、また少し揺れた。梅の葉が細かく動いている。葉の影が水面に細く落ちて、揺れた。
「律さん、何を諦めないでほしいのか、私もまだ分かりません。だから、まずは諦めないでほしい」
「雫」
「これは、私の言葉です。岩倉家の言葉ではありません」
梅の枝の葉が細かく揺れた。池の水面が静かに動いていた。
俺は雫の目を見た。雫の目が俺を見ていた。目が逸れなかった。
「分かった」
「約束、です」
「ああ」
雫の手が、ワンピースの裾から離れた。
雫が1歩、後ろに下がった。2歩あった距離が3歩になった。
「律さん、北辺で、生きていてください」
「生きる」
雫は梅の枝の下に戻った。葉月が雫の隣に立った。葉月は何も言わなかった。雫も振り返らなかった。2人が並んで池の方を向いていた。雫の背が真直ぐだった。
春の風が通った。池の水面が揺れた。梅の葉が一度鳴り、止まった。2人は動かなかった。
俺は石の門を抜けた。
外廊下を歩いた。低木が並んでいた。岩倉家の整えられた庭が、午後の光の中にあった。石畳の継ぎ目が整っていて、低木の高さが揃っている。これまでここが崩れているのを見たことがない。8歳の雫が歩いていた時もそうだった。氷見家の庭は、もう少し緩い。砂利を踏めば深く音が立つ。石畳の継ぎ目には、春雨の後に苔が戻ってくる。低木の根元に乾いた土が見えた。春の庭だ。
正門に出た。使用人が扉を開けた。
外の音が戻ってきた。荷馬車が通る音。石畳を踏む足音。院都の午後の音だ。
岩倉家の石塀の外に出ると、音が戻る。荷馬車の車輪の音が、石畳の継ぎ目で低く鳴った。ポケットの中に、折り畳まれた紙の感触があった。それだけのことが、今日は少し時間がかかった。
俺が雫に約束したのは、何だったのか。それは、七番駐屯への道でも分からないままだろう。
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