第七話 神流神社
次の日、朝日が昇りきらないうちに、夢美は身支度をしていた。白い長袖のワイシャツを羽織り、深緑色のチェック柄のスカートを履く。櫛で髪を手早くとかし、夢美は階段を降りて行った。キッチンでは畑仕事帰りの千代が、朝ごはんを作っている。炊き立ての米の匂いが、夢美の鼻をくすぐった。夢美の足音を聞きつけ、千代はゆっくりと顔を上げる。
「夢美ちゃん、どうしたんだべ? その格好」
「おばあちゃん、私、ちょっと外に遊びに行きたいの」
夢美の発言に、千代は作りかけのおにぎりを落としそうになる。眠たげだった重い瞼が持ち上がった。ワイシャツに身体が包まれてしまいそうなほど華奢な夢美を見て、千代の瞼の端が痙攣する。
「だいじけぇ? だって……夢美ちゃん……」
「大丈夫。用が済んだらすぐに戻るから」
夢美はあまり使っていなかった頰の筋肉を震わせ、千代に笑いかける。千代はしばらく心配そうに夢美を見ていたが、やがて諦めたように大きく息を吸い込んだ。手にこびりついた米を、千代は流しで洗う。
「…………分かったんべ。だども、暗くなる前には帰るんだべよ」
千代の声は僅かに震えている。まだ濡れている手で、千代はおにぎりを握り始めた。節くれだった筋張った手で、おにぎりを握る。水分を含んで艶がかった米の表面に、粉雪のような塩がかかった。二つのおむすびを、千代はラップに包む。おむすびを紫色の風呂敷に包み、千代は夢美におにぎりを渡した。
「お腹が空いたら、これ食べな。この村の田んぼで採れた、美味しいお米だかんね」
「うん。ありがとう、おばあちゃん」
夢美はおにぎりが入った風呂敷を持ち、土間でローファーを履く。戸を開けようとする夢美を、千代は心配そうに見つめていた。夢美は千代に笑いかけると、日の光が降り注ぎ始める外へと歩いて行く。千代は夢美の姿が見えなくなるまで、両手でしゃもじを握りしめていた。
朝日が覗き始め、田畑に光がかかっていた。夢美はたった一人で、畔道を歩いている。時折、畑には農耕用のトラクターが、土を掘り進めていた。朝露を含み、湿り気を帯びた土の匂いが夢美の鼻に運ばれてくる。一人歩く夢美を、物珍しそうに見る者もいた。夢美は追憶を頼りに、畔道を進んで行く。静寂に包まれた村に、夢美の乾いた靴音だけが響いた。
珍竹林の暖簾は仕舞われ、戸口は締め切られていた。夢美は昨日の出来事を思い出しながら、駄菓子屋を通り抜ける。駄菓子屋にいた忠治の顔を思い出すと、夢美は少々胸が痛くなった。珍竹林裏の竹藪が風に揺れ、早朝の静けさの中、草のざわめきだけが聞こえる。夢美は駄菓子屋を過ぎ、更に畔道を進んだ。畔道を抜け、村の中心部まで歩き続ける。細いコンクリートの道に、商店や診療所、駐在所が立ち並んでいた。夢美は記憶を手繰り寄せ、次の目的地を探す。
学校に差し掛かる頃には、夢美は少々息が上がっていた。鉄製の校門は閉ざされ、校舎は異常なほどの静けさに包まれている。校庭には、生徒達のやんちゃな足跡だけが残っていた。夢美は深呼吸をし、自分を落ち着かせる。筋肉痛に足が軋み、残暑に皮膚が燻っていた。だが、夢美の燻りはそれだけではない。脳裏に鮮明に浮かぶ赤い門。強烈な門への誘惑が、夢美の歩く足を急かせた。胸を押さえながら、夢美は小走りで門へと向かう。
日が完全に昇り、鶏の声が何処かからけたたましく響く頃、夢美はあの門の前にいた。煤けた朱色の門は、夢美を睨むようにそこに佇む。門の看板には、一部が欠けた文字で“神流神社"と書いてあった。金色の文字は木陰に覆われ、不気味にギラつく。門の側には、枝に隠れた一対の朽ちた狛犬が夢美を睨みつけていた。まるで、他所者を追い返すように。
門の奥には細く長い階段がある。門の前に差し掛かると、冷たい風が夢美に吹きつけてきた。夢美は暗闇でも鮮やかな朱色に身震いするも、一歩ずつ足を進める。狛犬達のギョロリとした目が、夢美をいつまでも追っているような気がした。石造りの階段を、夢美はつま先で探りながら登る。夢美が階段を登れば登るほど、山を覆う緑が深くなっていった。
石段を昇り終え、夢美の身体は徐々に火照る。手で仰ぎながら、夢美は小刻みに息をした。立派な朱色の本殿が、圧倒するように佇んでいた。所々金の装飾が剥がれ、柱も傷んでいる。夢美は恐る恐る本殿を覗き込む。中は祭具なども置かれておらず、もぬけの殻だ。だが、床の埃が足跡を残してくっきり残っていた。伽藍堂になった本殿の奥には、山の奥へと続く獣道が見える。草が掻き分けられており、つい最近まで何かがいたようだ。夢美は思わず、獣道の方へと向かう。
獣道は林に囲まれ、虫達が忙しなく飛び交っていた。微かに水の流れる音が、獣道の奥から聞こえてくる。冷気は更に濃くなり、湿った匂いが吹きつけてきた。夢美は意を決し、草を掻き分ける。白い肌は草負けをし、所々赤い線が引かれた。虫を振り払いながら、夢美は獣道の奥へと進んでいく。生い茂る木々が、日の光を隠す。まるで、夢美を永久に山の中へと閉じ込めるように。




