第二十三話 思わぬ助っ人
子供達は池の前に出る。こんなにも騒つく森の中でも、池は静かに波を立てていた。山の緑を映し、水底はよく見えない。池の対岸まで、子供達は逃げる。夢美はゼイゼイと息を切らし、激しく咳こんだ。
「大丈夫か? 夢美」
「う……うん」
夢美は胸を押さえながら応える。火照りきった夢美の顔は、池の冷気に晒されて幾分か涼んだ。疲れ知らずの子供達とはいえど、命の危機に疲労がのしかかっていた。鎮の足の裏も擦り切れ、血が滲んでいる。皆、汗でびっしょり濡れ、足には土が纏わり付いていた。
「どうすんだ? 鎮」
「月夜野のおじさんの所に行く。おじさんなら何とかしてくれるはずだ」
「あのおじさん、この山に住んでるの?」
「ここから二十分くらい走ったらおじさんのいる小屋に着くはずだ」
子供達の策を嗤うように、逆月が姿を現した。池の対岸にいる子供達を見つけ、逆月はすぐさま突進する。
「分かったべ。アタシと耕助で行ってくる」
八重子はすぐさま耕助を連れて、池の奥へと伸びる道を走った。その場から動き出した子供達を見た途端、逆月は反射的に追いかける。だが、譲が石を投げつけた。木の枝を拾い、譲は逆月に向かい合う。
「お、おい! この毛むくじゃら! 僕を食べたいんだろ!? だ、だったらこの僕が相手だ!」
へっぴり腰になりながら、譲は太い木の枝を構える。見え透いた虚勢だったが、譲は一歩も退こうとしない。逆月も譲の威勢が偽りだと感じ取っているのか、口元を歪めて舌舐めずりをした。小屋へ向かう二人を無視し、逆月は池に飛び込んで対岸へと猛進する。白い水飛沫をあげ、逆月は鼻から水を垂らしながら、木の枝を持つ譲を見る。譲はじりじりと後ろへ退いた。
「逃げろ! 譲!」
逆月は水中から上半身を露わにし、両腕の爪を振り上げた。雫を飛ばし、黒光りする黒い爪。譲はその場にへたり込み、木の枝を落とした。水面を揺るがすほどの吠え声をあげ、逆月は爪を振り下ろす。
その時、水中から黒い影が現れ、逆月に突進した。巨体がぶつかり、逆月は大きくよろける。影は逆月の背中に食いつき、水の中へ沈めようとした。不意をつかれた逆月だったが、黒い影を振り解こうと爪を振り回す。
「鰐丸……」
黒い影が木漏れ日に照らされ、鰐丸としての姿を露わにした。上半身を水中から出した鰐丸は、逆月と変わらない大きさだ。譲は池に存在しないはずの鰐を見て、口を閉じるのを忘れていた。忠治も初めて目の当たりにする鰐に、目を見開いている。鰐丸は池を荒らした不届き者を懲らしめようと、身を翻し逆月を水面に叩きつけた。だが、逆月もやられてばかりではない。並外れた怪力で鰐丸の巨体を持ち上げ、岸に投げ飛ばした。水草に覆われた鰐丸の体はひっくり返り、柔らかい象牙色の腹を見せる。四つ足をばたつかせ、鰐丸は体勢を戻そうとしていた。露わになった敵の弱点を見過ごすはずもなく、逆月は爪を振り下ろした。その時、竹の枝が逆月の腕に当たる。竹は次々と、逆月の身体を打ちのめした。逆月は苛立たしげに唸り、鰐丸を無視して子供達に走っていく。四人の子供達は各々、竹の枝を持っていた。夢美も両手で枝を祈るように握っている。子供達が投げる竹は、熊の分厚い毛皮に弾かれるばかりだ。それでも逆月は、しつこく抵抗する子供達に苛立ちが募る。口の端に泡を溜め、興奮して涎を吐き散らした。だが、誰一人として子供達は逃げない。池を、鰐丸を守るために、子供達は足を震わせはしても逃げる事はしなかった。
その時、体勢を戻した鰐丸が逆月の足に噛みつき、水中へと引き戻した。まるで子供達を守るように、鰐丸は逆月を岸に上がらせようとはしない。逆月は拘束から逃れようと暴れ狂い、鰐丸の背中を爪で引っ掻いた。鰐丸は痛みのあまり口を開けるも、すぐに逆月に噛みつく。水飛沫をあげて格闘する二匹の姿は、さながら火窩鬼と龍神の伝説のようだ。子供達は水の上で繰り広げられる死闘を、ただ息を呑んで見守ることしかできなかった。
だが、伝説の再来は突如として幕が降ろされた。鈍い発砲音とともに、逆月は低く短い声を上げる。しばらくよろけた後に、逆月は岸に倒れ伏した。舌をだらしなく出して、逆月は虚ろな目を剥いている。鰐丸は突然動かなくなった侵入者に驚き、口を開いて一歩退がった。子供達は恐る恐る逆月に近づこうとする。
「危ないぞ。近づくな」
鋭い声と共に、ジャケット姿の男が林から現れる。男の傍らには、八重子と耕助がいた。男が持っている猟銃の先からは、煙がたなびいている。男は子供達の側に歩み寄った。
「匠おじさん……」
「無事か? ガキども」
月夜野はサングラス越しに、子供達を見た。鎮は月夜野を親しげに呼ぶ。汗ばんだハンチング帽を取り、月夜野は逆月を見た。逆月はだらしなく足を伸ばし、ピクリとも動かない。
「うひゃあっ!? 龍神様!?」
駆け寄って来た耕助が、鰐丸を見て腰を抜かす。鰐丸は騒ぐ子供の声を聞いてもじっと水中から顔を出して見ていた。八重子も祭りで何度も目にしていた龍神の作り物そっくりの鰐丸を見て、一瞬動きが止まる。
「こいつが鰐丸。俺の家族だ」
鰐丸は鎮の手に鼻を寄せる。夢美以外の誰もが腕を食いちぎられると思っていたが、鰐丸は甘えるように鎮の手に鼻を擦り付けた。月夜野はその様子見て安心したようにため息をつくと、ぐったりとしている逆月を担ぎ上げる。細身の月夜野だったが、熊一頭を軽々と背負った。
「さぁ、神社に帰るぞ。ガキども」
月夜野は淡々と告げると、長靴を履いた強靭な足腰で林道へと向かって行く。子供達も月夜野の後を追って行った。鰐丸は心配そうに鎮を見る。
「大丈夫だ、鰐丸。俺行ってくるよ」
夢美は鎮に寄り添い、一緒に鰐丸を撫でた。池の中へと潜っていく鰐丸を見届け、夢美と鎮は月夜野の後を追う。神社に着くまでお互い、手を離そうとはしなかった。




