第十六話 逆月
夢美は忠治の後を付け、元博が逃げた山の獣道に入る。神社とは反対側の山の入り口は、表口よりも荒々しい出立ちだ。ぬかるんだ獣道に足を取られ、水を含んだ草に足を滑らせそうになった。木々の隙間から雷の光が差し込む。時折どこかに落ちた雷の音に、二人は身をすくませた。忠治はバットを振り、行く手を阻む草を掻き分ける。
「元博ー! どこだー!?」
枯れ切った声で叫び続ける忠治。だが、忠治の声は山に木霊するばかりで返答はない。草むらが時折揺れ、二人は全ての音に敏感になった。
「み、見ろ! 元博が持っていたピロピロ笛だ」
忠治は恐る恐る足元の巻き笛を拾う。金と青のリボンが巻かれた吹き口は潰れて、三本の巻き筒は千切れている。吹き口に空いた穴は、何かに噛み潰されたような跡があった。弟の末路と手に持った巻き笛を重ね、忠治は戦慄する。
「くそぉ! アイツが喰われるもんか!」
恐怖を払い除けるように、忠治は巻き笛を投げ捨てた。その時、近くの木の洞から啜り泣くような声が聞こえる。
「誰かいるんか!?」
忠治はなりふり構わず木の洞に顔を覗かせる。すると、木の中の何かは甲高い声を上げ、忠治に飛びかかった。あまりの勢いに、忠治は地面に転げる。
「うわぁぁ! 助けてぇ!」
半狂乱になった元博が、忠治を殴る。忠治の胸元しかない元博の拳は、せいぜい肩叩き程度にしかならない。忠治は暴れる元博の腕を掴む。
「落ち着け元博! 俺だ!」
「へ……? に、兄ちゃん?」
元博は兄の顔を見て、次第に落ち着きを取り戻す。慌てて元博は兄から離れ、涙を拭う。
「兄ちゃん……なんでコイツと一緒にいるの?」
「んな事は後だんべ。早くしねぇと熊に喰われるべ!」
忠治は元博の手を引く。泥だらけになった身体を叩き、忠治は元博と山を出ようとする。
その時、牛の鳴く声のような、身の毛もよだつ唸り声が響いた。藪を漕ぐただならぬ黒い影に、三人は口をつぐみ、樹洞に身を潜めた。荒い息が草陰に隠れる獲物を絡め取ろうと漂う。姿こそ暗がりに覆われているが、夢美にもそれが恐ろしいものということは理解できた。元博も叫ぶまいと、必死に口をつぐむ。忠治はいつでも飛び出せるように、バットを握りしめていた。そんなものが通用する相手ではないと分かっていながら、震える足を踏みしめている。
「あ……あれは?」
「逆月だ。この山さ住む悪たれの月の輪熊だ」
忠治からは普段の威勢の良さが消えていた。枝を踏み折る音は、嫌が応にも子供が敵う相手ではないと思い知らされる。逆月は嗅ぎなれない奇妙な匂いに鼻をひくつかせた。食べたことのない人間の食糧の匂いを嗅ぎ取り、逆月は興奮する。屋台のりんご飴の匂い、焼きそばの匂い、微かな花火の煙の匂いまで逆月は舐める様に辿っていた。夢美達のいる樹に、逆月は深々と爪痕を刻みつける。まるで「獲物はここだ」と言わんばかりに。剥がれた木端が、樹洞の前に降りかかった。むせかえる様な獣臭が辺りに漂う。姿ない熊の気配に、子供達は恐怖した。我慢の限界か、元博は今にも悲鳴をあげようとしている。忠治は弟の様子を見るなり、両足を踏み締めて逆月の前へと飛び出そうとした。
その時、遠くから銃声が劈いた。明らかに花火ではない、鋭い音だ。逆月は驚いたのか、薮を掻き分けて去っていく。夢美達は恐怖のあまり、しばらく樹洞の中にいた。
雨が止み、三人は恐る恐る外を見る。恐ろしい獣の気配はない。朧月に照らされ、山は大雨の跡を残すだけだ。逆月が去ったことに安心したのか、元博が泣きじゃくる。
「うわぁぁん! 兄ちゃあん。オラ怖かったよぉ!」
「あほだら! 盆祭りん時に山さ入る奴がどこにおる!」
忠治は元博を怒鳴りつける。元博は目を腫らしながら忠治にしがみつく。忠治のタンクトップの中に、元博は顔を埋めた。忠治は頭を掻き、震える元博を抱きしめる。
「.......ありがとよ。オメェのおかげで弟、熊に喰われずにすんだべ」
忠治は夢美から視線を外しつつも礼を言う。くぐもった声だったが、夢美は確かに忠治の言葉を聞いた。
「何してんだ? ガキども」
無愛想な声が、山の奥から聞こえる。散弾銃を持った青年が、夢美達の元へ歩いて来た。焦げ茶色の髪を目元まで伸ばし、灰色のベストを着ている。紺色の擦り切れたキャップからは、雨水が滴っていた。散弾銃の銃口からは僅かに煙がなびく。厳めしい武器を持った青年に、夢美達は木に隠れようとする。
「私達、熊に襲われたんです」
「……逆月か。やはりここにいたんだな」
青年は散弾銃を握りしめる。少しズレた丸いサングラスからは、ヘーゼル色の鋭い瞳が覗いた。
「あなたは、一体……」
「俺は月夜野 匠。この山で猟師をやってる。あの逆月は、人間の食い物の味を覚えた。だから絶対に見つけてやる」
三人は息を呑んで、銃から薬莢を取り出す匠を見た。硝煙の匂いが、地面に漂う。
「じきに警察が来る。お前達も、これに懲りたら山には入るなよ」
匠はそう言い、散弾銃を担いで去っていく。襟足まで伸びた髪が、風に揺れた。銃が見えなくなり、三人はホッと胸を撫で下ろす。
しばらくして、自転車のベルの音が山に響いた。細い光が、木々を一つ一つ照らす。
「おーい! 誰かいないかー!」
懐中電灯が木の洞を照らす。眩しさのあまり、三人は目を覆った。物音を聞くなり、懐中電灯を持った駐在さんが迷子の三人を覗き込む。
「君たちかい? いなくなった子供って言うのは」
童顔の駐在さんは柔らかな声で三人に話しかける。三人は懐中電灯に照らされ、しばらく硬直していた。
「僕は渋川 和人。神流村駐在所から来たお巡りさんだよ」
渋川は震える三人に毛布を巻く。洗い立ての毛布に包まれ、夢美の震えは和らいだ。
「さあ、親御さんが待っているよ」
渋川は三人の手を引く。逆月への恐怖の余韻に足を取られつつ、三人は下山した。山の上には霞がかった月が浮かんでいる。逆月、逆さに欠けた月が、不気味に輝いていた。




