第4話 落第の日
窓の外に、神嗣院都の灯が並んでいた。
夜の始まりの色だ。橙と白の灯が石畳の上で低く溶け合い、寮の窓ガラスに薄く映っている。4人部屋のルームメイト3人は夕食を終えてから出ていき、まだ戻っていない。最終試験の前夜は食堂か院都の酒場に流れるのが暗黙の慣例で、今年も変わらなかった。俺だけが机の前に座っている。
戦術学の教本を開いていた。
表紙の角が擦れている。3年間でいちばん開いた教本だった。戦術学だけが擦れていて、実技の教本は棚の上でほとんど新品に近い状態のまま立っている。来年度から改訂版に切り替わる予定で、この版はもう使われない。それでも開いているのは、ページの文字が目の前にあると落ち着くからだ。目は文字の列の上にあったが、どこも読んでいない。
神嗣士官学校の寮には机を私物化しない暗黙の決まりがある。ルームメイト3人の机の上には何も残っていない。俺の机の上にだけ、教本と手のひらがある。壁に地図を貼っている者もいるが、俺の壁は何もない。15歳の秋に貼ってあったものを剥がした。剥がした後に残った紙の跡が、今も壁の端に薄くある。
3年前、14歳の春に神嗣士官学校に入学した。
神嗣の嫡男として当然の進路だった。家督を継ぐには士官学校を卒業して神嗣院議会の審査を通ることが要件だ。15歳の秋に弟の凪が後継内定と父から告げられた。事務的な通知だった。16歳の通常試験、初めての落第。教本の中頃のページに、16歳の字で小さく書いた試験の番号が今も消えないまま残っている。
明日、終わるかもしれない。
そう思って、それ以上考えるのをやめた。明朝の測定値を変える手段は3年間見つからなかった。これ以上考えても、測定値は変わらない。
廊下で足音が近づいて、止まった。別の部屋の誰かが方向を変えて去っていく。また静かになった。
俺は教本を閉じた。
* * *
午前8時の第二試験場は、白い光の中にあった。
四隅に柱状の魔素灯が立っている。床から天井の半ばまでの高さで、光は純白だった。通常の魔素灯は黄色い光を発するが、この試験場のものだけが違う。3年間、試験のたびにここに立ってきたが、今日初めてその白さに気が向いた。教本の魔素灯の項に、白い光の設計は記載されていない。何か別の理由があるのかもしれなかった。試験の前に考えることではなかったが、今日だけは考えが走った。
同期が20人ほど、横一列に並んでいた。最終試験の魔素圧測定は全員が同じ場所で受ける。終わると列が2つに分かれる。合格した者は卒業証書の受け取り手続きへ、落第した者は別の窓口へ。俺はいつも別の窓口に向かった。
前列の同期が台の前に出て手を置いた。数値が出る。鷹羽教官が合格を告げた。次の同期が前に出る。俺の番は後半だった。白い光の中で、同期が順番に前に出て結果を受け取っていく。合格の声が来る。落第の声が来る。合格のほうが多い。
「氷見律。前へ」
鷹羽教官が名前を読んだ。
測定装置の前に出た。黒い台が正面にある。手を置く位置が台の表面に示されている。俺は右手を台の上に置いた。冷たかった。台の表面は常温より低い。今日の手のひらが薄くなっている気がした。
数値が出た。
鷹羽教官が表示盤を見た。俺は表示盤を見ない。見ても仕方がない。教官の表情を見ていた。鷹羽教官の目が表示盤から正面の壁へ移った。
「氷見律。最終測定値、0.07。落第」
声に特別な抑揚はなかった。0.07という数値が白い光の中で短く落ちた。俺は台から手を離して、教官に向かって頭を下げた。別の列へ向かった。後ろで次の名前が読まれた。
* * *
廊下に出ると、春の午前の光が窓から細く差していた。
石の床に光の筋が1本落ちている。廊下の突き当たりの窓の外に中庭が見えた。中庭の奥に、氷見家の旗が立っている。白地に氷の花の紋章。14歳の入学式の日に、あの旗の前で写真を撮った。写真の中の俺の表情は覚えていない。
合格した者たちが廊下を足早に通り過ぎていった。手続きの窓口は別の棟にある。声を立てずに通り過ぎていく者と、小さく笑いながら行く者とに分かれていた。中庭で家族と合流するために走っていく者もいた。正門の外に家族が待っている。俺はその横に立ったまま、中庭の旗を見ていた。
「無冠、0.07だってな」
背後から声が来た。振り返らなかった。
緋村凱。同期の神嗣の家系で、今日の試験は卒業見込みで通過している。
緋村は俺の横に並んだ。中庭の方向を向いている。俺の顔を見ない。
「俺の家系でも、過去300年で一番低い数字だ」
言い終えてから、緋村は制服の背中を指先で確かめる動作をした。廊下の石床に足音を響かせながら、手続きの棟の方向へ去っていく。
俺は答えなかった。
窓の外の旗を見た。春の風が旗を揺らす。0.07。基準値の0.8パーセント。その数値は今さら考えることではなかったが、数値の形が頭の中にしばらく残った。他の同期たちが廊下を通り過ぎていく。誰も声をかけなかった。
凱は嫌な男ではない。事実を言っただけだ。
窓の外の旗は風が止むと動かなくなった。
* * *
中庭に出た。
古い梅の木が1本、中庭の隅に立っている。花の季節は先月に終わっていて、今は若い緑の葉だけが残っている。幹が古く太い。根元に石造りの小さな台があって、幹が台の中に根を下ろしながら広がっている。神嗣士官学校と嗣外士官学校の中間地点にあたる共用の中庭で、昼の時間帯は両校の学生が通り過ぎる場所だ。
石の台の上に人が座っていた。
「氷見、終わったか」
白瀬透だった。嗣外の家系で、別の士官学校に通っている。今朝ここで待っていることは昨日の夕方に伝えてあった。
白瀬は石の台から立ち上がらなかった。俺が近づくと、梅の木の幹に片手を当てて古い樹皮の感触を確かめる動作をした。会話と関係ない所作だった。
「終わった」
「結果は」
「0.07」
白瀬は少し間を置いた。表情は変わらない。
「そうか」
白瀬が梅の木の幹から手を離した。石の台に手のひらを移す。石の冷たさが白瀬の手に移っていく様子を、俺は見ていた。
「家のほうは」
「これからだ」
白瀬は梅の葉を1枚、手で軽く持ち上げた。光にかざすような動作をして、手を離した。葉が元の枝に戻る。
「俺は嗣外士官学校だ。氷見家のことは知らない」
白瀬が続けた。
「落第と、力量は別の話だ」
右手の指先に、台の冷たさがまだある。
何も答えない。白瀬の言葉がどこから来ているのか、今日の俺には掴めなかった。白瀬は続きを求めなかった。しばらく2人で梅の木の前に立っていた。中庭の奥で、他の学校の学生が数人通り過ぎた。声は届かなかった。
「お前の次の話は、別の場所で聞く」
白瀬はそれだけ言って、中庭の先に向かった。
俺は梅の木の前に立ったまま、しばらくそこにいた。白瀬の足音が遠くなった。若い葉が中庭の風に細く揺れた。白瀬が持ち上げた葉がまだ同じ枝についている。
* * *
教官室の前廊下に立ったのは、午後2時を過ぎたころだった。
廊下は静かだった。昼の授業は別の棟で動いている時間帯で、この廊下を通る者はほとんどいない。石の床に光が縦に差している。木製の扉の向こうで、教官が書類を処理する気配が薄く続いていた。扉の前に立ってから、しばらくそこにいた。3年前の最初の落第の後も、この廊下に立って同じ扉の前で待った。その時の廊下の光も午後の角度だった。
扉が開いた。鷹羽教官が廊下に出てきて、俺の前で止まった。
「氷見律」
「はい」
「落第判定書だ。受け取れ」
白い紙を両手で受け取った。
折りたたまれていない、1枚だ。表書きに「神嗣士官学校卒業見込み・不認定」とある。その下に「魔素圧 0.07(基準値の0.8パーセント)」と印刷されている。教官の署名と、神嗣院議会の小さな印章がある。
紙の重さは軽い。1枚の紙の重さしかない。左手の指先が紙の縁を持っていた。紙の縁の感触が指先の皮膚に薄く残った。
鷹羽教官は廊下を戻った。扉が閉まった。
俺は廊下に立ったまま、紙を4つに折る。制服の内ポケットに入れた。破らなかった。捨てなかった。
廊下を出た。正門まで歩く。石畳の継ぎ目の影が深くなる時間だった。正門で振り返った。
校舎が静かにあった。旗が1枚、風もなく真直ぐに立っている。
明日からは、何を背負って生きるのか。
答えを持たなかった。正門を出た。
ポケットの中の紙は、まだ熱を持っている。
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