第二十二話 執拗な追跡者
逆月は太い腕を振り上げ、譲に襲い来る。譲は逃げようとするが、五本の爪がブレザーの端を裂く。千切れたブレザーの切れ端を、逆月は噛み付いて振り回した。数秒遅れていたら、今引き裂かれているのが譲の内臓だったかもしれないと思うと、子供達は戦慄した。子供達は神社へと逃げ出す。だが、狡猾な巨熊は子供達を逃しはしなかった。子供達より圧倒的に速い足で先回りをし、神社の前に立ちはだかった。
「池の方に逃げろ!」
鎮の合図で、子供達は踵を返し、林道の方へと逃げる。だが、耕助は足をもつれさせ、地面に転んでしまった。柔らかそうな子供が逃げ遅れた姿を、逆月は逃しはしない。耕助の腑を引きずり出そうと、逆月は涎が滴る口を開いた。短剣のように鋭い犬歯を見て、耕助は恐怖で動けない。
「耕助!」
忠治がバットで逆月の顔を殴る。逆月は僅かに怯むが、すぐにバットに噛みついた。忠治は耕助の手を取る。茶褐色の目を血走らせ、逆月はバットに何度も噛み付く。バットは噛み砕かれ、木片と化した。ニスで塗られた木の味に顔をしかめ、逆月は無惨にも木片になったバットを吐き出す。低い唸り声をあげ、逆月は自分を殴った憎らしい人間を見た。子供達は散り散りに林道へと逃げて行く。逆月は自分に背を向けて逃げる子供達が目に入ると、口元を歪めた。まるで子供達の浅知恵を嘲笑うように。地面に爪痕を残し、逆月は執拗に子供達を追いかけた。
池への道は、いつもより遠く感じられた。どこまでも林道は続き、木漏れ日さえ届かない。奥へ進めば進むほど、暗闇が深くなっていく。夢美と鎮はお互い見失わないように、手を繋ぎながら走る。後から八重子と譲、耕助を引っ張る忠治が走っていた。子供達の背後を、地面を蹴る音が迫って来る。泡を含んだ涎を垂らしながら、逆月は咆哮を上げた。逆月は忠治目掛けて飛び掛かる。耕助を連れた忠治は、その場に屈んだ。逆月は忠治と耕助を飛び越え、木に激突した。逆月は怒りに身を任せ、木に皮を爪で抉り取る。その隙に忠治と耕助は夢美達に合流した。
「しつけぇぞ、アイツ」
「僕達が騒いだから、きっと怒ってんだべ」
逆月の怒りは収まらず、憎々しげに子供達を見る。一人だけ孤立している、哀れな子供。狙いを定めた途端、逆月は逃げ去るように茂みの中へと消えていった。逆月は身体を揺らし、わざと大きく物音を立てる。
「いなくなった……?」
譲は一瞬足を止めた。黒い影は、その一瞬を逃さない。音もなく譲の後ろへ忍び寄る。
「危ない! 譲!」
鎮の声とともに、逆月が譲の後ろに現れた。逆月の爪は譲の足を捕らえ、牙は靴に食い込んだ。首を振り、逆月は譲をズタズタに引き裂こうとする。
「た、助けてくれーっ!」
恥もプライドも捨てた叫びが、山に木霊する。生へしがみつくように、譲は草を握り締める。逆月は譲の片方靴を引っぺがし、食らいついた。幸い、靴が脱げただけで、譲には傷一つない。だが、鋭い鉤爪が食い込み、譲を離さなかった。逆月は牛革でできた靴を、鋏で紙を切るように噛み裂く。どれだけの値打ちがある物を差し出しても、この熊の前には無用の長物だ。あっという間に靴の原形が残らないほどズタズタになる。譲は這いずって逃げようとするが、爪の食い込みが深くなり、痛みが走った。かすり傷も滅多に作ったことがない譲は、悲痛な声をあげる。普段の虚勢を張った声ではない、等身大の彼の声だ。逆月はそのまま、譲を引き回そうとする。忠治と八重子は譲の手を掴み、引っ張った。逆月も自分に向かって来た子供達にいきり立ち、残った譲の靴に噛み付く。怒りに満ちた牙は靴を貫通し、譲は悲鳴をあげた。
「この悪たれ熊め! こんな奴食っても腹壊すべ!」
熊への恐怖を振り切り、子供達は譲を引っ張った。だが、執念深い逆月も簡単には離さない。三人をもってしても、熊の力に拮抗することすら敵わないのだ。譲の皮膚から血が滲んでいく。
「おい! こっちだ逆月!」
鎮が逆月目掛けて石を投げつける。目元に石が当たり、逆月は鬱陶しげに唸った。だが、彼の分厚い皮膚は石が当たってもびくともしない。鎮はたまりかねて、両足の下駄を脱ぎ、逆月の鼻に投げた。柔らかい鼻に下駄が命中し、逆月はたまりかねて譲を離す。忠治は譲を抱えて、鎮の元へ走った。八重子も運動靴を履き潰して逃げる。鎮は夢美を抱き寄せながら、池の方へと走った。逃げて行く子供達を一人一人目で追うと、逆月は子供の匂いがついた下駄をバラバラに噛み裂いた。怒りは収まらず、逆月は近くの木に五本の爪痕を刻み付ける。次に抉られるのはお前達人間共の肉だ。そう言いたげに。
鎮達は走り続ける。池の光を求めて、暗い森の中を走っていた。譲は裸足のまま、這々の体で子供達に付いて行く。幸い、重症にはなっていなかったが、片足には血が滲んでいた。服もボロボロになり、もはや傲慢な村長の息子の面影はない。
「どうして僕を助けたんだ? そんなに僕が嫌いなら、熊に襲われる僕なんか見捨てればよかったじゃないか」
譲は卑屈に呟く。命の危機に瀕した彼には、もはやプライドや自尊心は消え去っていた。整っていたテクノカットは乱れ、自信に満ちていたはずの目を隠す。
「くだらねぇ事言うな。目の前で熊に喰われるのを、黙って見てられる訳ねぇべよ」
忠治は走ったまま譲を怒鳴る。忠治も先程の譲と、熊との格闘で全身泥だらけになっていた。忠治だけではない、鎮も譲を助ける為に裸足になっている。今まで、玉のような子として囲われていた実、誰にも構われることがなかった譲は、戸惑いが隠しきれなかった。
「確かにアンタは嫌な奴だべ。嫌な奴だけど、死んで欲しいとは思ってないんだべよ」
「…………」
譲はますます戸惑う。村長の子だから。逆らえない子だから。村の子供達が腫れ物のように自分を見ている事を、譲は知っていた。訳が分からなくなり、譲は俯く。夢美は、そんな譲にかつての自分を重ねていた。
「譲君、今は逆月から逃げる事だけを考えましょう。みんなと譲君との間で何があったのかは分からないけど、みんなお互いに死んでほしくないのは一緒なはずよ」
「…………うん」
茫然自失となった譲の返答は、あまりにも素直で、純粋なものであった。けれど、逃げる気力が出た譲を見て、夢美は僅かに微笑む。子供達の希望に応えるように、木漏れ日が見えて来た。
「池だ! みんな、行こう!」
鎮は馴染みのある光を求め、足を早めた。子供達も希望に縋るように、最後の道のりを走る。後ろからは、引き伸ばしたような低い吠え声が響く。逃しはしない。どこまでも追ってやる。そう警鐘を告げるように。




