第十話 鰐丸
鰐は静かに夢美を見ている。黄色の瞳の中にある細い瞳孔で、小さな少女を捉えていた。鰐は口を開くことも、夢美に襲い掛かることもしない。ただ、瞬膜を瞬かせているだけだ。水中では不気味に浮かんでいた目玉だが、夢美は不思議とこの目が怖くなくなっていた。鎮は鰐の頭の裏を躊躇うことなく掻く。鰐は気持ち良さそうに目を細め、クルルと小さく唸った。鰐を撫でている間は、険しい鎮の表情が心なしか柔らかになる。まるでペットのように、鎮は鰐を撫でていた。鰐も鎮の手から体温を感じ取ると、慣れ親しんだ手つきに頭を委ねる。
「噛み付いたりしないの?」
「するもんか、俺の家族だぞ」
鎮は幾分が穏やかな声色で夢美に返答する。昨日の張り詰めていた彼とは大違いだ。今の鎮はただの少年のように、鰐と楽しげに戯れている。どちらが彼の本当の姿なのか、夢美は二つの彼を頭に思い浮かべていた。
「お前も撫でてみろ。噛んだりしねぇから」
鎮は夢美の手を取り、鰐の頭に当てる。日に焼けた力強い手に握られ、夢美は目を見開いた。鰐は夢美の匂いを嗅ぎ取り、頭に当てられた夢美の体温を感じ取る。自分の体温と同じくらい冷たい手の感触に、鰐は目を見開いた。夢美はびくつき、手を引っ込めようとする。
「怖がるな。大丈夫だ」
鎮は両手で優しく夢美の手を握る。夢美は恐る恐る、鰐の頭を撫でた。ひんやりと硬い鱗の感触が、手のひらに広がる。鰐は目を閉じ、馴染みのない手の感触に浸った。撫でる度に、夢美の恐怖心も次第に薄れていく。
「あなたがこの鰐の飼い主なの?」
「そいつはペットじゃねぇ、俺の家族だ。鰐丸は卵の時から俺が育てたんだよ」
飼い主と言われた事に、鎮は少し憤慨する。鰐丸はきょとんとした表情で、鎮を見ていた。言葉こそ理解はできていないが、まるで育ての親の感情を読み取っているようだ。心配そうに鼻先を当てる鰐丸。鎮は鰐丸を安心させるように、鼻先を撫でた。巨大な鰐丸の顎は、開けばたちまち鎮を飲み込んでしまいそうだ。
「村の連中はこいつを見て龍神だとか言ってるが、こいつはただの鰐だ。俺もこいつも静かに暮らしてるだけなんだよ」
鎮は悲しげに呟く。その横顔は、年相応の少年の顔に、一抹の寂しさがよぎっていた。なんとかしたい。だが、夢美はよそ者だ。忠治に叩きつけられた言葉が、胸を締め付ける。きっとこの少年は、ずっと鰐と一緒に暮らし続けるのだろう。人の立ち寄らない山の奥で。
「……ねぇ、またここに来てもいい?」
夢美の言葉に、鎮は思わず目を見開く。どう答えたらいいのか分からないのか、唇が震え、目元の端を痙攣させていた。鰐丸も鎮の側を離れようとしない。
「なっ…………ふ、ふざけるなよ! ここは俺達の場所だ!」
「私も静かな所にいたいの。だから……お願い……!」
鎮は声を荒げるが、夢美も引き下がりはしなかった。互いの声が、木々を震わせる。身を包む寒さも忘れ、夢美は胸から込み上げる熱さを吐き出した。胸がズキリと痛み、胸元を鷲掴みする。燻る熱は夢美に目眩を覚えさせる。弱々しくも立ち上がる夢美に鎮はしばらく目が離せなかった。鰐丸もじっと夢美を見ている。
「…………勝手にしろ」
とうとう鎮は根負けし、大きなため息をついた。口は悪いが、昨日のような刺々しさは消えている。夢美は鎮の返答に驚く。
「本当にいいの?」
「また池に落ちたりしなければな。風邪ひかれたら困るから」
鎮は鰐丸から手を離し、林の中へと向かって行く。無言で立ち去る鎮に寄り添うように、下駄の音が響いていた。
「ありがとう、鎮」
夢美の言葉に、鎮は足を少しばかり止める。振り向くこともせず、鎮は林の中へと消えていった。鰐丸も夢美を見たまま、池の中へと潜る。夢美はしばらく、ぼんやりと空を見ていた。ふと、夢美は自分を温めている物に気づく。それは鎮が残した、浅葱色の甚平だった。夢美は慌てて鎮を追いかけようとするが、彼の姿はない。彼の面影は甚平を残して、林の中に消えてしまっていた。
夢美が千代の家に帰ってきたのは、昼過ぎの頃であった。濡れてすっかり冷え切った夢美を見るなり、千代はすぐさま風呂に入れさせる。火照る半身を湯船から出して、夢美はぼんやりと考えていた。鎮。あの不思議な雰囲気の少年には、初めて会った気がしないのだ。昨日ではない、ずっと前に、夢美は彼に会っていた気がした。波立つ湯船。神社の池とは違い、透き通っている湯。池で冷え切った身体が温かくなるまで、夢美は風呂で物思いにふけていた。
風呂を出ると、疲れが一気に押し寄せ、夢美は布団の上で寝転がる。昼下がりの微睡みが、夢美の瞼を重くさせた。眠りにつこうとする夢美。そこへ、千代が入ってきた。千代は心配そうに、夢美の額に手を当てる。
「こんなにおでこが冷たくて、何処かで水ん中落ちたんけ?」
「ごめんなさい、池に落ちちゃったの」
「池っつうたら、神流神社の池かい?」
千代は少し怪訝な顔をする。夢美のために持ってきた一房のバナナを、側の棚に置いた。
「おばあちゃん、あの神社の池を知っているの?」
「あすこは龍神様がいる池だんべ。危ないって言ったがな」
千代の声が震える。黙って神社に行ったことに、夢美は申し訳なさそうにした。自分の祖母にこんな顔はさせたくない。夢美はそんな気持ちでいっぱいだった。
「私、あそこで男の子に会ったの」
「男の子……?」
千代は口元を押さえる。信じられないと言いたげな表情だ。
「赤毛の子でね。おばあちゃん何か知ってる?」
「た、多分人間に化けた池の神様だんべ。ほら、そっだら事よりバナナ食べな」
少年の話をした途端、千代ははぐらかし、そそくさと階段を降りて行く。一人残された夢美はしばらくきょとんとしていた。明らかに千代は動揺していた。八重子もそうだ。どうしてみんな、あの神社の話をしたがらないのだろう。夢美はバナナを口にした。甘ったるい食感が、喉を通り抜けて行く。だが、神社や鎮への疑問が積もるように、バナナはべったりと喉に張り付いていた。




