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6 裏切り

 ――はるか昔。

 人は神の奇跡を願い、磨かれた結晶に聖なる紋様を刻み込んだ。

 人はその奇跡を生み出す結晶を、石の脳と言うようになった。

 もう、力を使う度に記憶を失う呪いの人脳器(じんのうき)を使わなくていいのだ。


 かつての聖典が謳った、あるいは人類が夢見たはずの、あまりにも遠い救いの言葉。

 しかし、その祈りを嘲笑うかのように怪物の視線は二人を捉える。

 息が詰まるような圧迫感の中、腹を括ったトレンは重厚なモーニングスターを握り直し、その怪物を正面から直視した。


「ちっ、現われやがったか。右から撃て。オレが左から突っ込む。同時に左右からやるぞ」


 返事はない。パニッくったのか?


「リオ!」


 張り詰めた大気の中に、不自然な無音が落ちる。


「リオ?」


 おかしい。

 あまりの沈黙に不審を抱いたトレンは、リオがいたはずの右側へと視線を向けた。

 そこには――誰もいなかった。

 あいつはとっくに、トレンを置いて一人で逃げ出していたのだ。


「リオオオオオオオオ」


 さっきのリオの姿が完全にブーメランとなって返ってきたかのように、トレンもまた、テラスの空に届かんばかりの絶叫を炸裂させた。

 だが、叫んでいる猶予すら怪物には与えられない。

 その場には既にリオはいなかった。

 そして、トレンが慌てて正面へと視線を戻すと。

 すでに勝負は決していた。

 巨大な怪物の影が、トレンの視界を、そしてその身体を完全に覆いつくしている。

 頭上高くに伸ばされた一本の太い触手が、容赦のない質量を込めて大きく振りかぶられ、溜められた凄まじい破壊の力を一気に解放する瞬間だった。

 人脳器の、ギョロリと丸いオレンジ色の瞳。

 そこに反射して映るトレンの顔は、驚愕と絶望で激しく歪んでいた。


「げぇっ!」


 トレンが上げた声を無慈悲にかき消すように、凄絶な打撃音が、3階テラスの地面へと激しく響き渡ったのであった。


 ◇


 破壊された波板スレートの屋根から、濁った薄緑の光が一筋だけ、スポットライトのようにあたりを照らす薄暗い倉庫。

 埃が静かに舞うその床で、パレットに積み上げられた資材の袋へ頭から突き刺さっていた最強の騎士エルウイが、ようやく微かにその四肢を震わせた。

「ぐはっ!」意識を取り戻すと同時に、猛烈な肺の圧迫感に襲われて激しく咳き込む。

 埃と屋根の破片にまみれた資材袋の表面に、彼が口から勢いよく吐きだした鮮血がべっとりと付着した。

 エルウイは頭を押さえ、痛みに耐えながら身を起こす。


 頭部から伸びるあの太い触手。

 その猛烈な攻撃をすべて紙一重で避けた、まさにその一瞬の隙だった。

 完全にこちらの死角から、ハエたたきのごとき無慈悲な質量で襲いかかってきた長い()()の追撃。

 こちらの機動の限界を突いた、その二手三手先を行く異形の猛攻を見誤ってしまった己の未熟さを、彼は激しく後悔していた。


「てっ、手強い・・・」


 苦渋に満ちた声を漏らしながら、なんとか立ち上がる。

 赤い正規兵服はすっかり埃に汚れ、誇り高き騎士の面影はボロボロに傷ついていた。

 だが、その時。

 エルウイの脳裏に、かつて自分が廃墟へ踏み込む際に置いていった二人の傭兵の姿が、ふとよぎった。

 短気な片腕の男と、お調子者の狙撃手。


「はっ! そういえば・・・あいつら・・・無事か?」


 あの怪物に、もし二人が遭遇していれば命はない。

 モトラの秩序を守る番人としての使命感、そして弱き仲間たちへの真っ直ぐな懸念が、エルウイの傷ついた肉体に再び力を宿らせる。

 彼は違法の武器と呼ばれる剣の柄をしっかりと握り直すと、痛む身体を引き摺るようにして、静かに歩き出した。

 まだテラスであの怪物の「じゃれ合い」の嵐が吹き荒れていることなど知る由もないまま、トレンたちと合流するため、エルウイは静かに倉庫を去るのであった。


 ◇


「リオオオオオオオオ」


 時間はわずかに遡る。

 三階テラスの濁った緑の空に、裏切られたトレンの絶叫が虚しく響き渡っていたその時。

 命の危機を天性の生存本能で察知し、相棒を躊躇なく置き去りにして逃げ出したリオは、既に廃墟の薄暗い裏通りの路上へと降りていた。

 ボウガンは、すでに床へ無造作に置かれ、近くの壁に立てかけられている。

 リオは懐から取り出したタバコに火をつけ、深く一服した。

 紫煙が黄緑の光の中に溶けて消えていく。

 彼は至極冷静に、これからの身の振り方を考えていた。

 正規兵が片腕の傭兵とこれ以上付き合う義理もメリットもない。


「モトラの旦那どこいったんだろうな。」


 ポツリと呟き、最強の騎士の行方に思いを馳せる。


 その頃、彼がつい先ほどまでいた遥か頭上の三階テラスでは、凄絶な死闘が繰り広げられていた。


「んぐうううんがああぎぎぎ・・・・んが!」


 テラスに取り残されたトレンは、上空から容赦なく振り下ろされた巨大な触手の質量を片腕と両足で支え、肉体をつぶされそうな激痛の中で必死に喘いでいた。

 頭部だけで大人一人が乗れるほどの焦茶緑色のハッチらしきもの、そこから伸びる触手がトレンの視界を塞ぎ、骨をきしませる。

 だが、ルーブランドの戦場を生き延びた傭兵の執念が、絶体絶命の淵で火事場の馬鹿力を呼び覚ました。

 残された右腕が、モーニングスターの重厚な柄を限界まで握り締める。

 渾身の力で黒鉄の塊を振りぬき、触手を弾き受け流す。

 上から迫る触手の圧倒的な圧力から、トレンは間一髪でその身を脱出した。

 獲物を失った触手が猛烈な速度で床へと叩きつけられ、硬質なコンクリートを激しく爆砕する。

 凄適な衝撃音とともに、視界を一瞬で白く染めるほどの凄まじい砂煙が立ち上った。

 トレンは受け身をとり、床の上を必死に転がりながらすぐさま体勢を整える。

 しかし、異形の追撃は人間の限界を遥かに超えていた。

 逃走を一切許さない冷酷な二手目は砂煙を切り裂き、大蛇のごとくうねる長い尻尾が、テラスの空間を真横に薙ぎ払った。

 まるで強烈なラリアットを食らったかのように、トレンの身体は一瞬で宙に浮き、テラス入り口の堅牢な壁まで一直線に吹き飛ばされた。


「ぶはっ」


 背中から壁に激突し、肺の空気をすべて吐き出す。

 あまりの衝撃に、トレンの意識は一瞬、暗転しかけた。

 だが、網膜の奥に、のしのしと地響きを立てて歩行し、距離を詰めてくる巨大な焦茶緑色の巨躯が映る。

 突然の追撃。

 しかし、トレンはそれが放たれるギリギリの刹那で気付いた。

 怪物のオレンジ色の瞳がギョロリと輝き、溜められた力が一気に解放される。

 怪物の渾身の一撃が爆発するがごとくテラスの壁を、いや、部屋そのものを激しく破壊し尽くした。

 ビル自体は持ち堪えたものの、三階部分には抉り取られたような巨大な横穴がガラリと開き、鉄筋とコンクリートがバラバラの破片となって一気に真下へと崩落していく。

 そして、その大量の破片の落下地点――そこはちょうど、裏通りで壁にボウガンを立てかけ、暢気にタバコを一服していたリオの真上だった。

 突然、世界が鳴動し、上から凄絶な質量が崩れ落ちてくるのを、リオは信じられないものを見るように見上げた。

 喉を切り裂くような悲鳴が、廃墟の裏通りに木霊する。


「あ・・・・うわあああああああ」


 轟音とともに破片が激しく降り注ぎ、あたりは落ちた瓦礫の山と、視界を完全に遮断する濃密な煙によって包み込まれた。

 激しい破壊の「動」のあと、耳が痛くなるほどの「静」が、再び世界を支配する。

 トレンとリオがその破壊の余波に呑み込まれてやられ、静寂が戻った廃墟。

 だが、その光景を少し離れた特等席から見つめる影があった。

 赤い正規兵服を纏った一人の男。

 誇り高き騎士、エルウイ。

 傷ついた身体を引き摺りながら歩き続けた騎士は、現場に隣接する別の建物の屋上へと、静かに辿り着いていた。

 そこからは、怪物の猛攻によって三階にぽっかりと巨大な横穴が開いた廃墟の姿が、ありありと一望できた。

 エルウイは別の建物の屋上から、濁った薄緑の光に照らされるその惨状を、上から静かに見下ろした。

 周囲を不気味な静寂が満たす中、前髪を風に揺らしながら、エルウイは低くつぶやく。


「化け物め」


 静かに吹き抜けた風が、彼の赤い正規兵服の裾を微かに揺らした。

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