第十七話 お帰りなさい
熊騒動が収まり、夢美が帰った頃には、夜もすっかり更けていた。疲れた身体で夢美が玄関を開けると、千代が台所から駆けつけて来た。夢美の泥だらけのもんぺを見て、千代は手をわなわなさせて夢美を抱きしめる。クマが浮かんでいる千代の目元には、涙が溜まっていた。
「夢美ちゃん、何があったんだべ? こんなに泥べっちゃになって」
「心配かけてごめん、おばあちゃん。雨に降られたの」
千代は寝巻きを持って来て、夢美の泥だらけのもんぺを脱がせる。温かい寝巻きは、バラの柔軟剤の匂いがした。
「ごめんね、おばあちゃん。折角のもんぺ汚しちゃって」
「いい、いいんよ。ばあちゃん、夢美ちゃんが無事に帰って来てくれれば、それでいいんよ」
千代は愛おしげに夢美の頭を撫でる。夢美も思わず涙が出そうになった。ゴツゴツとした千代の手は、今や優しい祖母の手つきに感じられる。夢美も孫として、千代を力いっぱい抱きしめた。
「さ、風邪ひかねぇうちに寝るべ」
「うん!」
寝巻きを両手で握りながら、夢美は階段を登って行った。ベランダの網戸から吹き付ける風が、心地よく感じられる。布団に身体を横たえると、夢美に疲労が一気にのしかかった。夢美は柔軟剤の香りに包まれたまま、眠りに落ちる。
次の日、雨はすっかり上がり、太陽が眩しく照りつけていた。だが、昨晩の爪痕は残り、畔道は泥水で溢れ返っている。夢美はすっかり歩き慣れた道を歩き、通い慣れた"珍竹林"へ向かう。チェック柄のワンピース姿の夢美を見て、中にいた八重子と耕助は手を振る。その奥には、目を疑う光景があった。駄菓子屋の壁に寄りかかっていたのは、忠治と元博だったのだ。忠治は夢美を見ると、恥ずかしげに顔を逸らす。
「……よう、夢美。昨日は世話になったな」
忠治は低く呟く。"よそ者"ではなく夢美自身として、忠治は初めて夢美を呼んだ。忠治は相変わらず素っ気ない態度だが、夢美の胸が熱くなる。元博は手を組み直しながら、夢美に近づく。何かを言い出せないでいるのか、口をモゴモゴさせていた。
「ゆ、夢美……姉ちゃん……。今まで……よそもんとか言ってごめん。オラ、あんなに酷いこと言ったんに、姉ちゃん……オラを探しに来てくれたんだべ?」
「そ……そんな。私はただ……」
元博は言葉を紡ぐに連れて、声が涙ぐんでいく。俯く元博の頭を、忠治は撫でる。しゃくり上げながら、元博はベソをかいていた。
「俺も……オメェの事よそ者って言って悪かった」
忠治は初めて夢美を真っ直ぐ見た。その目つきは、しかめっ面の少年のものではない。素直な眼差しだ。忠治に直視されて、夢美は少し恥ずかしくなる。村が、この地が、自分を受け入れ始めていたのだ。夢美の胸の奥底から、激しい感情が込み上げる。
「いいの、私、本当によそ者だし。ありがとう……忠治……君」
「君はいらん、忠治でいい」
名前を呼ばれ、忠治は照れ臭そうに鼻を掻く。八重子も耕助も、悪戯げな笑みを浮かべて二人を見ていた。耕助はどこからともなく、大量のアイスキャンディーを持って来る。
「仲直りしたみたいだし、みんなでアイスキャンディー食べようよ」
「うわっ! 耕助それどっから持って来たん!?」
「昨日のお祭りの残りだべ。タダだからいくらでも食べていいよ」
子供達はたちまち無邪気にはしゃぎ、各々好きな味を手に取る。八重子はすぐさまグレープ味にかぶりつき、耕助はソーダ味を頬を膨らませながら食べていた。
「それにしても、みんなはあの後大丈夫だったの?」
「そりゃあこっぴどく怒られたわよ! 衣装はダメにしちゃったし、転んで小道具の小刀壊しちゃったし!」
「僕もずぶ濡れで帰って、母ちゃんに尻叩かれたよ」
短パンから覗く八重子の膝は、赤く擦りむけていた。耕助も顔をしかめてお尻をさする。コーラ味のアイスキャンディーを咥えながら、元博は申し訳なさそうに肩を窄める。
「俺も元博も、父ちゃんと母ちゃんにゲンコツもらった」
既にアイスキャンディーを食べ終わった忠治が棒を咥えている。短髪の頭頂部は僅かに盛り上がっていた。
「でも、三人が無事でよかったべ」
「そうだべ。逆月って言ったら、最近畑に出てた熊だべ」
八重子が胸を撫で下ろす。三人は、姿が定かではない熊の姿を想像した。あの熊は、まだ山にいるのだろうか。鎮は、あの熊に襲われてはいないのだろうか。
「あの熊、俺ん家の畑を荒らしやがったんだ。次会ったらぶっ飛ばしてやるだんべ」
忠治は手にしたバットを握りしめていた。だが、威勢とは裏腹に、熊の気配に未だ手は震えていた。
「でも、あの鉄砲持ってたおじさんが、きっと退治してくれるんじゃないの?」
「鉄砲持ったおじさん? あ、もしかして、月夜野のおじさんの事?」
八重子はすぐさま食いつく。耕助も知っているようで、あっと声を上げた。
「あのおじさんは、すごい変な人だべ。ずっと山に住み着いて、逆月を追ってるんだ」
三人の脳裏にあの青年の姿が浮かぶ。確かに、伸び切った髪と目深に被った帽子と、どこか浮世離れしていた。
「あのオッサン、正体は仙人だろうよ」
「違いねぇだんべ」
忠治の言葉に、子供達は笑い合った。そこに緊張感はなく、夢美はただの子供として笑う。網戸から吹き付ける風が、夢美の髪を撫でた。まるで、お帰りと言うように。
だが、村に慣れきってもなお、夢美の胸は靄がかっていた。駄菓子屋のアイスキャンディー。確かにみんなと食べていた。食べてはいたが、夢美は空白の中に、ある子供を浮かべている。鎮。彼が一緒に笑いながらアイスキャンディーを食べる日は来るのだろうか。




