番外編 小さな家
シルヴァが来て、ノーナの家は狭くなった。大きな住人が増えたこともそうだし、椅子だけじゃなくて食器や、こまごまとした生活用品が増えたからだ。
狭くなったおかげで、シルヴァとの距離はよりいっそう近く感じる。それはとても幸せなことだ……と近ごろノーナは気づいた。
「ん……」
窓から差し込む柔らかな光に起こされる。薄くまぶたを上げると、真っ白な光の中に肌色が浮かんで見えた。
ノーナはそろそろと首を逸らし、肌色の主を確認する。
(いつ見ても、何度見てもかっこいい……)
深く眠るシルヴァがそこにいた。
光に透ける銀色の髪は神々しく、同色のまつ毛が目元を煌めかせている。神が精緻に配置したような顔立ちは美しい。
引き結ばれていることの多い口元は、いまは少しだけ開いている。あどけなさを覗かせた隙に、胸をきゅうん……と掴まれた。
ノーナよりよっぽどしっかりしている彼の、歳下らしいところを見つける瞬間がノーナの密かな幸せだ。
王都テュッレーの春は長い。昼間はぽかぽかと暖かく、朝晩は少しだけ肌寒い日々が続いている。
昨晩は愛し合って、かろうじて後始末はしたものの服を着ることもなく寝てしまった。隙間から入り込んだ朝の空気が冷んやりしていて、ノーナはシルヴァの身体にぴとりと引っ付いた。
素肌の感触と人肌の温もり、毛布のふわふわ。なんて幸せなんだろう……
「……ノーナ?」
「あ、起こしちゃった?」
逞しい胸元からもう一度顔を上げると、大好きなバーガンディが眠たげにノーナを見下ろしていた。意外に朝が弱いのもキュンポイントに加算。遠征中などは、確固たる意志の力で起きているらしい。
シルヴァの顔が近づいてきて、口元がノーナの額に当たる。ちゅ、と小さな音を立ててキスのスタンプが押された。
「おはよう」
「…………っおはよう」
わ〜〜〜っ!とのたうち回りたい衝動を抑えて、なんとか挨拶を返す。笑顔も振りまかないし、マイスイート!なんて甘い言葉も吐かない。
そんなシルヴァの愛情表現はささやかだからこそ甘い。
腰に回っていた手でぎゅっと引き寄せられる。ノーナの黒髪に頬をすりすりと擦りつけられ、深呼吸を一回、二回、三回……――寝てますね? シルヴァさん。
ノーナはそろそろとシルヴァの腕の中から抜け出した。その腕がうろうろと布団の上をさまようものだから大きめのクッションを抱かせておく。ぎゅ、とクッションを抱いて丸くなる大きな身体が可愛くて、によによ口元を緩ませながら服を着た。
顔を洗って外に出ると、神秘的な朝の森が目の前にある。すうっと大きく息を吸って透明な空気を身体に取り込めば、清涼感のある香りが一瞬だけ鼻先をかすめる。
足元の鉢植えをのぞき込むと、朝露を吸ったミントが青々と輝いていた。
「ふふっ」
何度見ても思い出し笑いをしてしまう。ノーナが飲み物ならなんでもミントを入れてしまうから、シルヴァも「クセになってきた気がする」と否定しないでいてくれてるけど。
(たぶん、あんまり好きじゃなさそう……)
スイーツにちょこんと添えて色や香りだけ楽しみ、食べるときはよける程度が彼にはちょうどよいのだと思う。
人には好みというものがあるのだ。ノーナも甘いものばかり食べると胸焼けしてしまうし。
ノーナは自分のためにミントを少しだけ摘んだ。
今朝は普通の紅茶を淹れようと思う。自分のものにはフレッシュミントを入れて、シルヴァの方には蜂蜜を垂らしてあげよう。
甘いものを口にしたとき、彼の目が少しだけ細まるのがノーナは好きだ。
これまで自分に厳しく生きてきたシルヴァは、楽しむことからあえて距離を置いてきたのではないだろうか。
ノーナが『こんなところに住んで、楽しい?』と訊くと、『楽しい』と即答されるけれど……。
これからは年相応に、楽しいことや好きなことをしてほしい。
しばらくしゃがんだままぼうっとしていたノーナは、そろそろシルヴァを起こさなければと気づいて立ち上がる。……が、その瞬間腰にツキンッと痛みが走ってよろけてしまった。
「う、わっ……!」
「大丈夫か」
地面に尻を打ちつける覚悟をしたノーナの身体は、ふわっと背後から支えられる。まるで衝撃を感じさせずにノーナを救ったシルヴァは、眉根をわずかに寄せてこちらを見据えている。
背中を預けたまま真上の顔を見上げて、ノーナはふにゃりと笑った。
「ありがとう! シルヴァ」
「っ……悪い。昨日、も……無理させたな」
「ふふ、盛り上がっちゃいましたね?」
ふらつきの原因をシルヴァは悟ってしまったらしい。緋い目をうろうろと彷徨わせ、恥じらっているのが可愛い。
やはり割り切るのはノーナの方が早くて、ついからかう口調になってしまった。
「肩はどうだ? 寝る前に着せてやればよかったな」
「あのときはまだ暑くて……それに、今朝は上手く着替えられましたから」
シルヴァが気遣いながら肩をさすってくれる。布ごしでも体温が滲んで温かく、痛くはなかったもののホッとした。彼の手があたたかいと安心する。
ノーナの肩はこれ以上は無理だろう、というところまで回復している。腕を高く上げたり後ろにひねる動きにはやはり痛みが伴うし、どうしても動かせない可動域はある。
しかし慣れれば日常生活にはさほど支障がない。しいていえば服を着たり脱いだり、あるいは身体や頭を洗うときが一番の難関で、シルヴァがいるときは必ず手伝ってくれようとする。
(過保護すぎると、思うんだけどなぁ)
しだいに落ち着くかと思っていたシルヴァの心配性は、一緒に住み始めてからも変わる気配はない。むしろ気を遣わせないサポートがうまくなってしまい、気づけばあれこれ助けられている始末だ。
彼は悪くない。目の前で死にかけてしまったノーナの責任だろう。
せめて無駄な罪悪感を感じていないといいのだけれど……。彼は、驚くほど優しい人だから。
ノーナがこれから精一杯、元気で健康なところを見せていくしかない。
「遠征に出たらしばらく帰ってこられない。ひとりで前を見ずに歩いたり、転んだりはくれぐれもやめてくれ」
「……わざとじゃないんだけどなぁ」
シルヴァはもうすぐ南への遠征がある。そのあいだ体力づくりに森の端で走り込みでもしようかと考えていたノーナは、ぎくりとした。
歩くのも……だめ? あ、転ばなければいいのか。いや意識してできなくない?
「やはりひとりでは心配だ。はやめに護衛を雇うか……」
「ええっ、そんなの逆に緊張しちゃいますよ」
「だがな……」
シルヴァとノーナはいずれ、ここより広く便利な場所にふたりの家を買うつもりだ。
その際、彼がいないときのための家事手伝いや護衛を雇う予定だという。そこはシルヴァが断固として譲らなかった。
前者はノーナの身体のためらしいが、後者はシルヴァという存在を妬ましく思う人から自分達を守るためでもある。北の砦での事件は落着したとはいえ、今後もまったく無いとは言い切れないのが現実だ。
もっとも、シルヴァにも心境の変化があったらしく、以前より同僚と打ち解けているのでは……とことばの端々から感じている。特に新人騎士たちからの慕われようはすごい。
とにかく。貴族の邸宅ならまだしも小さな家にひとりでいるノーナの護衛なんて、お金を払っていたって可哀想だと思う。
「やっぱり、僕も働きに出ようと思うんです。働いていれば自然と体力もつくし、ひとりで走ったりする必要もないし? それで……、シルヴァのとこの事務官、いま募集してるって聞いたんだけど……」
「危ないから駄目だ」
「本部でなにかやろうなんて人、いないと思う」
「うむ……」
「シルヴァが遠征じゃないときなら、一緒に出仕できますよ? 仕事中も近くにいるし、逆に一番安全な場所かも」
「む……」
ピークスに事務官の募集があると教えてもらってから、いつ切り出そうかと時期をうかがっていたのだ。考えておいたメリットをいくつも伝えるとシルヴァが考え込む姿勢になったので、ノーナは押せばいける!と確信した。
「お願い、シルヴァ。ずっと働いてきたから、家にじっとしてるのは性に合わないんです」
「そう、だな……。無理をしないなら……」
よし!と小さくガッツポーズをしようとしたときだ。ノーナの脳裏にある記憶が蘇った。帰ってきてから一度会った、ピークスとの会話だ。
『反対しないけどさぁ。……飽きない? 家も職場も一緒なんて』
『え、飽き……? そんなの、考えたこともないかも』
『まぁ、ノーナはそうか。おれは彼女と職場まで一緒だったら、喧嘩ばっかりになりそうだなー。飽きなくても、嫌になっちゃったりするかもしれないじゃん』
『そんなこと……』
そんなこと、あるのかな? 北の砦ではいろいろあってから毎日のように会っていたし……いや、あれは特殊な環境だった。
王都へ戻ってきてからは、騎士の仕事があるシルヴァを家で待つ日々だ。遅くなるときは無理せず王宮内の部屋へ泊まってほしいと伝えているものの、いまだに帰ってこなかったことはない。
それに……夜、ノーナが「おかえり」と出迎えたときの彼の表情は、ホッとしたように少しだけ緩む。たぶん、喜びに近い感情を抱いてくれているのだと思う。
実は、家に帰ったらノーナがいるという状況がいいのだとしたら? 一緒に働いてしまうと、嬉しさも半減になっちゃう? シルヴァがためらっていたのは純粋に嫌なのかもしれない。
あの人の場合だって……はっきりとは言われなかったけど、ノーナにすぐ『飽きて』いたのだろう。
「ノーナ? どうしたんだ」
さっと表情に陰がさしたノーナの顔を、シルヴァは心配そうに覗きこんでくる。
でも、別に言わなくていい。心配をかけてはいけないからとっさに誤魔化そうとして……やっぱりやめた。
泣きそうに瞳を揺らしながら、恋人の顔を見上げる。つまらない嘘をつくくらいなら、情けない自分をさらけ出すほうがいい。
「飽きる? 職場まで同じなのが嫌だったら……やっぱり、やめ……――っ!!」
――気づけばシルヴァの腕の中にいた。
「飽きるわけないだろう……!」
背中にまわる腕の力は強く、少し痛いくらいだ。爽やかな朝に似つかわしくないほど彼の激情が伝わってくる。
耳の後ろの小さな空間で語りかけられた絞り出すような声に、自分の心配は杞憂だったことを知る。
「嫌なんじゃない。傍にいるのは嬉しい。ただ……王宮にはいろんな人がいる。心配なんだ……!」
シルヴァは多くを語らない。けれど、心の底からノーナのことを案じていることは分かった。ノーナに降りかかりかねない、あらゆる干渉を憂慮しているだけ。
――申し訳ないのに、幸せで胸が圧迫されて苦しい。
王宮には色んな人がいる。シルヴァに嫉妬する騎士や思惑を抱えた貴族たち、元上司だってまだいるに違いないし、男同士で愛し合うふたりのことを不快に感じる人もいるだろう。
しかし、ノーナの不安は強い風によって吹き飛ばされた。シルヴァに嫌われないか、冷めたと思われてしまわないかが一番重要なのだ。その点、まったく心配いらないのなら……
その他大勢の意見なんてどうでもいい。シルヴァと少しでも長く一緒にいて、ノーナが仕事で役に立つところを見てほしいと思う。あわよくば仕事中のシルヴァも覗き見たいな……なんて。
「嬉しい……ありがとう。けど、シルヴァも条件は一緒でしょう? 僕より遥かに有名人なんだし……そっちこそ心配なんです。だから……分け合いませんか? 嫌なことも、嬉しいことも」
「ッ、ああ……」
放っておくとシルヴァはひとりで背負おうとしてしまう。そんなの駄目だ。これからふたりで生きていくのだからこそ、ノーナは彼を支えたい。
「それに僕、即戦力になれると思うんです。駄目なところばっかり見せちゃってるぶん……僕だってシルヴァにかっこいいところ、見せたいし」
「俺はノーナほど格好良いやつを知らない」
「ほっ、ほんとに……?」
「ああ、お前以上にいい男はいない」
「い、言いすぎだよぉ。逆に嘘っぽいもん……」
誰よりもかっこいいシルヴァに褒められると、くすぐったくてそわそわしてしまう。見るからに弱々しいノーナのどこをいい男というのか。嘘だと思いつつ喜んでしまうのだから、我ながら単純だ。
「魔法でもかかってる……?」
「……そうかもしれないな」
「えっ!!!」
「ノーナに出会ったときから、ずっと解けないみたいだ。かわいくて、心配で、愛おしく思えて仕方がない」
「〜〜〜っ……!」
顔が熱い。盛大に照れて、ポカポカとシルヴァの胸を叩く。
――この人、こんなこと言えたの!?
若き青年はまだまだ成長期にあるらしい。
ふたりの周りには木の葉の隙間を通り抜けた光がたくさん差し込んでいる。目覚めたばかりの春の花が甘い香りを放ち、小さな蝶を惹きつける。
ミントの爽やかな香りがあたり一面に立ち込めていた。




