第1話 七番駐屯
核を貫いた感触が、まだ右腕の装甲に残っている。
装甲の左胸を見た。神嗣士官学校で習った神紋の形と、違う。
俺の魔石は粟粒だ。それでも、今の機装は俺の意志に応えた。
北辺第三裂け目の氷河帯は静かだった。核を割られた魔獣の残骸が横たわり、砕けた甲殻の破片と魔素片が白い氷面に散らばって薄曇りの午後の光を鈍く受けている。コクピットの排気口から湿った氷の匂いが薄く入ってきた。北から風が吹いていた。
「氷見、どれくらいかかった」
通信にアキラの声が来た。
「4秒です。御の字ですかね」
「マジか。3秒じゃなかったのかよ」
「3秒もてば御の字ですけど、4秒もちましたんで。上出来ですね」
右腕を動かす。神経接続コネクターを通じた感触が装甲の末端まで戻っていた。指先に、核を貫いた時の熱がある。コクピットの内側で装甲の冷却音が低く続いていた。
「氷見、戻れ」
トバ少佐の声が通信に入って、それで通信が静かになった。
冷却が終わった装甲の冷たさが、右腕から胸部へ伝わってくる。装甲の左胸に右腕を当てた。神紋の刻み目が、神経接続越しに指先に届いた。神嗣士官学校で覚えさせられた12系統の紋章。氷見家は白い系統、菊の花を模した形。装甲の左胸の家紋は、その菊の花を砕いて別の形に組み直したようだ。ジンが刻んだ。なぜかは聞いていない。
1年前から、そのままだ。
ヘラルドの脚部が、踏み出すたびに氷面を軽く割った。部隊の5機が、200メートル先で待っている。甲殻の残骸を踏まないように迂回しながら歩いた。踏み割れる氷の音が、脚部から伝わってくる。右腕を左胸に当てた。刻み目の深さが指先に届く。氷の花。ジンが刻んだ形。
部隊の中に入ると、通信が静かになった。5機が並んで北辺駐屯地の方角へ向かう。白い平原が、後ろへ流れていった。
* * *
朝5時の整備庫は、蛍光灯の白い光だけで動いていた。
ヘラルドが整備台に固定されている。右腕の装甲がまだ外れたまま、内部骨格がむき出しになっていた。工具棚の前でジンが何かを鉛筆で書いている。整備報告書か、部品リクエストか。出撃5時間前から書いている。整備台に固定されたヘラルドの影が、蛍光灯の光の下で床に伸びていた。
「3回踏んだら死ぬからな」
顔を上げずに、ジンが言った。
「ジンさん、また同じこと言ってますね」
「死ぬぞ。3回目で脚の回路が焼き切れる。お前の魔石じゃ、そこまでしか持たない」
鉛筆の音が止まって、ジンが顔を上げた。
「今日も踏んだか」
「1回です」
「1回でも踏みすぎる。制限は0回だ」
「ジンさんの数え方だと、俺は去年の4月から制限超過してますね」
ジンは答えなかった。鉛筆を耳の上に挟んで、工具棚の前に向き直る。
俺はヘラルドの胸部に近づいた。左胸の装甲がそこにある。氷の花の家紋。ジンが勝手に刻んだやつだ。指でなぞると、刻み目の深さが指先に届いた。
「氷の花、なんで刻んだんですか。俺、氷見の後継から外れてるんですよ」
ジンが工具を金属の棚に置く音だけが、整備庫の空気に響いた。
ジンの背中は動かない。
俺はもう少し待った。整備庫の空気が動く。ジンの肩幅が、板に沿っている。答えない。
「いつか教えてくれますか」
工具棚の奥で金属が鳴った。ジンが手を動かした音だった。
「覚えていたらな」
それだけ言った。顔は向けなかった。俺は胸部の装甲から手を離した。
* * *
作戦室は暖房が利いていた。窓の外は曇天だ。投影された地図の上に北辺第三裂け目の赤い点が示されていて、室内で妙に明るかった。メイ大尉が地図の端に地形注記を書き込んでいる。コーヒーの匂いが空気に混じっていた。
「異形級1体。北辺第三裂け目を出口に接近中だ」
トバ少佐が地図を指した。
「氷見、単独で動け。部隊は援護位置に入る」
俺は地図の赤い点を見た。戦闘の前、左手が反射的に右手の甲の上に来た。
「了解です。俺の魔石、粟粒なんで3秒もてば御の字ですけど、これ、3秒で済むやつですかね」
「マジか。氷見、お前さあ……」
アキラが眉を上げた。
「データでは、異形級の核破壊までの平均交戦時間は2分47秒です」
マランが計測データを地図の横に展開した。
「2分47秒は、3秒以上ありますね」
長机の端でベルクが腕を組み、壁から背を離した。
「お前のためじゃない。援護に出る」
「ベルクさん、援護のタイミング、マランが撃ったあとでいいですか」
ベルクが言った。
「そうする」
アキラが立ち上がりながら言った。
「氷見、3秒で終わらなかったら俺が行くぞ」
「3秒で終わらなかったときの俺の状況を考えると、アキラが来ても遅いですね」
「縁起悪いな!」
短い返答だった。トバ少佐が地図を消した。部隊が動く。作戦室の椅子が引かれる音がした。俺は最後に立ち上がった。
* * *
北辺第三裂け目は、氷河帯の中央に走る縦の亀裂だった。魔素の裂け目と重なった場所で、定期的に魔獣が湧き出す。
裂け目の前縁に、それが立っていた。
甲殻型フリスト。4本脚で氷面を踏んでいる。体長は4メートル強。胸部中央に核がある。継ぎ目の間から魔素が薄く漏れていた。裂け目から出た直後だ。充填が完了していない。
部隊が扇形に展開した。5機が150メートル後方の援護位置に入った。氷河帯は静かだった。出撃前より風がなかった。コクピット越しに見える白い平原が、裂け目の手前まで続いている。フリストの複眼が俺のヘラルドを向いた。軽い魔素波が走る——感知した。向かってくる。
「距離100。接近中」
マランの通信が来た。
「3秒くれ」
「氷見、3秒でどうにかなるのかよ!」
アキラが割り込んだ。
「なるかどうか、3秒後に分かりますね」
ヘラルドの左脚に意識を向けた。神経接続コネクターが魔素回路に繋がる感触がある。脚の内側で魔素が圧縮を始めた。回路の温度が上がる。足裏の装甲が熱い。行き場を失った魔素が回路を満たす——まだ。もう少し。フリストが4本脚を蹴った。咆哮が来た。凍気の波が氷面を走る。胸部の核が発光した。充填完了に近い。急ぐ。
ひと呼吸分。
踏んだ。
爆音がヘラルドの足裏から来た。氷面が後ろに飛んだ。ヘラルドの重量が消える。距離100が距離10になった。体が横に旋転する。フリストの右脇が視野に入った。甲殻の表面を視線が走る——正面は厚い、側面も同じだ。問題は脇腹だ。異形級の右脇を抜ける瞬間、右腕の魔素剣を縦に構えた。
甲殻の継ぎ目を探す。右脇を抜けた直後に体勢を維持したまま視線を下に向けた。左肩の下、脇腹に当たる板と板の境目。甲殻の厚みが薄くなる場所がある。ここだ。
差し込んだ。
装甲越しの抵抗が神経接続を通じて来た。甲殻が固い。魔素剣が層を越える。その奥に別の組織がある。核に繋がっている。
貫いた。
これは応えた。
フリストの4本脚が氷面を叩く。鳴き声が来た——音が詰まった、崩れ始める種類の声だ。魔素剣を引き抜きながら体を後退させた。核が壊れると、甲殻を維持していた魔素の流れが止まる。右腕に抜けた感触が残った。異形級が崩れる。甲殻が氷面に叩きつけられた。
「嘘だろ」
アキラの声が通信に来た。それだけだった。
「氷見、撤退しろ」
トバ少佐の声が通信に来た。右腕の装甲に、貫いた感触がまだある。俺は部隊の方角へ向いた。
* * *
夜の食堂は、黄色い電球が天井から下がっていた。パンと豆スープの匂い。窓の外は氷の風が鳴っている。食堂の隅では、他の駐屯地から来た整備兵たちが低い声で話しながら夕食をとっていた。
「氷見、お前、毎回3秒もてばって言うのやめろよ。縁起悪いだろ」
俺の向かいにアキラが座っていた。
「縁起のいい言葉、俺の語彙にないんですよ。ジンさん経由で覚えた言葉ばっかりで」
「ジンさんの語彙が死ぬぞと3回だけって話じゃないか」
「ジンさんの数え方は正確なんですよ」
「だから俺の数え方に合わせてくれよ、帰ってこい数え方に!」
「アキラの数え方のほうが難しくないですか、それ」
アキラが眉を寄せた。
「お前、本当に死ぬつもりないよな?」
「今日は帰ってきましたんで、そうなりますね」
アキラが額に手を当てた。長机の端でベルクがパンを割っている。
マランがスープの椀を置いた。
「データ上、氷見准尉の出撃帰還率は今月100%です」
「ありがたい数字ですね」
テーブルの端でアキラが笑っていた。マランは返事をしない。それがマランの笑い方だった。
「明日も同じ手で行くのか?」
ベルクが俺の方を見た。パンを割り終えて、長机の上に両肘をついている。
「踏める状況なら踏みますね」
「俺はお前の判断を聞いているんじゃない」
「ジンさんの制限超過のことですか」
ベルクは答えなかった。スープをひと口飲んだ。それが返答の代わりだった。
俺もスープをひと口飲んだ。豆の味がした。腹の底に熱が落ちていく。
食堂の奥のテーブルで、誰かが律を見ていた。長机の端、他の整備兵から離れた席。白い髪、表情のない顔。スープにもパンにも、手をつけていない。目だけが律の方を向いていた。動かない。
ノエル。名前だけ聞いていた。どの部隊からの配属か、機装の型番も、出撃記録も知らない。
俺はスープの椀に目を戻した。アキラの声が続いていた。
テーブルの上に空の椀が残っていた。アキラが何か言いながらそれを片付けた。ベルクはいつの間にか席を立っていた。食堂の黄色い電球が、細かく揺れた。夜が深くなっている。窓の外では氷の風が鳴り続けていた。
食堂を出た。廊下の窓から北辺の夜空が見える。星が出ていた。
廊下の先に人影があった。非常灯の赤い光の下、ノエルが立っている。食堂の入口の反対側——俺が出てきた方向の壁に、背を預けていた。
俺は廊下を歩いた。ノエルの前を通り過ぎようとした。
「氷見准尉」
声が来た。低い声だ。俺は足を止めた。振り返ると、ノエルは俺の方を向いていた。動かない。廊下の赤い光の中で、目だけが俺を見ていた。
廊下に声が残った。
「何か用ですか」
「いや」
ノエルは壁から背を離した。廊下の奥へ歩いていく。俺の方を、もう見なかった。
廊下に残ったのは、非常灯の赤い光だけだった。
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