第八話 龍神の池
獣道を登り、しばらくすると視界が開け、一気に明るくなった。木漏れ日が差し込み、煌めく水面が見えてくる。獣道を抜けた先には、大きな池が広がっていた。蝉の騒々しい鳴き声が、夢美の耳を震わせる。時折池に落ちる朝露の音が、夢美の火照った頬を冷やした。夢美はただぼんやりと、池を見つめている。苔に覆われた池は、池というより平原だ。誰が作ったのかすら分からなくなった鹿威しが、湧水を延々と池へ運んでいく。小山を登り、息も絶え絶えの夢美は、しばしこの池の冷気に酔いしれていた。人の手から遠ざけられた、どこか畏怖さえも感じられる池。だが、苔の隙間から覗く水面からは、手招きされているようだった。まるでこの池には、誰にも暴かれずに眠る財宝が煌めくように。揺らぐ水面は、夢美の好奇心を駆り立てた。無意識のうちに、夢美は池の方に手を伸ばす。
「おい、お前。そこで何してる」
鋭い声が夢美を突き刺した。途端に夢美の意識は引き戻される。夢美が振り返ると、奇妙な出立ちの少年がいた。背丈は少し高いが、忠治と同じくらいの歳の少年のようだ。だが、夢美にはその少年が人とは思えなかった。この山奥、それも人っ子一人遊びに来ないような池に、男の子が来るはずがない。得体の知れない悪寒が走り、夢美は後ずさる。
「何してるって聞いてんだ。勝手に人ん家の池に入って来やがって」
少年は黙っている侵入者に、さらに強い口調で詰め寄る。履いている下駄を不機嫌そうに鳴らす少年。村の子供達とは違う、訛りのないはっきりとした言葉遣いだ。顔も精悍な顔立ちで、どこか大人びていた。少年の赤毛は、木々の中で燃えるようになびく。何か話さないと酷い目に遭わされる。夢美の唇が言葉にならない声で震えた。
「あ......あなたは?」
辛うじて聞こえるような声を出す夢美。弱々しく答える招かれざる客に、少年は眉ひとつ動かさない。ただ、吸い込まれるような翡翠色の瞳で、少年は夢美を睨んでいた。
「俺はこの池の持ち主だ。お前こそ誰だ? この村の連中じゃないだろ」
赤毛の少年は畳み掛けるように夢美を責め立てる。夢美は胃を掴まれた様な感覚に襲われた。池の波音も、蝉の声も、全ての音が一斉に夢美の耳を刺す。
「わ……私は……宇津保 夢美」
「夢美......?」
赤毛の少年はしばらく夢美を見ている。翡翠色の鋭い眼が、少し揺れていた。険しい顔つきが綻ぶのを、夢美は見逃さない。少年は目を疑うように、何度か瞬きをしていた。
「ね……ねぇ、この神社はあなたの物なの? 龍神の祟りがどうとかって聞いたけど、あれは本当なの?」
「また、龍神の話か……。…………帰れ」
疑問が尽きない夢美に、少年はそれ以上話そうとしない。下駄を鳴らし、少年は林の奥へと立ち去ろうとする。
「待って! あなたは誰なの? どうしてここにいるの?」
「帰れって言ってんだ。もう二度と来るな」
静かだが、強い口調で少年は夢美に告げる。夢美も張り裂けそうな胸を押さえ、ありったけの声を出す。下駄を履いたまま、少年は飛び上がり、茂みの中へと消えて行った。夢美は呆気に取られ、池の目の前でぼんやりと佇む。林の奥には、まだ少年の赤毛の残光があった。風が止み、静かになった池。だが、池は相変わらず手招きしている。夢美はそんな感覚に襲われた。まだ水底には二つ目の何かが潜んでいる。そんな気がしたのだ。
山を降り、夢美が畔道を歩く頃には、日は真上まで来ていた。陽炎を伴う暑さに、夢美は顔を歪める。陽炎に混じり、神社の少年が夢美の頭に浮かぶ。赤毛に翡翠色の瞳と、人間離れした容貌だった。だが、同時に憂いを帯びた表情は、明らかに人間のものだ。帰路に着く中、夢美はあの少年のことだけを考えていた。
「ただいま。おばあちゃん」
玄関から聞こえる夢美の声に、千代はすぐさま小走りでやってきた。千代はエプロンの端で、夢美の頰に浮かぶ汗を拭う。夢美は疲れ切った顔で、千代に笑いかけた。千代の瞳は心配に潤んでいる。
「夢美ちゃん! よかった、身体はどこも悪くないかぇ?」
「うん、大丈夫だよ」
千代はしきりに夢美の額に手を当てる。青白い夢美の額はひどく冷たく、千代の温かい手に触れられ、夢美は少々肩をびくつかせた。千代は両手で夢美の肩を掴み、椅子へと座らせた。室内の扇風機に当たり、夢美の呼吸は少々落ち着く。
「ねぇ、おばあちゃん。おばあちゃんって、神流神社の事って何か知ってる?」
突然の夢美の言葉に、千代は目を丸くした。眉をハの字にし、困ったような顔をする。しばらく黙り込んだ後、千代はゆっくりと口を開いた。
「あすこはな、昔は龍神様を祀っていた神社だべな。代々神主の一族があの辺に暮らしてたんだが、今はもうやってねぇだべよ」
「誰もいないの?」
神社の話題に食いつく夢美に、千代の眉間に気難しそうな皺ができた。答えに困り、言葉を紡がず呼吸だけがしばらく漏れる。
「最後の神主には子供がいたんだべが、みいんな東京さ行っちまったかんな。誰も来ねぇはずだんべ」
千代の答えに、夢美は残念そうに俯く。誰もいないはずの神社。自分が見たのは幻なのだろうか? だが、夢美の耳にははっきりと、少年の下駄の音が鳴り響いていた。
「あすこは危ないから、近づかねぇ方がいいだんべよ」
「……うん」
千代の警告に、夢美は乾いた返答をする。千代の言葉と、少年の言葉が重なっていた。確かめないと。もう一度あの神社に行って、真実を確かめなければ、自分はこの夏、村に馴染めずに終わってしまう。そんな気がしたのだ。夢美の脳裏には、赤毛を靡かせる少年の哀しげな後ろ姿が浮かんでいた。




