第九話 鎮《しずめ》
次の日も、夢美は朝早くから神社へと来ていた。相変わらず神社は、夢美を睨みつけている。威圧感と昨日からの筋肉痛で、夢美の身体は軋む。踵はローファーと擦れ合い、靴擦れを起こしていた。体の痛みを堪え、夢美は石段を登っていく。
日が昇り切る前の神社は薄暗く、微かに霧がかっていた。嫌に冷えた湿気が、夢美の露わになった脛にまとわりつく。冷気にかじかむ指を絡ませ、夢美は林道を歩いた。真昼の暑さこそないが、冷えた汗が夢美の背中に浮かび上がる。冷気は池までの道へと漂う。風に揺れる笹の音も、鳩の鳴き声も、全てが夢美の耳を打ち鳴らす。無意識のうちに早歩きになり、夢美は林道を抜けていく。
日の出の光が降り注ぎ、池の水面が白く反射していた。鹿おどしの音が林の奥へと反響する。夢美は恐る恐る水際まで近づく。木々の隙間から吹く風が、さざ波を立てた。夢美は辺りを見渡す。昨日の少年はいない。少年はおろか、今日のうちに人が通った跡はなかった。夢美の足跡だけが、砂利道に残っている。夢美は池に浮かぶ水草を見ていた。水面が波立ち、浮かぶ水草が水際に集まる。まるで何かを避けるように。池を泳ぐ、巨大な黒い影。夢美は影がこちらを見ているように感じられた。影が水面に浮き上がり、岩肌のようなものが見える。緑色の苔の塊が、岩肌と一緒に動いている。水面の中にある二つの黄色い目玉が、夢美をとらえる。明らかに人間のものではない、二つの目玉。身体を射抜くような恐怖に、夢美は後ろにのけ反った。そのはずみで、夢美は濡れた岩に足を滑らせる。よろけた夢美は、そのまま池の中へと落ちていった。視界が濁り、夢美は手足をばたつかせる。だが、まとわりつく水草が、夢美を水底へと引きずりこもうとした。池は底が見えず、どこまでも夢美を沈めていく。息が苦しくなり、夢美の抵抗する力も抜けていく。木漏れ日の光が遠くなり、夢美はだらりと手足を垂らす。遠のく意識の中、夢美は追憶の波に流されていた。小さい頃、夢美は同じ感覚に襲われた事がある。小さな身体を縛り付ける水草。初めて吸い込んだ水の匂い。息をしようとしても、水が肺を満たすだけだった。夢美の視界に、巨大な影がよぎる。黄色い二つ目が、夢美を静かに見ていた。夢美は本能的に、死の影がそこまで近づいていると感じ取る。夢美の意識が途切れるのを待つように、影は夢美の周囲を悠々と泳いでいた。呼吸を許さない苦しみに、夢美は意識を手放そうとする。何も感じる必要のない、真っ暗な世界へと身を投じるように、夢美は目を閉じた。
温かい陽気に当てられ、夢美は目を開ける。まだ、視界は朧げで、緑の波がぐらついていた。夢美しきりに目を擦る。胸に違和感を感じ、夢美は立て続けに咳き込んだ。咳に混じり、夢美は池の水を吐き出す。肺が縮むような感覚に襲われ、夢美は胸を押さえた。震える手を押さえるように、夢美は肩を抱き寄せる。夢美はふと、自分に何かが被せられていることに気づいた。明らかに自分のものではない、浅葱色の甚平。微かに檜の匂いがする甚平を、夢美は不思議そうにまじまじと見ていた。乾いた甚平が被せられた夢美のワイシャツは、濡れて皮膚に吸い付いている。スカートからも水が垂れ、夢美の足元には水溜まりができていた。甚平の檜の匂いに、夢美は我に返る。視界が鮮明になり、目の前には池が広がった。何事もなかったかのように、波一つ立っていない。夢だったのだろうか? だが、夢美の身体は確かに水に濡れ、見知らぬ甚平がかけられていた。半身を起こしたまま、夢美は深呼吸をし、動悸を抑えようとする。
カランカランと下駄の音が聞こえてくる。濡れた土を踏み締め、下駄の音は夢美へと近づいてきた。聞き覚えのある音に、夢美は思わず振り向く。
「起きたか」
そこには赤毛の少年がいた。濡れた髪を掻き分け、帯を結んでいない白い小袖を羽織っている。小袖はびしょ濡れで、端から水が垂れていた。膝まで捲し上げた藍色の袴も、水に濡れて紺色に染まっている。少年は夢美の側に座り、袖の端を絞った。薄く濁った雫が垂れる。
「あなたが……助けてくれたの?」
「俺じゃない。俺は岸にいたお前を運んだだけだ」
夢美の問いに無愛想に答える少年。言葉とは裏腹に、少年は夢美の震える身体に甚平をしっかりと被せる。少年は腰に巻いたタオルを解き、夢美の髪を拭く。力加減がなく、乱暴ではあるが、その手は温かみがあった。髪を拭き終わると、顔や手、服から露わになっている部分を拭く。目や鼻に当たらないように、少年が最小限の加減をしようとしていると、夢美は感じ取る。ひとしきり拭き終わると、少年はタオルを力一杯絞る。
「なんでまた来た。来んなって言っただろう」
「ごめん。どうしてかは分からないけど、また行きたいって思ったの」
うんざりしたような口調の少年。夢美はもごもご口を動かしながら理由を説明した。自分でもなぜ、ここに惹かれたのかは分からない。ただ、またこの少年に会いたい。そう思ったのだ。
「この着物、あなたが着せてくれたんだよね? ありがとう……ええと……」
「……鎮」
「……?」
小さく答える少年に、夢美は戸惑う。困ったように眉を下げる夢美を見て、少年はバツが悪そうに視線を逸らす。
「俺の名前だ」
「あ……ありがとう。鎮」
名前を呼ばれ、鎮は恥ずかしそうにそっぽを向く。あまり名前を呼ばれ慣れていないのか、鎮は頬を赤らめた。鎮は立ち上がり、夢美から離れた岩場に座る。
「礼ならこいつに言いな。こいつがお前を助けてくれたんだ」
鎮はぶっきらぼうに池を指差す。池から顔を出すその正体を見て、夢美はひっくり返りそうになった。身体中を覆う岩肌のような皮膚。鋭い牙が生え揃った大きな口。長い年月で身体中に絡みついた水草や苔。夢美の目の前いたのは、巨大な鰐だったのだ。




