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ヘラルディック・コア 〜The Crownless Herald〜  作者: Studio SASAME


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第3話 あの日のこと

 朝5時の整備庫は、補給日の特有の静けさがあった。

 冷却音だけが低く続いている。ヘラルドの駆動音はない。昨日の戦闘の後、機装(きそう)は整備台に固定されたまま冷えている。床のコンクリートが膝の高さまで冷えていて、装甲と工具と油の匂いがその底に染み込んでいる。

 整備机には、A-117とA-118が並んでいた。昨日とまったく同じ配置だ。ジンは机の前に立ったまま、どちらかの断面をじっと見ている。鉛筆は手に持っていない。考え込んでいる時のジンは、何も持たない。


「ジンさん、今日は俺、何の役にも立たないですよ」


 ジンが顔を上げた。俺を見て、整備机に目を戻す。


「お前のヘラルドが役に立つ。お前は休め」


 補給日の答えとしては正しい。ジンに言い返す理由はなかった。俺はヘラルドの左胸に近づいた。昨日と同じ位置に氷の花の家紋がある。装甲の表面に指先を当てた。

 核を貫いた感触。右腕を押し込んだ時の、甲殻の中に別の層がある重さ。後列の核が露出した瞬間の、硬いものが突然やわらかくなるような感覚。それがまだ指先に残っている。

 後列の甲殻。前列より密度の高い積層。「教本にない素材」というジンの言葉。


「ジンさん」


「黙れ」


「まだ聞いてないですけど」


「分かる」


 ジンは整備机から目を離さなかった。A-117とA-118の断面が同じ方向を向いている。誰かが作った、とジンは言った。ヘラルドの装甲も誰かが作った、と。

 俺は装甲から手を離した。壁の時計が5時10分を指している。今日は出撃予定がない。この時計が午前と午後を1周するあいだ、俺はこの整備庫にいる。

 整備庫の隅にある古い椅子を引いて、ヘラルドの左胸が見える位置に座った。工具の影が床に長く落ちていた。

 壁の時計の秒針だけが整備庫の空気を刻んでいた。ジンはまだ机の前に立ったまま動かない。答えを持っていない時のジンは書き始める。今朝は書かなかった。鉛筆を耳の上に乗せたまま、欠片の断面だけを見ていた。

 俺はヘラルドの左胸を見た。氷の花の刻み目。昨日ジンが「誰かが作った」と言った後、目線は欠片からヘラルドの装甲に動いていた。

 廊下を誰かが通る足音が一度聞こえて、消えた。補給日の整備庫は出入りが多いが戻ってくる者は少ない。ジンと俺だけの静けさが、補給日の午前をゆっくりと動かしていた。


 * * *


 午前7時、食堂は朝の白い光で満たされていた。

 窓から伸びる光がテーブルの木目を照らしている。食堂の隅では、他の駐屯地から来た整備兵たちが低い声で話しながら朝食を取っていた。補給日の食堂は人が少なく、食器が触れる音と皿の音がよく響く。今日の朝食はパンと豆スープ、それから干した果物が小皿に少し。北辺の補給では、果物が届く日が貴重な日だった。


 アキラとマランの正面に座る。アキラがパンに豆スープを浸していた。


氷見(ひみ)、お前、補給日はいつも寝てるかと思ったら、整備庫に行くんだな」

「他に行くとこないんですよ。神嗣(しんし)士官学校時代と違って、図書室がないんで」

「図書室で何読んでたんだ」

 アキラが続けた。

「戦術学の教本ばかりですね。実技で点が取れないので、知識で穴埋めしようと」

「データは嘘をつかない。氷見律(ひみ りつ)神嗣(しんし)士官学校卒業記録、戦術学は首席。実技は最下位」

 マランが報告書から目を離さずに言った。

「マラン、そのデータ、持ってるんですか」

「全卒業生の複写がある。観測士官の保有義務だ」

 アキラが眉を持ち上げた。

氷見(ひみ)、なんで首席のこと言わなかったんだ」

「言うと変な期待をされるんで」

「変な期待って」

「お前は頭がいいんだから戦線を一発で読めるはずだっていう種類ですね。実技が最下位って同じデータに書いてあるはずなんですが、都合のいい部分しか読まない人が多くて」

氷見(ひみ)、お前って、軽口でいい話を全部潰すよな」

「軽口で潰さないと、いい話、重すぎて持ちきれないですよ」

 アキラが何も言わない。マランが報告書のページの間で手を止めた。

「マラン、なにか」

「あなたの戦術学の答案、私は読んだことがある」

「マラン、それは許可されてるんですか」

「同じ部隊員の答案は観測士官として参照可能」

「便利な肩書きですね、観測士官って」

「答案の冒頭に、あなたはこう書いた。戦闘とは敵を倒すことではなく、味方を生かすことだ」

「マラン、それ、もう5年前の答案ですよ」

「答案は古びない。データは嘘をつかない」

 マランの声が一段だけ低かった。


 俺は答えなかった。アキラが豆スープを飲み干す。小皿の干した果物はテーブルの上にそのまま残っていた。


 食堂の隅で空気が薄く動いた。白い髪が肩の高さで揃っている。野々宮呼(ののみや こ)。ノエル。手元のパンを持ったまま、他の整備兵から1席離れた場所に座っていた。

 俺はスープに向かった。


 * * *


 午前10時、整備庫に戻る。

 窓から斜めの光が床に細く伸びていた。ヘラルドの装甲の表面がその光に薄く照らされている。ジンは整備机の前にいなかった。補給日の整備庫は出入りが多い。


 ヘラルドの隣に人が立っていた。

 白い髪が肩のあたりで揃っている。ノエルだ。ヘラルドの左胸を見ていた。手は触れていない。ただ目線だけが氷の花の中の細い線をたどっていた。視線が止まる。線のひとつの上に目線が落ちて、そのまま動かなくなる。


「ノエルさん」

 ノエルは振り向かない。

「ヘラルドに、なにか」

 沈黙が落ちた。換気扇だけが低く回っている。床が静かだった。


「読める」

 ノエルが言った。声は低い。

「読める、ですか」

「氷の花の中の線。神紋(しんもん)の文字」

「あなたの装甲の神紋(しんもん)は、12系統のどれでもない」

「ジンさんと同じこと、言いますね」

「ジンは読めない」

 ノエルは振り向かない。

「でも、読める」


 ノエルの指先が装甲の手前の空気をゆっくりとなぞった。触れていない。氷の花の輪郭に沿って、空中で指が動いていた。俺はその指先の軌跡を目で追った。指が止まった場所が、神嗣(しんし)士官学校の教本の菊の花の形とは違う形をしていた。

 指が止まった空中の1点。換気扇が回っていた。ノエルの指先がもう一度だけ動いた。細い軌跡を描いて、止まった。

 ノエルは手を下ろした。俺はその場に立っていた。


 * * *


 ノエルが装甲から離れた。窓の方へ少し歩く。逆光の中で白い髪が薄く透けた。


「ノエルさん、あなた、何者ですか」

 ノエルは答えない。

「読めるって、何を読めるんですか」

「あなたの装甲の神紋(しんもん)

 少し間があった。

「それから」

「あなたの目」

 俺は黙った。

 ノエルがこちらを向いた。初めてこちらを向いた。前髪の奥から薄い色の目が俺を見ていた。動かない。整備庫の換気扇が回っていた。それ以外の音がなかった。


「数えたほうがいい」

「数える、というのは」

「最初に振った日のことを」

「最初に振った日」

「あなたが最初に何かを振った日。あなたの装甲の家紋は、その日からのものだから」

 ノエルはそれだけ言って、もう装甲のほうを見なかった。窓から光が動いた。ノエルの輪郭だけが逆光になる。


「ノエルさん、最後にひとつだけ。あなたは、神嗣(しんし)の人ですか」

 声がノエルの背中を追いかけた。出口の手前で足が止まる。振り返らない。


「誰でもない。整備庫にいる、それだけ」


 足音が薄い。床に触れているかどうかも分からない。ノエルが整備庫を出ていく。


 俺はヘラルドの左胸の家紋を見下ろした。氷の花の中の細い線。ジンが読めないと言った神紋(しんもん)。ゆっくりと息を吐く。装甲の表面に自分の息が薄く曇った。装甲の冷たさが指先から肘の内側まで伝わってくる。

 線をいくつか目で追った。目線をたどっても、どこで始まってどこで終わるのか分からない。ジンには読めない。ノエルには読める。同じ神紋(しんもん)の話だった。


 廊下からジンが戻った音がした。


「ジンさん」

「なんだ」

「ノエルさん、神紋(しんもん)を読めると言ってました」

 ジンは答えなかった。整備机の前に立って、ノートを開く。鉛筆の走る音が整備庫の底に薄く落ちた。

 俺は質問の続きを言わなかった。

 窓の外で補給日の午後が続いていた。ヘラルドの冷却音だけが整備庫に低く鳴っていた。俺は椅子を引いた。ヘラルドの左胸の氷の花を、もう一度だけ見た。


 * * *


 その夜、兵舎の2段ベッドに横になった。

 窓の外で北辺の風が低く鳴っている。上段のアキラはもう寝息を立てていた。天井の梁の影を見上げる。北辺氷雪要塞ほくへんひょうせつようさいの兵舎は建てられて40年以上経つ。古い木材の梁が、節のいくつかを夜の薄い光の中で浮かせていた。向かいの寝台でベルクが寝返りを打つ気配があった。マランの寝台は静かで、寝息も聞こえない。マランはいつも眠っているのか起きているのか、外からは判別できない。

 兵舎の古い木材が、冷気の中で静かに軋んだ。それだけだった。


 最初に振った日。


 思い浮かべたのは、神嗣(しんし)士官学校の最終試験の日だ。落第の宣告を受けた日。だがノエルは「最初に」と言った。落第の日という答えが浮かんでは、その言葉の手前で止まる。


 11歳の春の神嗣(しんし)大祭が浮かんだ。

 12家の子供たちが順番に祭壇に手を置いて、それぞれの家の神紋(しんもん)が光で応える儀式だった。俺の手番が来た。白い石の祭壇に手を置いた。周りが静かになった。左隣の岩倉家(いわくらけ)の子供の手から、細い光の筋が祭壇の縁まで伸びた。右隣の別の神嗣(しんし)家の子供の手からも同じように光が伸びた。俺の手からは何も出なかった。氷見家(ひみけ)神紋(しんもん)は、その日は何にも応えなかった。俺は手を引いた。隣の子供たちの光は祭壇の上でしばらく残っていた。

 祭壇の白い石が冷たかった。光が出なかった。誰も何も言わなかった。正面の司祭の顔に表情がなかった。その無表情は言葉より重かった。

 隣に座った岩倉家(いわくらけ)の子供が俺を見ていた。目が合った瞬間、向こうが逸らした。

 その夜、11歳の俺は何かを決めた。手のひらに祭壇の冷たさがまだあった。


 梁の節が夜の薄い光の中で動かない。


 あの日のことを、まだ俺は数えていない。


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