第2話 鋼を握る者たち
翌朝の整備庫は、5時半を示す壁の時計と蛍光灯の白い光だけで動いていた。
暖房を入れても、床のコンクリートから膝の高さまでの空気は冷えたままだ。装甲と工具と油の匂いが、その底冷えの層に染み込んでいる。ジンが整備机の前に立って、鉛筆で何かを書いている。
俺はヘラルドの左胸に近づいた。昨夜と同じ位置に氷の花の家紋がある。光っていない。
「気のせいにしておけ。今日も」
ジンが俺の方を向かずに言った。
「ジンさんの気のせい、もう3回目ですよ」
鉛筆が止まった。ジンが耳の上に鉛筆を挟んで、工具棚の前に向き直る。
ジンは答えなかった。整備机の上のレンチを持ち上げて、ヘラルドの脚部の点検に向かう。腕がヘラルドの脛装甲の内側に入った。工具の小さな音が整備庫の底に落ちた。
「氷見」
「はい」
「今日も出るか」
「異形級の予定です。朝のブリーフィングで確認しますけど」
「昨日のサンプルは俺が管理する。戻ってきたら整備庫に直行しろ」
指先で左胸の家紋をなぞった。刻み目の深さが指先に届く。昨夜神紋が光った。蛍光灯は消えていたのに、氷の花の輪郭だけが薄く浮いていた。ジンに言おうとして、言えなかった。ジンに言う前に、ジンがもう知っていた。
「ジンさん」
「なんだ」
「気のせい、何回まで数えますか」
ジンの背中は動かない。レンチの音だけが、脛装甲の内側から続いている。
「お前が生きている間だ」
それだけ言った。俺は左胸から手を離した。
昨夜の神紋の光は、ヘラルドに俺が乗っているあいだは出なかった。整備庫に戻って、コクピットを降りて、半刻経ってから始まった。ジンがそれを知っているのかどうか、聞いていない。聞かなくても、ジンは知っていた。
* * *
6時30分。作戦室は暖房が利いていて、窓の外は曇天だった。投影された地図に北辺第三裂け目の赤い点が点っている。メイ大尉が地図の端に地形注記を書き込んでいた。
「異形級2体。フリスト系統甲殻型。北辺第三裂け目の西側だ」
トバ少佐が地図を指した。
「データ上、2体同時出現は今月3回目です。前回は14日前」
マランが計測記録を地図の横に展開した。机の端でアキラが眉を持ち上げる。
「マジかよ。また同種か」
「前衛3機。氷見、アキラ、ベルク。観測はマランが後方200メートルに入る」
トバ少佐の指が地図の上を動いた。
「了解です。アキラさん、今日は俺の右側でお願いします。先に死なれると伝言、誰に渡せばいいか分からなくて」
「氷見、朝から縁起でもないこと言うな」
アキラが机に手をついて立ち上がりかける。ベルクが壁から背を離して腕を組んだ。
「氷見、右側から抜けるなら俺が前に出る。それでいいか」
「ベルクさんが前に出てくれるなら、俺は右側に専念できますね」
「俺はお前の都合で前に出るんじゃない。部隊の布陣の話だ」
「分かりました。布陣の都合で俺が右側に専念できますね」
ベルクが短く息をついた。アキラが笑い声を押し込んだ。
「7時、出撃だ。氷見、今日も戻ってこい」
トバ少佐が地図を消した。
* * *
午前7時。北辺氷河帯の白い平原に、低い風が走っていた。
脛の装甲を掠める高さで風が通る。踏み込むたびに氷が薄く鳴いて、その音が膝の内側まで届く。コクピットの換気口から冷気が細く入ってきた。3機が散開し、マランの気配が後方200メートルの丘陵に伏せる。
「氷見、距離120。前後に間隔10メートル、前後列で接近中」
マランの通信。
「了解です」
視界の先に2体が見えた。フリスト系統の甲殻型。前列が単体、後列が単体。前列の体長は昨日の1体より少し大きい。甲殻の灰青い表面が、薄曇りの午前の光を鈍く受けていた。後列は前列の影に入るように立ち位置を取っている。連携ではないが、地形を利用している。本能とは呼びにくい角度だった。
コクピット越しに前列の動きを追った。4本脚の踏み方が重い。充填が進んでいる証拠だ。充填が完了すると、前列の胸部中央の核が発光する。それが来る前に継ぎ目を取る。
「アキラさん、援護のタイミング、俺が右に抜けた瞬間に前列を牽制してもらえますか」
「了解」
ベルクが通信を入れた。
「後列は俺が出る。前列を先に終わらせろ」
「了解です」
左脚に意識を向けた。魔素回路に風が圧縮された。脚の付け根に熱。足裏の装甲が熱い。行き場を失った魔素が回路を満たす。前列の複眼が俺のヘラルドを向いた。充填が始まった。
前列の胸部中央が明るくなる。核の充填が完了に近い。間に合うか。
一拍。
踏んだ。
* * *
ヘラルドが氷の上を滑り出した。前列が4本脚を蹴る。咆哮の波が来る前に、体が前列の右脇に入った。アキラの牽制射撃が前列の首を逸らした一瞬、右胸下の継ぎ目に魔素剣を差し込んだ。
硬い。甲殻の積層に知らない層が1枚ある。昨日の1体と同じ固さだ。もう一段押し込む。核が露出した。
貫いた。
感触が右腕を通り抜けた。フリストの4本脚が氷面を叩く。崩れ始める声がした。魔素剣を引き抜きながら後退する。
「1体目、撃破」
マランの記録音声が来た。前列が氷の上に崩れる。甲殻の破片が白い平原に散った。
「氷見、後列が来る! ベルク、前に出ろ!」
アキラの声。ベルクの重装機が後列の正面に立つ。盾が前足を受け止めた。鋼と甲殻のぶつかる音が氷面を揺らした。ヘラルドの脚の下が一瞬だけ動く。
「右から抜ける!」
2回目。左脚に熱が残っている。ジンの声が脚の付け根で鳴った——3回踏んだら死ぬぞ。
後列の腹部中央が視界に入った。前列と同じ位置、甲殻の板と板の境目。差し込んだ。
手応えが1体目と変わらない深さで止まる。だが、中に別の層がある。硬い。前列より密度が高い。もう一段押した。核が出た。右腕を押し込む。
「2体目、撃破。交戦時間2分41秒」
マランが淡々と記録した。甲殻が氷の上に叩きつけられた。青い魔素片が霧のように散った。咆哮も鋼の音も消えた。2体の甲殻が氷の上で崩れたまま、風だけが吹いていた。
「氷見、ステップ何回踏んだ」
通信機からジンの声。
「2回です」
「奇跡を2回使うな。明日の分がなくなる」
通信が切れた。
ヘラルドの右腕を見下ろした。装甲の表面に、後列の甲殻の欠片が継ぎ目にはまり込んだまま残っている。淡い色の金属。黒くも青くもない。指先で触れた。教本の甲殻素材の固さとは違う。断面の縁が揃っている。自然に割れた破面ではない。削られた跡だ。
教本の素材欄に、これと同じ破断面は載っていない。
「ヘラルドの装甲付着物、サンプル番号A-118。昨日のA-117と材質が酷似」
マランが淡々と報告した。
「もう記録してるんですか」
「データは先に取る」
ベルクが重装機を前列の残骸の前で止めた。通信を入れる。
「氷見」
「はい」
「装甲の継ぎ目から欠片が取れる異形級は珍しい。俺の知る限り、今日で2体目だ」
「1体目は」
「3年前、北辺氷雪要塞の南西で出た。同じ系統、同じ継ぎ目の角度だった」
「ベルクさん、それ報告書には」
「甲殻装甲の不規則な変質と書いた。当時の上官の判断だ」
ベルクが通信を切った。氷河帯の風が戻った。2体の甲殻が冷えるにつれ、魔素片の霧が少しずつ薄れた。
「氷見、撤退しろ」
トバ少佐の通信。右腕に、欠片を押し込んだ感触が残っていた。
* * *
整備庫に戻る頃には、窓から午後の光が床まで伸びていた。
他の機装の冷却音が低く続いている。ジンは椅子を引かず、立ったまま整備机の前にいた。昨日のサンプルA-117を顕微鏡の下に置いて、今日のA-118を横に並べる。2つの欠片が同じ方向に断面を向けて並んでいた。
俺は整備机の横に立った。ジンは顕微鏡から目を離さない。指先が欠片の位置をわずかに動かして、また顕微鏡に目を戻す。
「ジンさん」
「黙れ」
「まだ何も言ってないですけど」
「分かる。黙れ」
換気扇の音だけが続いた。ジンが欠片の角度を少し変えて、再び顕微鏡を覗く。今日のA-118を昨日のA-117の隣に押し戻して、断面の向きを揃え直した。同じ角度、同じ切られ方。意図して作られた断面に見える。
ジンの指先が、欠片の断面に沿って低く動いた。整備の手つきではない。
ジンが顕微鏡から目を離した。
「これは古代の合金だ」
整備庫の底まで届く低さだった。俺は2つの欠片を見た。指先を近づける。触れない。ジンが管理しているサンプルだ。
「神嗣士官学校の教本にも、ですか」
「載っていない。俺の知識にも載っていない」
「ジンさんの知識、教本の何倍くらいですか」
「黙れ」
ジンが2つの欠片を指でゆっくりと並べ直す。断面の向きが同じになった。どちらも同じ方向に整っている。昨日と今日、別の個体から採取した欠片が、同じ方向の断面を持っている。
「氷見」
「はい」
「これは誰かが作った。設計の痕跡がある」
「ジンさん、今のは整備士の独り言ですか、それとも先払いの香典の話ですか」
「両方だ」
ジンが工具棚の前で背を向けた。
「お前のヘラルドの装甲も、誰かが作った」
低い声が整備庫の底に落ちた。俺は欠片から目を離さなかった。A-117とA-118。昨日と今日の異形級の甲殻装甲。教本にない金属。誰かが作った——その言葉は、魔獣の話をしていない。
ジンの目は、欠片の上にはなかった。
ヘラルドの左胸の、氷の花の家紋を見ていた。
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