第十九話 混ざり得ない赤毛
神流神社へ走る夢美。心臓は血管を圧迫するように脈打ち、夢美は呼吸が止まりそうになった。顔中に冷たい汗が浮き上がっていく。夢美は背筋に這い寄る悪寒を振り切ろうと、足を早めた。湿り気が残っている畔道に、夢美は足を取られそうになる。靴の裏に張り付く泥が、夢美の足を重くした。呼吸は渇き、肺からは空気が漏れるような音がする。視界が揺らぎ、陽炎にうだる夢美。鎮に会いたい一心で、夢美は靄がかっていく畔道を走り続けた。
神社の朱が、夢美の視界に入ってくる。暗闇に包まれていく視界の中でも、神社は鮮やかに見えた。ふらついた足取りで、夢美は石段を登ろうとする。目眩はひどくなり、一段一段が遠くも近くも感じられた。夢美の足先の感覚がなくなっていく。心臓が肋骨を圧迫するようにズキリと脈打ち、夢美は痛みに支配された。石段を踏み外し、夢美は倒れる。ひくついた呼吸を繰り返しながら、夢美は暗闇の中に閉じ込められた。
額に冷たい感覚が広がり、夢美はゆっくりと目を開ける。檜の匂いが、夢美の鼻に入ってきた。夢美の朧げな視界には、黒い龍が泳いでいた。祭りの時の龍神様のようにうねる、黒い龍。金色の瞳は、夢美をずっと睨んでいた。温かい何かが、夢美を包んでいる。心臓は落ち着いた鼓動を刻んでいた。蝉の残響が夢美の耳を揺らす。深呼吸をしながら、夢美はゆっくりと起き上がる。
「夢美、大丈夫か?」
鎮が夢美の額に手を当てる。彼の手は熱を帯び、温かい。鮮やかな赤毛が目に映り、夢美の意識ははっきりとする。浅葱色の小袖姿の鎮か、夢美の目の前にいた。鎮の瞳に、弱りきった夢美の顔が映っている。
「私……一体……」
「神社の階段で倒れてた。身体弱いんだから、無理すんな」
相変わらず素っ気ない態度の鎮。鎮は水が入った鈍色の湯呑みを、夢美の口元に運ぶ。夢美は湯呑みを手に取り、少しずつ冷水を飲んだ。渇ききっていた喉を、冷たい水が潤す。水面の中にいる夢美は、ひどく暗い顔をしていた。
「どうして私が身体が弱い事を知っているの?」
「昔、お前が言ってた。お前は村にいた頃も、ここに来てたんだ」
鎮の言葉に、夢美の追憶が断片的に蘇る。どうして忘れてしまっていたのだろう。小さな胸を押さえながら、神社の石段を登っていたあの日。今ほど暑くはなかった夏のある日、夢美は確かにここに来ていた。くしゃくしゃの赤毛の少年と、確かに話していたのだ。
「私達……ずっと前に会ってたの?」
鎮は黙って頷く。その顔を、夢美は昔から知っていた。今と同じ、悲しげに眉を落としていた少年。ビル群に囲まれた記憶に塗り潰された思い出が今、湧き上がってくる。
「でも、どうして倒れていたんだ?」
鎮の言葉に、夢美はハッとする。伝えないと。この鮮やかな朱の神社も、消えてしまうのかもしれないのだ。
「……鎮、神流神社が……あの池が潰されるって、村長さんの子が言ってたの。でも……私……」
「譲か……。アイツの言っている事は本当だ」
鎮は諦めたようにため息をつく。夢美は、頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。彼は自分の運命を甘受してしまっていたのだ。夕暮れに差し掛かった神社に、ひぐらしの寂しげな声が聞こえてくる。
「鎮はそれでいいの? 鎮の場所がなくなっちゃうんだよ」
「俺だって嫌さ。だけど、これは決まっていた事なんだ。村長に金を借りていた父さんは、借金の担保をこの土地にしていた。鰐丸を飼っていたのも、いざとなったら売るつもりだったんだよ」
鎮は苦しげに答える。彼の過去は、失われるためだけにあったのだ。諦めに満ちていた鎮だったが、その手はわなわなと震えていた。鎮だけではない。鰐丸、あの無邪気な瞳をしていた鰐も、あの池から引き離されるかもしれないのだ。夢美は拳を握りしめる。これでいいはずがない。夢美は鎮の手を取る。
「鎮も鰐丸も、ここに住んでいたいんでしょ? 私、お金の話はよく分からないけど、この神社が無くならない方法は何かあるはずだよ?」
「村長の取り決めだ。誰も逆らえねぇ」
鎮は頑なに首を振る。だが、鎮の手の震えが、夢美にも伝わって来ていた。鎮の手が、夢美の手からすり抜ける。
「譲君も、龍神の秘密を探ろうと、池に来ようとしているわ。お願い、逃げて……」
「…………」
鎮は池に残された鰐丸の事を考えているのか、顔が曇る。譲に鰐丸が見つかったら、何をされるのか分かったものではない。だが、この地に縛られた鎮には、どうすることもできなかった。
「ありがとう、夢美がそう言ってくれて嬉しいよ。でも、俺は鰐丸を置いてはいけない」
鎮は悲しげな笑顔を浮かべる。その顔を見て、夢美は悟った。ああ、この子達は私がなんと言おうと、運命を受け入れるつもりだ。夢美は口を動かすが、乾いた空気が吹き抜けるだけで、唇が震えた。夢美の目は潤む。
「夢美も、もうここに来ない方がいい。お前まで巻き込みたくはない」
悲しく呟くと、鎮は獣道を歩いていく。ひどく冷たいが、柔らかな口調だった。夢美は自分の無力さに打ちひしがれる。自分以外誰もいなくなった神社に、生暖かい風が吹き抜けた。夢美は色褪せた神社の床に崩れ落ちる。風になびく、彼の赤毛。彼の赤は誰とも混ざらず、この山とも混ざらない。悲しげな声で拒絶され、夢美は鎮がひどく遠く感じられた。鎮が遠のいていく。止めなきゃ。彼一人では、今の状況は変わらない。だが、夢美にできることは何一つない。
沈みゆく太陽の下、夢美はとぼとぼと畔道を歩いていく。無力感に苛まれた帰路は、ひどく遠く感じられた。




