16.光の決意
あっけなく退職が決まって、ノーナは王宮を放り出されることになった。自分で決めたことではあるが、来週からは許可がない限り王宮内に立ち入ることはできないし、噴水が癒しの庭園にも、ノーナひとりでは入れない。
自分が望んでいたことだ。一刻も早く辞めたいと思っていたはずだ。
しかし両親が亡くなってから十年間ずっと勤めてきた場所から離れ、頑張ったおかげで手に入れた文官の仕事も失って、ノーナは自分のアイデンティティが失われたような感覚に陥った。
(僕の存在って……どこにも、誰にも必要とされてないんだな)
心を覆い尽くすような虚無感に、消えてしまいたくなる。ノーナは自分の心がここまで弱かったのかと戸惑い、さらに落ち込んだ。
親戚も頼れず、天涯孤独になってからノーナはずっと走り続けてきたのだ。仕事はノーナの目的であり、存在意義だった。でもそれなら、積極的に次の仕事を見つければいいだけのはず。
でも動く気になれないのは、原因が他のところにもあるからだ。
恋をして、シルヴァはノーナの心の柔らかい部分にスッと入り込んできた。片想いのまま失恋するならまだしも、ノーナは惚れ薬という反則技で愛される喜びを知ってしまっている。
しかも奇跡的に最近は、惚れ薬を使わなくてもシルヴァの心がこちらを向いていたのだ。
ノーナは腰掛けた椅子の滑らかな表面を撫でた。家にいても彼を思い出してしまうのがつらい。
シルヴァと過ごした何気ない時間が幸せだった。それを台無しにして、彼を不幸にしたのは自分だ。
あれだけシルヴァに迷惑をかけたのだから、ノーナが背負っている罪は仕事を辞めたくらいでは償えないのが当然だった。誰でもいいから、自分を罰してほしい。
しかしパテルの言うとおり、もう関わらない方がいいのは分かっている。進捗をいちいち確認したり、まだシルヴァは安全なのか確かめたいと思うのはノーナのわがままだ。
何かしたいのに何もできない。誰にも必要とされていないし、ノーナから関わると相手を不幸にしてしまう。やはり自分なんていないほうがいいのだと思い至るたび、つらくてノーナは立ち上がれなかった。
「シルヴァ……あいたい」
シルヴァの名前を舌に乗せるだけで、痺れるような悦びと切なさが全身を駆け巡る。彼の姿をひと目でも見れば、生きる気力が湧いてくるはずだ。世界に彩りが戻ってくる。
あの真面目な騎士を、いつの間にこんなにも好きになっていたんだろう。
好きで、大好きで、シルヴァのことを想像するだけで愛おしさが身の内にあふれかえる。まるで自分が惚れ薬の魔法にかかってしまったみたいだ。
いつの間にか夜が明けていて、窓から朝日が差し込んだ。光に誘われるように、ノーナは自然と立ち上がって外に出る。
途端に身体が冷たい空気に包み込まれ、冬の訪れを感じた。透明度の高い風が吹く。
迷いの森も、朝日に照らされる瞬間だけは鬱蒼とした暗さが消え去り、幻想的な美しさを見せていた。ところどころ霧が発生し、水蒸気が光を孕んでキラキラと輝く。その輝きに銀色の髪を思い出して、胸が切ない音を立てた。
いま、この瞬間は『希望の森』と名付けてもいいかもしれない。それほどまでに綺麗だ。
ノーナは透明な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。胸の中に溜まった澱が、少し消えた気がした。
いつまでも落ち込んでいては駄目だと、わかっている。ノーナが走ろうが立ち止まろうが、この美しい世界にはなんの影響も与えないことはわかっているけれど。
――やっぱり何か……彼のためになることをしたい。
結局はそこに行き着くのだ。もっと頭を使って考えなければ駄目だ。
迷惑にならない方法で、遠くから彼を助けたい。シルヴァは誰の助けも必要としていないかもしれないし、ノーナの自己満足だとしても。あの優しい心をもつ人を、ほんのひと欠片でもいいから悪意から守りたかった。
最後の出勤日、ノーナは引き継ぎの資料作りに追われていた。同僚は最後までノーナの言葉に聞く耳を持たず「もうどうにでもなれ」と思っていたが、やはり他の局にまで迷惑を掛けることになってしまったら申し訳ない。
ノーナがいなくなったあと、困ったときに見てもらえるような資料を夜遅くまで残業して作ったのが……役に立てばいいけど。
最後だからと思いピークスの局まで会いに行ってみたものの、席を外していて会えなかった。ノーナも待つほどの時間はなく、諦めて局を出た。
ピークスなら会おうと思えばプライベートで会える。でも、これまでのように偶然会ったりすることはなくなるだろう。
戻りぎわ、悪あがきだとは思いつつも騎士団本部の近くを通った。訓練場にもわずかな人しかおらず、どこか閑散として見える。
それもそうだ。新人騎士たちはシルヴァが連れていったのだから。
どこか塞いだ気分のまま仕事を終えたノーナが局長室へ挨拶にいくと、トゥルヌスさんは立ち上がって手を掴んできた。
「ノーナ、もう諦めはついたかい? あの騎士に、君は釣り合わないよ。君は仕事では有能だしこの局では重要な存在だったけど、所詮貴族と平民では生きる世界が違う。そもそも男同士で恋愛関係なんて無理なんだ。だから……私の愛人として戻っておいで」
「トゥルヌス局長……分かっています。彼のことは最初から諦めていますよ。でも、愛人にもなりません」
やはりトゥルヌスさんは、ノーナの好きな人がシルヴァであると気付いていたようだ。
そして現実を見せてノーナを突き落とそうとする。突き落としたところで、救えるのは自分だけだと手を差し伸べてくるのだ。このしたたかさも貴族の彼らしい。
ノーナは握られた手を優しく解いた。釣り合わないことも、いろいろと無理なこともわかっているが、それを決めるのはトゥルヌスさんじゃない。
「僕は……ウィミナリス様ほど素敵な人を他に知りません。たとえ受け入れてもらえなくても、他人になんと言われようとも、僕の心は彼のものです」
「チッ。あんな融通の利かない男の、どこがいいんだか。何にも興味ないかと思いきや、人のものを横取りしやがって」
「え……」
「ノーナもノーナだよ。これまで取り立ててあげてきたのに、簡単に浮気して。噂は君への罰でもあるんだ。もう少し反省してほしかったけど、さすが平民は図太いね」
トゥルヌスさんはドサッと椅子に座り、人が変わったようにベラベラと悪意のこもった言葉を吐いた。背もたれに背を預け、ふんぞり返ってノーナを罵倒してくる。
この人は誰? 唐突に穏やかさという仮面を外したトゥルヌスさんが恐ろしい。というか、噂って……
「あの噂、トゥルヌス局長が流したんですか?」
「そうだよ。内容に信憑性があっただろう?」
しゃあしゃあとした様子で真実を告げたトゥルヌスさんは、見たこともないほど醜い顔をしていた。
確かに、彼が噂を流したのだとノーナが知ったところでどうしようもできない。地位も、身分も持っている人に対してできる対抗手段を、ノーナは持ち合わせていなかった。
それを分かっているからこそ、最後の日に彼は打ち明けたのだろう。
でも……せめて、気持ち良く終わらせて欲しかった。トゥルヌスさんに対して抱いていた感謝の感情も、楽しかった思い出も、すべてが黒く塗りつぶされていく。
これが彼からノーナへの罰なのだ。向けられた悪意に体温が抜け、指先まで冷たくなった。
ノーナはとぼとぼと廊下を歩いている。いまさっき、王宮で働く人に与えられる通行証を返却してきたのだ。これで本当に終わりだった。
トゥルヌスさんとのやり取りのせいで、どうしても気持ちは鬱屈としていた。
どうしてあんな人を好きだったんだろうと今や自分でも不思議に思う。ピークスにも再三言われてきたことだが、ノーナはそれほどに男を見る目がないのだろうか。
もっとも、シルヴァは別だ。偶然が重なったとはいえ、なんていい男を見つけたんだと自分が誇らしいくらいである。
できることなら、清廉で純粋な彼に会って汚れてしまった心を浄化されたい。シルヴァは悪巧みなんて考えもつかないはずだ。きっと「決闘する」とかいい出しかねないし。
「ふふっ。って……あれ?」
玄関に向かおうと思っていたのに、気づけばシルヴァの部屋の前まで来ていた。たった数週間だったものの、ノーナが住んでいた部屋だ。
ここにいれば、彼がたまに会いにきてくれた幸せな思い出が詰まっている。今日は無意識に、幸せの欠片を探しにきてしまったのかもしれない。
ノーナはずっと持っていた鍵で部屋の中に入った。最後に会ったときはシルヴァに待っててくれと言われてしまったし、誰もいない部屋に鍵を置いていくわけにもいかなかったのだ。鍵は彼が戻ってきてから、人づてに返そうと思っている。
ランプをつけて見渡すと、部屋の中は相変わらず生活感がない。少しくらいシルヴァの私物があれば彼の存在を感じられるのに、と自分勝手なことを心のなかで呟く。
何とはなしに備え付けの家具の引き出しを開けて、中身を確認していく。
やっぱり彼の服の替えさえも置いていない。ここに住んでいるのなら、ノーナがここにいた間はどこに行っていたんだろう?
シルヴァから家族の話さえ聞いたことのないノーナは、彼のことをほとんど知らなかったことに気付く。彼と過ごした時間は、この三ヶ月間のなかでほんの一瞬の煌めきのようなものだ。
この思い出を抱えてこれからひとりでやっていけるだろうか……また不安になっていたノーナは、ソファの傍にあるキャビネットのなかに何か入っていることに気づいた。
「ん? お酒……かな? こんなのあったっけ」
取り出してみると、見覚えのないワインのボトルだった。コルクも抜かれていないし未開封だ。
シルヴァは甘党で、自ら酒を嗜むタイプではない。とはいっても、彼でも飲みたくなるときがあるかも……ノーナはしょっちゅう飲みたくなるし。
そう自分を納得させてボトルを片付けようとしたとき、カサ、と音がしてキャビネットの底に小さなカードが落ちているのを見つけた。
手を伸ばして拾うと、お手本のように几帳面な字でなにかが書いてある。
それを読んだ瞬間、ノーナは立っていられなくなりその場でうずくまった。
ずっと我慢していた涙が、頬を伝ってぼたぼたと零れ落ちる。
シルヴァに関してだけ、ノーナは涙腺が弱くなるのだ。
こんなの……こんなのずるい。
「諦められるわけ、ないよぉっ……」
ノーナが握りしめたメッセージカードにはこう書いてあった。
――ノーナ、白ワインはこれでいいか?
また一緒に酒を飲もう。
愛を込めて……
シルヴァ




