第5話 家督の宣告
氷見家都邸の正面に着いたのは、落第判定書を受け取ってから4日後のことだった。
正門から玄関扉まで、砂利を敷いた小径が続いている。砂利を踏むたびに音が立った。春の午後の陽が白壁に斜めに当たっていて、庭木に新しい葉が出ていた。桜の季節は先月に終わっていた。
玄関扉が開いた。建物の内の冷気が一瞬、顔に当たった。大理石の床に、明かり取りの光が斜めに1本落ちていた。使用人が3人、扉の内側に1列になっていた。
「お帰りなさいませ、律様」
3人が同時に頭を下げた。
玄関の天井が高い。士官学校の廊下より高い。4日ぶりに戻ったが、都邸の中の空気は変わっていない。生け花の台に白い椿が1輪あった。春の終わりの花だ。
俺は靴を脱いで揃えた。内ポケットに落第判定書がある。4日間、4つ折りのまま一度も開いていない。先頭の使用人が顔を上げた。
「旦那様が書斎にてお待ちです」
「分かった」
廊下を歩いた。石の床に靴音が低く響く。木材と椿油の匂いがした。都邸の廊下はいつもこの匂いだ。廊下の両壁に歴代当主の肖像が並んでいた。1番古いものは130年以上前の代で、額縁が1番大きい。俺はそちらを見なかった。
階段を上がる。手すりが冷たかった。2階の廊下の先が白く明るかった。角を曲がると書斎の扉があった。扉の向こうに気配がある。
俺は扉を引いた。
* * *
重い木の机が正面にある。午後3時の陽が窓から斜めに差して、机の表面を横切っていた。書類が3段に積まれている。壁際に法令書の入った本棚があって、1冊が机の上に開かれたまま置かれていた。棚の上に置き時計がある。刻みは低く、廊下には聞こえない。
嶂哉は机の前に立っていた。椅子を使わない。決裁の日は立って仕事をする。14歳の入学前日もそうだった。16歳の落第翌日もそうだった。今日で3度目だった。
扉を閉めた。
「律」
「父上」
嶂哉が机の上から書類を1枚、手前に引いた。机の縁に近い位置に置く。俺の方向に向ける。俺から目を逸らさなかった。
「読め」
机に近づいた。書類を両手で手に取る。
官用の紙だ。折り目のない1枚で、厚みがある。印刷は明確で、字が整っていた。表書きに「氷見家・第23代当主継承順位の改定に関する決裁」とある。
文面は短かった。
「氷見律の継承順位を抹消し、次男・氷見凪を後継者として正式に内定する」。
右下に印章が2つある。氷見家当主印と神嗣院議会受理印だ。縦に並んでいる。2つ押されているということは、神嗣院議会への届け出がすでに済んでいる。
もう一度文面をなぞった。変わらなかった。
左手の指先で紙の縁を持ったまま、しばらくそこに立っていた。官用紙の端が指先に薄く触れていた。
「お前は氷見家を背負えない」
「はい」
嶂哉が机の上の書類を一度だけ揃え直した。それだけの動作だった。
「3年待った」
俺は答えなかった。
置き時計が1打鳴った。15時だ。窓の外を薄い雲が通った。書斎の光が変わり、また戻った。手の中に廃嫡決定書がある。紙の縁が指先にある。
嶂哉は俺から目を逸らさなかった。立ち姿が変わらなかった。どちらも動かなかった。書斎には置き時計の刻みだけがあった。
「お前の魔石が発達する可能性を、3年待った」
「私は嫡男としてのお前を惜しんで決裁を遅らせたが、神嗣院議会への報告期限が限界だ」
俺は書類を机の上に戻した。
「了解しました」
「凪を呼ぶ」
嶂哉が書斎を出た。扉が静かに閉まった。
書斎に俺だけが残った。廃嫡決定書が机の上にある。3年待った、という言葉が室内にまだある。陽がその紙を斜めに照らしていた。
俺は廃嫡決定書を手に取った。紙の表面をもう一度なぞる。印章が指先に触れた。氷見家当主印の輪郭が、紙のわずかな凹みとして残っていた。
机の上に戻した。
扉が開いた。
凪が入ってきた。神嗣士官学校の制服だ。15歳の制服は俺が3年前に着ていたものと同じ型で、今は凪の身体に合わせて仕立て直されている。第1ボタンが留められていた。髪が短く整えられていた。背筋が真直ぐだった。凪の背が伸びた。半年前より肩幅がある。
凪は扉の前で止まった。
「兄上」
「凪」
凪は床に視線を落とした。制服の袖を、右手の指先が握っている。制服の袖口が指の圧でわずかに歪んでいた。
俺は机の前に立ったままだった。廃嫡決定書が机の上にある。凪はそれを見ていない。床を見ていた。
「……これは」
「言うな」
凪が顔を上げた。
「ですが」
「凪、お前が氷見家を継ぐ。それで決まった。俺はそれを止めない」
凪は何も言わなかった。窓の外で庭の木が風を受けた。葉の鳴る音が、書斎に薄く届いた。午後の光が少し斜めになっていた。
「僕はこれを望んだわけでは」
「望むことと、引き受けることは別だ。お前が継げ」
静かになった。
書斎の窓の外に庭の旗が見えた。凪は一度口を閉じ、もう一度開いた。
「もう1つだけ訊いていいですか」
声に震えがあった。
「言え」
「兄上、どこに行かれるんですか」
俺は少し間を置いた。
「まだ決まっていない。決まったら、伝える」
凪は一度頷いた。制服の袖を握っていた指が、少しだけ緩んだ。
「分かりました、兄上」
凪は扉の前で頭を下げた。部屋を出た。扉が閉まった。
足音が廊下を遠ざかっていく。石の床に、薄く響いている。
俺は机の上の廃嫡決定書を手に取って、内ポケットに折り畳んで収めた。書斎を出た。
* * *
廊下を歩いた。
階段を下りると、1階の廊下が続く。廊下の先に窓がある。窓の外に春の庭が見えた。庭の奥に氷見家の旗が立っている。旗が垂れたままだった。14歳の入学式の日、旗の前で写真を撮った。表情は覚えていない。3年前の話だ。
廊下の壁に、白い額縁が1枚ある。遺影だ。春の光の中で撮った写真が入っていた。遠景に庭の木が写っている。
俺は廊下の途中で立ち止まった。
母の遺影だ。俺が5歳のときに亡くなった。年齢の記憶より、写真の顔の方がはっきりしている。母は前を向いている。
廊下の外から、春の風が木を揺らす音がした。遠い音だった。
廊下を歩き続けた。翼棟の自室に戻る。鍵を開けた。書斎より空気が薄かった。窓を1日開けていない部屋の匂いだ。
内ポケットから廃嫡決定書を出した。机の上に置く。落第判定書も出した。4つ折りのまま、隣に置いた。
2枚の紙が机の上に並んだ。
* * *
夜になった。
燭台に火を入れた。部屋の隅まで光は届かない。窓の外に神嗣院都の灯が並んでいた。橙と白が石畳の上で低く溶け合っている。都邸の翼棟からの角度は、士官学校の寮の窓から見たものとは違った。
どこからか馬の遠い蹄音が届いた。それから静かになった。
机の上の2枚の紙が、燭台の光の中にある。椅子に座って読んだ。
「神嗣士官学校卒業見込み・不認定」。「氷見律」。
「氷見家継承順位抹消」。「氷見律」。
2枚に、同じ名前が書いてある。
燭台の火を吹き消した。暗くなった。机の上の2枚の紙は、暗がりの中でまだそこにある。
明日の俺が誰かは、まだわからない。
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