第二十五話 夏の終わり
夢美がその日、千代の元に帰る頃には、すっかり空は暗くなっていた。夢美が神流村に来て数週間が経ち、夏休みも終わりに差し掛かっている。夜の暑さも涼しさに変わり、蝉の声も小さくなっていた。夢美が戸口を開けると、震える手で電報を握り締めている。その目は僅かに涙ぐんでいた。千代は帰って来た夢美を見ると、めいっぱい抱きしめる。煮物の匂いがするエプロンから察するに、晩御飯の準備をしていた最中なのだろう。くぐもった嗚咽が、千代の口から漏れた。
「夢美ちゃん、東京のお父さんとお母さんからの連絡でね、夢美ちゃん手術しに東京に帰らなきゃいけないんだべ」
突然言い渡された話に、夢美は頭を殴られたような衝撃を受けた。千代が握り締める黄土色の紙の電報は、濡れてくしゃくしゃになっている。夢美は恐る恐る、千代から電報を受け取った。
『クガツツイタチ、シンゾウノシュジュツアリ。カエッテキナサイ ウツホ タカアキ・ヒロミ』
淡々とした文体。末尾に書かれた両親の名前。手術があるという残酷な宣告。全てが夢美を打ちのめした。せっかくできた居場所を、離れなければいけないのだ。元より決まっていたことだったが、夢美は真っ直ぐに受け止める事ができなかった。手術が成功するかも分からない。もうここに帰って来ることも無いかもしれないのだ。夢美は涙で電報を濡らす。全身の力が抜け、その場にへたり込んでいた。千代はそんな夢美にそっとハンカチを渡す。祖母の家の香りがするハンカチを、夢美は爪を立てて握りしめた。その場にうずくまり、夢美は声にならない声を出すことしかできない。
千代は夢美を居間の座布団に座らせ、塩おにぎりを持って来た。夢美はおにぎりをゆっくり口に運ぶ。ひどく小さい一口を、夢美は噛み締めた。家の香りが詰まったおにぎりに、夢美は涙を溜める。千代は湯気の立つ肉じゃがも夢美の前に置いた。
「無理して食べんでもいいからね、夢美ちゃん」
千代は夢美の髪を優しく撫でる。夢美の目元に溜まった涙で、料理が酷くぼやけて見えた。朧げな視界で、せめて味だけは噛み締めようと、夢美は次々と料理を口に頬張る。優しい塩気が、夢美の口の中に広がった。何時間も煮込み、ドロっと溶けたじゃがいもが、喉に流れ込んでくる。まだこの村にいたいという気持ちとは裏腹に、夢美の空腹はどんどん増していった。次々に口に運ぶにつれ、涙が料理に混じっていく。ひどく塩辛くなった料理に、夢美の喉の渇きは収まらなくなっていった。
布団を包むように纏っても、夢美はその晩、寝付けなかった。何度寝返りを打っても、豆電気に友達の顔が浮かぶ。目を閉じても、子供達の面影は消えなかった。枕を抱えるように握りしめ、布団に涙が垂れる。また、この蚊帳に包まれたような世界に戻ってしまうのだ。少し開いた押し入れの隙間から、キャリーケースが覗き見える。夢美にとってはあれほど使っていた物であるはずなのに、空っぽの中身を覗かせる様子はひどく不気味だった。夢美は手を伸ばし、豆電気の中の友達を掴もうとする。だが、その面影は涙で朧げになった。
翌朝、夢美はふらふらと珍竹林へ向かっていた。足取りは重く、胸もキリキリと痛む。この道のりを行くのも最後になるのかもしれないと思うと、夢美は喉を締められるような感覚に陥った。朝露で僅かに湿った畔道を、夢美は行く。
珍竹林の前にたどり着くと、夢美は中へと一歩を踏み出すことができなかった。つま先を突き出そうとすると、指が震える。自分が東京に帰ると言ったら、八重子は、忠治は、耕助は、鎮はどんな顔をするのだろうか。心拍が上がり、夢美は胸を押さえる。
「あ、夢美ちゃん。いらっしゃい!」
暖簾の隙間から耕助が顔を出す。夢美の心中を知らない耕助は、無邪気な笑顔を浮かべ、いつも通り手を振っていた。夢美は耕助に呼びかけられても、しばらく動けないでいる。
「あれ? どうしたの? どっか具合が悪いん?」
「な、何でもないよ」
心配そうに夢美の手を握る耕助。耕助の腕は擦り傷だらけで、所々痣ができていた。耕助はふくよかな手つきで、夢美を中へと誘う。
中には既に八重子と忠治がいた。二人とも昨日の疲労が抜け切っていないのか、窶れた顔をしている。八重子は夢美を見るなり、急に顔を輝かせていた。駄菓子を抱えながら、夢美に向かって仕切りに手を振る。
「夢美ちゃーん! ちょうどよかったぁ! 夢美ちゃんも一緒にお菓子食べよー!」
八重子の呼びかけに、夢美は歩み寄る。八重子は夢美にチョコレートを渡した。忠治も醤油煎餅をバリバリ食べている。忠治は顔中腫れ上がり、頭のてっぺんにはタンコブができていた。頰にはガーゼが貼られており、痛々しい。
「忠治、大丈夫?」
「ジュークにやられただけだべ。大したことねぇよ」
忠治は大きな煎餅の塊を噛み砕く。煎餅を詰めた頰が膨らみ、忠治のガーゼがぺりぺりと剥がれてきた。
「オメェこそ、店番大丈夫だったんかよ?」
「もうカンカンだったよ。尻叩きだけで済んだけどね」
耕助は恥ずかしげにお尻を押さえる。その様子を見て、忠治と八重子はどっと笑い始めた。楽しげに笑う二人を見ると、夢美は東京に帰ることを言い出せずにいる。みんなの笑顔を曇らせたくはない。言葉を飲み込むように、夢美はチョコレートを放り込んだ。
暖簾が丁寧に捲られ、思わぬ客人が来た。譲だ。片足を引きずりながら、譲は子供達を見る。クマができたように、譲の片目には痣がある。仰々しいブレザーは着ておらず、ネクタイの付いたワイシャツ姿だ。テクノカットも軽く流されており、年相応の出立ちになっていた。譲は蜂蜜檸檬のジュースを手に取り、耕助にお金を渡す。缶を勢いよく開け、譲はジュースを飲んだ。
「みんな、昨日はごめん。僕、君達を危険にさらしちゃった」
いつもの尊大な態度はなりを顰め、譲は塩らしくなって頭を下げる。村長の息子としての譲を知っている子供達は、呆然として譲を見ていた。
「なんだよ、オメェらしくねぇな」
「村長に立ち向かった譲君もカッコよかったべな」
耕助に揶揄われ、譲は頬を赤く染める。咳払いをし、譲はいつものように振る舞おうとした。ネクタイを直し、父親がしたように胸を張る。
「と、当然だ! ぼ、僕は村を守る村長になるんだからな」
「……それでこそジュークだべ」
声を張り上げる譲を見て、八重子は満足気に笑う。新たな仲間を加え、子供達はしばらく駄菓子を堪能した。だが、駄菓子の甘さに包まれても、夢美の胸のつかえは取れない。彼は、鎮は来てくれるだろうか。私の喪失を受け入れてくれるだろうか。夢美はみんなの笑顔も、鎮との関係も、壊したくなかった。
その時、慣れない様子で暖簾を払い除ける者がいた。来るはずのないその子供の姿を見て、誰もが息を呑む。誰一人として着ることのない浅葱色の甚平に、藍色の袴。カランコロンと鳴る下駄の音に、夢美の気持ちは爆発しそうになった。
「鎮……」




