25.光
長い夢を見ていた。熱湯の中を泳いでいるノーナは、熱くて、痛くて、苦しくて仕方がない。
泳ぐのを諦めたら死んでしまう。そう分かっているのに、もう疲れ切っていた。
(頑張らなくて、いいかな……?)
ノーナが頑張ったって、いつも空回りばかりだ。頑張った先になにがあるのかも分からない。
起きたら恐怖や痛みが待ち構えているのかと思うと、現実を離れていたい。
シルヴァがランスで狙われたとき、話しかけていたあの男が怪しいとわかっていたのに……自分の怪我でスコンと忘れてしまっていたのだ。ばかだなぁ、自業自得だ。
フッと身体の力を抜くと、深いところに沈んでいく。諦めた途端にらくになる。熱さも感じなかった。
流された先に両親の姿が見えて、ノーナはほっと安心して笑った。ああ、やっと会えた。
もうすぐそっちに行けそうだ。両親に手を振ると、慌てたように何かをアピールしている。ジェスチャーでこっちに来るなと言われている気がして、首を傾げた。
せっかく……約十年ぶりに会えたのにどうして喜んでもらえないんだろう。悲しくて、涙が浮かんでくる。
胸が痛い。誰かがノーナの名前を呼んでいる。熱いのに寒くて、冷え切った手を少しだけ動かすと、温かい手に包まれた。
大きくて、ゴツゴツしてて、両親とは違う手。あたたかさと共に勇気を注ぎ込まれた心地がする。つらいけど、怖いけど、ノーナは動かなければならない。
また頑張ると、痛い。苦しい。けれど……なぜかどうしても、この手を離したくない。
ノーナの大好きな人の手。離さずに掴んでいれば、ここから掬い上げられる。
少しずつ両親から離れていき、ノーナは空いている方の手を振った。今度は嬉しそうだ。また、いつか会えるよね。いまノーナが会いたいのは別の人だ。
誰だっけ。白銀に輝く髪に、燃えるような濃赤の瞳。彼が遠くからノーナの名前を呼んでいる。
必死な声。低くて色気のある声で名前を呼ばれるのが好きだ。自分が彼の特別になれる気がして、心が自然と浮き立つ。
ゆっくりと意識も浮上する。途中暗い場所を抜けたけど、視線の先は明るい。
疲れて、何度か諦めかけて、同じことを繰り返した。その間もずっと繋がれていた手に勇気をもらう。
光の元へ帰ろう。ノーナにはもう一度、会いたい人がいる。
――くっついたように重いまぶたを押し上げ、ノーナは目を覚ました。
見慣れた医務室の部屋は静まり返っていて、分厚いカーテンの隙間から光の線が差し込んでいる。
身体が重すぎて首さえ動かせない。しかし、見えていなくてもノーナは彼の名前を呼んだ。手がしっかりと繋がれているのが分かるから。
「……ぃる、ば…………しるゔぁ……」
「ん……? ッノーナ! 起きたのか!?」
ノーナの微かな呼びかけに気づいて、すぐにシルヴァが視界に入ってきた。
寝起きのような顔をしているのに、隈がひどい。髪も、着ているものも……まるで何もしないまま数日経ったかのようにヨレヨレだ。
そんな状態でも、ノーナには彼が一等星のように輝いて見えた。彼はノーナの光だ。起きがけで好きな人の顔を見られるなんて、最高じゃない?
喉が張り付いたように声が出にくかったので、ノーナは目を細め、唇に笑みを乗せた。疲れているように見えるものの、シルヴァが五体満足なことはわかって嬉しい。
「あぁ、よかった……! ノーナ、帰ってきてくれてありがとう……」
繋がれた手がギュッと強く握られる。バーガンディの瞳がみるみるうちに潤んでいくから、つられてノーナも目頭が熱くなった。
どうしてか、長い旅をしていた気がする。シルヴァに会えたことがとてつもなく嬉しくて、心が震える。
この気持ちをどう表現したらいいのかわからない。感謝すべきはこっちなのに。
しばらくすると、これまた白衣をヨレヨレにした医務官のおじいさんが駆け込んできて、目を見張った。
「ノーナくん、頑張ったね……!」
意識がハッキリしていることを確認してから水を飲ませてもらい、これまでのことを教えてもらう。なんとノーナは四日間も生死の境を彷徨っていたらしい。
人質に取られたときに傷口が開いてしまったらしく、周囲には多大な心配をかけてしまった。
「シルヴァさん、そろそろ貴方自身も休んでください。ノーナくんは大丈夫ですよ」
「いや……」
「?」
医務官に催促されたシルヴァが、気遣わしげにノーナを見てくる。なぜ自分の方を見るのかと思ったら……なんと、彼が離れたがらない要因はノーナだった。
ノーナは眠っているあいだ、シルヴァの手を掴んだまま離さなかったのだ。シルヴァが少しでも離れると、見えているかのようにうわごとで彼の名前を呼ぶ。
結果、シルヴァは仕事もせずほとんど四日間ずっとノーナの傍にいて、身の回りの世話を手伝ってくれていたらしい。
ノーナはとんでもないことをやらかしたと青褪め、慌ててシルヴァに退室してもらった。無意識の自分、怖すぎる……!
その後順調に回復していったノーナは、入れ替わり立ち替わり見舞いに訪れたパテルやモルタ辺境伯に心配され、甘やかされ……散々いじられた。
「みんな心配してたんだよ! 本当に、よかったぁ……それにしても、まだシルヴァ様と付き合ってないってほんと? どう見ても相思相愛じゃん」
「ノーナ、欲しいものがあったら何でも言ってくれ。辺境伯権限で用意してやるからな! シルヴァは狼が番を守るかのように付きっきりだったぞ。お前たち……なかなかの愛だな!」
ノーナはいじられるたび赤面して、なんと返答していいかわからなかった。はじめは痛い勘違いをしないよう、自分でも気をつけていたのだ。
峠を越え目覚めて以降、シルヴァはせっせと見舞いに来たり、食事の介助から着替えまで手伝ってくれようとする。
ノーナがシルヴァを助けようとしたことやシルヴァの関係者として人質に取られたことに、責任を感じているからこその行動なのだと自分を納得させようとした。
しかし……
「仕事に行ってくる。ノーナ、またあとでな」
「は、はい。行ってらっしゃいませ……っ!」
名残おしそうにベッド脇の椅子から立ち上がったシルヴァは去りぎわ、ノーナの額にキスを落とす。ほんのかすかな接触に、触れられた場所が熱を持つ。
この愛情表現としか言いようがない行為が、毎日続けられているのだ。
初めこそ「うわぁぁぁ!?」と額を抑えて顔を紅潮させていたが、さいきんは「そろそろ来るぞ」と覚悟し目を閉じて待つくらいには慣れてしまった。顔は相変わらず熱いけれど。
それを医務官や見舞客に何度か見られてしまったものだから、ノーナはもう恥ずかしくて布団に隠れることしかできなかった。
シルヴァはどうしてしまったんだろう。ノーナの記憶では、惚れ薬のことを知ってすごく怒っていたはずなのに……あのときの絶望的な気持ちは、しこりのように胸に残っている。
彼はきっと、ノーナがある程度回復するまで重い話は避けてくれている。王都から刑務官が到着し、犯人を連れてまた王都へ発ったという話は聞いたけど、それ以降は事件の話を口にする人もいなかった。
本格的な冬を迎えたピンチョの砦は、何事もなかったかのような日常を取り戻している。交代で王都に帰る騎士たちは、シルヴァと一緒に来た新人騎士たちを連れて行ってしまった。
一気に減った人数に、砦が突然静かになったように感じたものの、平和な北の地ではこっちの方が普段の姿だという。
シルヴァは王都に帰らなかった。春になったらノーナと共に帰るつもりだというから、それを聞いたときは驚いて久しぶりに大きな声を出した。
「そんなこと、駄目ですよ! 僕のことなんて気にしなくていいですから!」
「お、落ち着いてくれ……ちゃんと許可は取ってある。俺のせいで怪我をしたんだから当然だろう?」
「シルヴァさんのせいじゃないです。僕がもっとちゃんとしていれば、先に危険を伝えられたはずだし……こんな方法しかなくて……ぼっ、僕のせいで」
「違う!! ノーナのおかげで、いま俺は生きているんだ。俺が感謝してるのに、自分を責めるのはよしてくれ。お願いだから……」
両手をシルヴァの手で包みこまれ、懇願されると何も言えなくなってしまう。必死な目を見て、自分のせいだと意固地になっていたことに気づいた。自身を卑下するのはもう、やめなければならない。
彼が感謝しているのなら、それでいいじゃないか。
それに現時点で全く仕事に関われていないノーナは、春を待たずに砦を追い出されるかとひやひやしていたのだ。もうあの極寒での移動は御免被りたい。
もちろん床上げの許可が出たら働く気満々である。事務官が一人減っただけでも大変なはずなのに、周りのみんなが無理しなくていいと言ってくれることが有り難くて、申し訳なかった。
ここにいる人たちは平民のノーナにも優しい。だからこそ、役に立ちたい。
もし許されるのならば、以前クウィリーさんがスカウトしてくれたように年単位で砦で働くのも有りだと考えている。
とはいえ、シルヴァがノーナを連れて帰りたいと思ってくれるのなら……やっぱり一緒にいたいと思ってしまう。
目覚めてからシルヴァと共に過ごす時間が毎日あるせいで、無理だと諦めかけた恋心がまたむくむくと育ってしまった。好きな人にここまで甘やかされて、気持ちを抑えるなんて無理な話だ。
惚れ薬のことを包み隠さずシルヴァに話してから、それでも彼がノーナを望んでくれることがあれば、勇気を出して自分からも一歩踏み出したい。
もっとも……魔法で好きになってもらおうと下心で薬を使うような人間を、誠実で真面目な彼はきっと軽蔑するはずだ。
惚れ薬が欲しいなんて、それを他人に使おうだなんて、馬鹿な選択をしたと自分でも思う。しかし、そのお陰でノーナはシルヴァという素敵な人の内面を知って、好きになれたのだ。
シルヴァになんと言われようとも、全てを後悔する気にはなれなかった。
(どうしよう……いまが幸せすぎて、話すのが怖い……!)




