15
幸せそうなカップルが立ち去ったあと、茉理は洋子とまたお茶を楽しんだ。
シュークリームは食べてしまったが、洋子が戸棚からクッキーを出してきて、今度は香りの良いハーブティーを入れてくれる。
時々違和感のある発言をする茉理を怪しむこともなく、洋子は彼女を『後野藤子』として疑うことなく接し、様々な事を教えてくれた。
そのおかげで、茉理は疑問だらけのこの世界の事を少し知ることになる。
ここは中等部ではなく高等部文化祭の最中で、この世界の住人は全員2年A組の生徒と見学に訪れたお客様だ。
(高等部って来週文化祭じゃなかったのかな)
茉理の記憶ではそうなのだが、もしかして突然日付変更になったのかもしれないと思いなおす。
何しろ同じ学園内でも中等部と高等部は特に接点があるわけではないし、あちらの詳しい行事スケジュールなどほとんど知らない。
時折、何かのはずみで耳にすることがあるぐらいだ。
体育祭や文化祭はやはり大きな催しだから、うわさのたぐいは流れてくるのだが、詳しい内容が語られる事はない。
(まあ、そういうこともあるかもね。魔法にだってミスや失敗はあるし)
彼女なりに考えた結果、茉理は何故か自分は高等部の文化祭にかけられた魔法に巻き込まれ、ここに来たのだと思うことにした。
(高等部に偶然わたしとよく似た『後野藤子』という女子がいるのなら、洋子さんがわたしを遊びに来てくれた親友と間違えてもおかしくない)
祖母と同じ名前だというのが若干ひっかかるが、別に藤子という名前はありふれたものだし、後野という姓だってどこかに同じ人はいるだろう。
たまたまそうなっただけ――茉理はそう思うことにして、面倒なのでしばらく後野藤子さんの名前を拝借することにした。
どうせ文化祭が終われば元の日常に戻るから、真実はあきらかになる。
(後野藤子さんって、皆に苛められてたらしいのが引っかかるけど)
先ほど出会った門番やお店の人たち。
同情的だったり、逆に厄介者のように敵意を向けられたりして、少々不安ではある。
だが自分の顔を仮面で隠してごまかしたり、洋子のお店にかくまってもらっていれば、時間まで何とかなるだろうと茉理は楽観的に考えることにした。
でも――。
(何だろう。この世界。凄く嫌な感じだ)
さっきからもやもやと灰色の霧のようなものが周囲に立ち込めているような気がして、茉理は落ち着かない。
いつもの変な感覚だ。
見えないものを何故か感知してしまう。
それが具体的に何かはわからないし、見える現象は何一つないというのに。
(変なの)
思わず胸元に手をやり、白い石のペンダントをそっと服の上から押さえる。
そうすると少しだけ安心した。
いつも身に着けているこのペンダントは、1学期始まってすぐ、帝と一緒に昔存在していたという異世界ユーフォリアに飛ばされた時、そこの主たる聖魔巫女トノアからもらったのだ。
それと一緒にトノアから、トノア自身の記憶を渡された。
それは今は茉理の心の奥にしまわれていて、自分でも見ることは出来ない。
必要な時が来れば目覚めるとトノアはそう言った。
自分の記憶を茉理に渡しながら、同時に心の中に封印しながら。
その時、彼女の記憶に触れて、ひどく泣いたのを覚えている。
今は何故泣いたのかすら思い出せないが、とてもせつなくて悲しい想いを感じた事はわかっていた。
「どうしたの? 藤子」
不安そうに揺れる彼女の瞳に気付き、洋子が声をかけてくれる。
そしてすぐに続けた。
「雷導様なら大丈夫よ。こんな場所に来るわけないわ」
「そうなの?」
茉理はとりあえず問う。
今だに謎なのは雷導の事だ。
彼は本来次期総帥ではなく、すでに総帥であり、詳しくは知らないが高校生などではないはずだ。
帝の祖父なのだから、それなりの歳だろう。
(歳はともかく藤子さんは、この雷導様に嫌われているみたいね)
先ほどからの洋子の発言、そして周囲の同情と敵意はすべて、この雷導が藤子を苛めているという一点から派生した感情だ。
(帝先輩のおじいさんだから、帝先輩と似ているわよね)
一学期入学したての頃、茉理も帝にひどい嫌がらせを沢山受け、それに伴ってクラスメイトや中等部の学生全員、果ては教師までもが茉理を汚らわしい者のように扱った。
多分藤子という生徒も、似たような感じでいじめの対象になったのだろう。
(無駄に自尊心が高そうだもんね、伊集院家の人たちって。きっと藤子さんも何かに逆らって、目をつけられたんだろうな)
茉理は会ったこともない藤子という少女に同情した。
「それにもし来ても、私が何とかするわ。私だって雷導様ほどじゃないけど、第五の分家直系だもの。雷導様が本家でいかに権力をお持ちでも、私を害するのは得策じゃない事ぐらいわかっているはずよ」
(第五の分家って遠野君とこの……そういえば姓が同じだった)
茉理は生徒会メンバー最年少の遠野斎を思い出す。
「あの、遠野斎君ってご存知ですか」
茉理はおそるおそる斎の名前を問う。
彼は第五の分家代表だ。
遠野の姓を持つ者なら、彼のことを知らないはずがない。
そう思っての問いに、洋子はすっと目を細めた。
「そういう人もいたかもしれないわね。何しろ遠野家も人数が多いから」
「そうですか」
否定も肯定もしない。
どちらなのかよくわからない答えを返され、茉理はどう考えてよいかわからなくなる。
所在なげにカップを手にお茶を一口に飲むと、洋子がはっと顔色を変えた。
茉理の背後に、黒いマントを身につけた少年が姿を見せたのだ。
がたっと彼女は椅子から立ち上がり、青ざめた顔を向ける。
「えっ? 洋子さん?」
茉理は洋子の驚愕する表情を見て、やっと自分の後ろに全身黒ずくめの人間が立っていることに気付き、振り向いてカップを取り落とす。
マントで頭から足まですっぽりと覆った彼は、茉理の腕をぐいっと掴んだ。
「悪いがここまでだ。彼女を連れていく」
そう言うなり、茉理の周囲が突然ぶれる。
「藤子っ」
洋子が叫んで彼女に手を伸ばすが、その手は茉理に届かず、宙をかくのみだ。
わけもわからず突然茉理は、黒マントの男によってどこかに瞬間移動したのだった。
一瞬視界がぶれて、次にはっきりした時、茉理はどこかの路地裏にいた。
目の前には自分の腕を掴む正体不明の黒マント男。
警戒と不安で震える彼女だったが、マントの中から見知った声がかかる。
「後野さん、ごめん。遅くなって」
「山下先輩」
黒マントをするりとはずした彼は、チェックのコートを着た英司だった。
「ちょっと色々この街の事を調べててさ。別行動させてもらった」
一人にしてごめんね、と英司はすまなそうに謝る。
茉理は少しだけ顔が赤くなった。
実は洋子の勢いと突然変わった周囲の状況に対応することがせいいっぱいで、英司の存在を忘れていたのだ。
(うっ……忘れてたことは内緒にしとこう)
そう思い、気にしないでくださいと声をかける。
「それより調べるって、この街は一体何なんですか」
茉理の疑問に、英司は困り顔になった。
「まだ全部調べきれていないから後野さんが望む答えは出せないかもしれないけど、俺がわかることだけ教えるよ」
そう言って、英司は周囲を一瞬見回し、口の中で呪を唱えて茉理と自分を薄い透明な膜のようなもので覆う。
「外界と俺達の間に遮断幕を張ったんだ。これで俺達の会話は誰にも聞こえない」
そう説明すると、英司は真剣なまなざしになった。
「実はね、クリスティ学園には60年前の文化祭で生徒が失踪する大事件が起こっていて、今だ未解決なんだ」
「ええっ、そうなんですか」
茉理は初めて知る事実に、目を丸くする。
「元々は当時の高等部で起こった事件だ。文化祭1日目の11月15日、2年A組の生徒全員と父兄、見学に来ていたお客さんを含む105人が姿を消した。事件が発覚してからずっと捜索活動は続けられたが、60年経った今も消えた105人は現実世界に戻ってきてない」
「そんな。それってつまり」
茉理は思わず口元を手で覆う。
英司の言葉が本当だとすると、この世界は――。
「ここは60年前、高等部文化祭で2年A組が作り上げたミニチュアの魔法街。今、この街にいる住人は、60年前に失踪した人たちだ」
――60年前に造られた街。
茉理はしばらく衝撃で、頭が真っ白になってしまう。
英司も同じくどうしてよいかわからないという表情で、茉理を見つめていた。
必死に一瞬からっぽになった頭を回転させ、茉理は思考をめぐらせる。
(そうか。だから雷導様が次期総帥なんだ)
本来なら今、雷導が総帥で、帝が次期跡取りなのだが、60年前の過去だったら話は別だ。
帝はおろかそのお父さんだってまだ生まれていないだろう。
ここの住人は、全員60年前の過去に現実世界からこのミニチュア街にやってきて、そのまま帰れなくなった人たちなのだ。
英司は街の住人に見学者のふりをして、色々聞き込んだ情報を教えてくれる。
それによるとこの街は、当時『中世ヨーロッパにおける魔法使いの生活』をテーマに、紙や廃材なんかを用いてミニチュアで魔法使いの暮らしていた町並みや通りを作り、展示するのが企画の内容だった。
しかしそれだけでは面白くないと学級委員が言い出して、クラス全員が意気投合。
企画書とは別に、来たお客をびっくりさせる秘密のミニチュア街を作ろうということになった。
作成場所は、A組教室の後ろにあるロッカー。
一番右のロッカー内に小さな魔法の街を作り上げ、クラス全員体を縮小させてその街の住人になる。
そして来たお客さんもロッカーの中に体を縮小させて誘導し、街を見学して楽しんでもらおうということになった。
中等部と違って、高等部は魔法の使用が許可されている。
小さなアトラクションを作ることはとても楽しく、クラス一丸となって取り組み、徹底して秘密を守った。
何故なら一歩間違えば危険なことにもなりかねない企画である。
正直に報告したら、断固中止を言い渡されるかもしれないという懸念があった。
よってクラス全員沈黙の魔法をかけあって秘密を保持し、文化祭当日を迎えたという。
無事に街は完成し、教室には『ロッカーに触れてください』という表示や矢印を壁に貼って、仕掛けがわかるようにした。
入り口となる一番右上のロッカーに手を触れた者は、次の瞬間そこに設置した魔方陣の仕掛けにより、体を縮小、そのままロッカーの中に創った街の門前に移動する。
2年A組の父兄や他のクラスの生徒達、職員や外部から見学に来た人など次々お客がやってきて、皆目を丸くしてこの街の出来を褒め、本物と変わらない素敵な魔法使いの街を楽しんだ。
だが最初の見学者が街のはずれにある出口の門を出て行った時、異変に気づく。
本来なら元の2年A組に戻れるはずが、また街の入り口の門に出てしまったのだ。
何度もそれを繰り返して、どうやら出口の魔方陣の製作にミスがあったことが発覚。
しかもそれを仕掛けた本人の話によると、無理やり解除は出来ないと言うのだ。
解除してしまえば、この街そのものが全部崩壊してしまう。
精巧に組み上げられた魔方陣の一角をくずすと、連鎖的に他の作用を持つ魔法たちもバランスを崩して壊れてしまい、街は潰れてしまうらしい。
――もちろんこの街の住人ごと。
「だから全員文化祭終了の午後三時まで、魔法が解けるのを待っているらしい。最初に魔方陣を作成したとき、三時になったら終了。魔法は強制解除されて、全員教室に戻るって設定にしたそうなんだけど、これもおそらくミスってるよな。60年解けてないんだから」
英司は大きなため息をつく。
「どうして解けないんですか」
「わからない。誘導と人体縮小の魔法はロッカーの扉に仕掛けてあったと思うけど、この街を維持するメインの魔方陣、それがどこかにあるはずなんだ。場所さえわかれば、俺でも何か原因がつかめるかもしれないんだけどさ」
英司はうーんと腕組みをして、考え込んだ。
「あちこち聞きまわったけど、それについては誰も知らないって言うんだ。その事を知ってるのは学級委員だけだって」
「そうなんですか」
「彼が誰か、どこにいるのか聞いてみたんだけど、わかったのは名前だけだ。誰も居場所はわからないらしい。時々ふらっと市場とかに来るから、この街にいることは確からしいんだけど」
これ以上どうしたらいいかなあ、とぼやく英司に、茉理はある事を思いついた。
(上手く行くかはわからないけど、もしかしたら行けるかもしれない)
彼女は英司に向かって問う。
「60年前って雷導様って高校生だったんでしょうか」
「雷導様? 総帥のか」
英司は考え込む。
「どうだったかなあ。俺も正確な雷導様の歳を知ってるわけじゃないし」
「いっそ雷導様の名前を使うのはどうでしょう」
「へっ?」
茉理の提案に英司は目を丸くする。
「雷導様の名前を使うってどういうことだ」
「えーとわたし、この街に来て思ったんですけど、60年前の雷導様って次期総帥で今の帝先輩と同じ立場にある人です。だから雷導様の――次期総帥の命令だって言えば、学級委員に出てきてもらえるかもしれません」
「あー、なるほど。そういう事か」
英司はにやっと笑った。
「つまり俺が次期総帥の命令を受けた魔法使いで、雷導様の命でこの状況をなんとかしろって言われたことにして、学級委員を呼び出せばいいわけか」
「はい。うまくいくかはわかりませんが」
茉理は英司に作戦が上手く伝わったことにほっとする。
「あとこれも使えるかもしれないです」
そう言って、茉理は自分が『後野藤子』という人間に間違えられていること、どうやら『後野藤子』は雷導にひどい苛めを受けていたらしいことを話す。
「たぶんわたしの勘では、この藤子さんって1学期のわたしと帝先輩の関係と似たようなものだったんじゃないでしょうか。だったら雷導様は、藤子さんが自分から逃げ出すことは絶対に許さないだろうし、むしろ連れ戻してこいって命令するんじゃないかと思うんです」
「なるほど。じゃ、俺は雷導様に命じられて君を捕まえに来たってことにしたらいいのかな」
英司の言葉に、茉理はうなずいた。
「多分それで大丈夫です。あとわたしと一緒にお茶飲んでいた人、覚えてますか」
「洋子って人だっけ? 門の所で君を誘導していった彼女のことだろ」
「あの人に聞いたらどうでしょう。実は姓が遠野で、第五の分家直系だって言ってました。雷導様に近い存在だと思います」
茉理は雷導がもし来ても自分が何とかすると言っていた洋子を思い浮かべて、確信する。
多分彼女は色々知っている気がした。
「遠野だって? じゃあ間違いなく第五の分家筋か。くそっ、直樹先輩ならもっと色々知ってるんだろうけどなあ」
俺じゃあんまりくわしくないし、と英司はぼやく。
「あー、小型PCがあればなあ。まさかこんな事になるとは思わなかったから、教室に置いてきちゃったよ。あれがあれば、どんな時空からでも先輩たちと通信できたのに」
「小型PCって、そんな便利な物があるんですね」
「うん。前、後野さん、帝と一緒にユーフォリアに飛ばされただろう? あの時帝はPCを携帯してて、俺達と通信が出来たんだ」
(そういえば、あの時連絡できたって言ってたな)
茉理は1学期のおぼろげな帝との会話を思い出す。
「俺って肝心な時に抜けるんだよ。あーあ、直樹先輩にいついかなるときも携帯しとけって言われてたのに」
これは現実に帰ったら、相当説教されそうだと英司はぼやく。
茉理はふと現実世界の帝たちのことを想った。
(帝先輩、大丈夫かな)
もうどのくらい時間が経ったのだろう。
このミニチュア街ではずっと空は青いままだし、時間の感覚がほとんどない。
「今何時なんでしょうね。腕時計とか持ってくれば良かったな」
茉理が何気なく言った一言に、英司の顔が曇った。
「俺達がここに吸い込まれたのが11時過ぎだったから、今はたぶん2時ぐらいだよ、昼の」
「わかるんですか」
「俺、風系統の魔法を使うんだけどさ。風は極めれば時を渡ることも可能。時間とか空間とか、そういったものも魔法で操ったりするから、自分の中の体内時計が今何時ぐらいなのか大体把握出来るんだ」
「体内時計?」
聞き慣れない言葉に、茉理は首をかしげる。
英司は苦笑すると、優しく説明した。
「人間と世界の時には仕組みがあってね。世界に流れる時間の他に、人間には体内に流れる時間というものが存在するんだ。今までの魔法の研究でわかったことなんだけど」
「うーん、よくわからないんですけど」
「通常、俺達の生きている世界と、そこで生活する俺達の中の体内時計はぴったり合っている。世界の時が一年過ぎたら、俺達も一年歳を取る。それはわかるだろう?」
「はい」
「でも魔法というものは、この仕組みに干渉出来る。一番説明しやすいのは、タイムスリップかな」
「タイムスリップ?」
「過去に行く魔法だ。後野さんも一回、俺と一緒に過去に行ったことあるだろう」
「あ、はい。そうでしたね」
茉理はうなずいた。
以前、学校の図書室に可哀想な精霊がいるのを発見したことがある。
その精霊の少女は過去に出会った少年に恋をしていて、ずっと彼を想い続けていたのだ。
でもその時少年だった彼はすでに鬼籍に入っていて、そのままでは会うことは出来ない。
紆余曲折あったが、力尽きて消えようとしている精霊の少女を過去に送り、臨終直前の彼に会わせてあげることが出来た。
その時、英司が時を渡る魔法を使って、自分と一緒に茉理と精霊の少女を過去に送ってくれたのだ。
そして最愛の恋人たちが再会しあうのを見届けることが出来た。
「あの時俺達は、俺達の世界よりも過去に飛んだ。で、質問するけど、過去に飛んだ俺達ってその時、過去に飛んだ分、若くなったりしてたかな?」
「してません」
「だろう。世界の時間は過去になっても、俺達自身は別に歳は変わらなかった。つまり世界に流れる時間と俺達の中に流れる時間、これはイコールじゃない。それぞれ別個にきちんと時が過ぎていく」
「なるほど」
「俺が時々帝や直樹先輩に頼まれて、過去に飛んで物事を確認したりするんだけど、その時も別に過去に飛んだからって俺自身がまた若返るなんてことはありえない。それどころか過去の世界には、その時間軸を生きている幼い頃の俺自身が存在する。絶対に過去の自分との接触はタブーだ。こっそり姿を見るぐらいは許されるけど、未来の結果を変えるために直接その世界に住む人間と接触することは許されない」
「許されないって、もし接触しちゃったらどうなるんですか」
茉理の質問に、英司は辛そうな表情で答えた。
「姿を見られたその瞬間、消滅する。文字通り俺自身の存在そのものが消えるんだ」
過去の自分には絶対に気付かれないように、とつぶやき、英司は言葉を止める。
何故かそれ以上は言葉に出来ない、そんな苦しそうな顔の彼に、茉理は何も言えなくなった。
きっとこの件に関して、何か辛い思い出でもあるのだろう。
「何となくですけど、わかりました。つまり世界に関係なく、わたしたちの中にはそれぞれ固有の時間がきちんと流れている。どんなに世界が変わろうとも、体内ではわたしたちの世界と同じ時間がきちんと過ぎていく。その時間を計るから体内時計って言うんですね」
「そういうことだね。あと異世界とか別次元とか、俺達の過去に過ごした世界とまったく接点のない世界に行った場合、その世界に流れる時間と俺達の体内時計が同調することがあるよ。その場合、その世界はたとえ異世界でも俺達自身の生活空間になり、俺達の生きる世界として認識される。その世界で過ごした時間は、確実に俺達の過去として記録され、消えることはない」
「うーん、難しいですね」
茉理は何がなにやら頭がこんぐらがりそうになる。
いきなり沢山の魔法に関する知識が入ってきて、思考が消化不良になりそうだ。
そんな彼女の様子を見て、英司は軽く笑う。
「大丈夫だよ。いつか本当に時間のトラブルとかに巻き込まれた時に覚えておけばよいぐらいの知識だし。実際の日常生活で、そんな困った事態になることはそうないから」
「とは言っても、実際今困ってますよ」
茉理は大きなため息をついた。
今だって立派に時間に関するトラブルだ。
「わたしたち、帰れるんでしょうか」
「正直断定は出来ないよ。でもね、多分大丈夫だ」
英司はきっぱりと言いきる。
「今回、俺と君がこちら側に飛ばされたことで、どうしたってクリスティ一族が動く。帝が俺達を見捨てることはないし、直樹先輩という歩く知識辞典のような人だっているし、雅人先輩だっているしね」
「それはそうかもしれません。けど」
茉理は心の中の不安を口にした。
「60年前だって、その当時活躍していたクリスティ一族はいたはずです。でもその人たちには解決出来なかったってことになりますよね。この状況は」
「そうとも言いきれないよ」
英司は少しだけ遠い目をした。
「本家がどれだけ本気を出すかは、その時の当主や跡取りの采配にかかっている。彼らがこの問題を絶対に解決すべしと判断したら、それこそどんな手を使ってもやり遂げるさ。でも60年前の総帥や跡取りである雷導様がやる気を出したかどうかはわからない」
「つまり見捨てるって選択をしたということですか」
「可能性としてはありだと思う。学園や理事たちに問題解決は丸投げし、本家は別に動かなかったかもしれない。だからいつまでもこのままで、時が経ってしまったんじゃないかな」
「人がこんなに消えたというのに、それってひどくないですか」
茉理は声に少しだけ非難の想いを込めて言う。
英司はあきらめに似た笑みを浮かべた。
「そうだね。ひどいことだよ。でも当時の雷導様たちは何もしなかったかもしれないけど、帝は違う。彼は俺達を絶対に見捨てたりしない。もちろん直樹先輩や雅人先輩、斎だって同じだ」
英司の目は、茉理を真っ直ぐに見る。
「後野さんは信じられない? 帝の事」
「いいえ、そんなことはありません」
「だったら不安だけど、ちゃんと前を向いて、今俺達に出来ることをしよう」
彼女を元気付けようと、英司はわざと明るい声を出す。
そんな彼の気遣いに茉理はようやく笑みを浮かべ、はいと肯定の返事をした。




