2 仇敵との取引
トレンが砂まみれの地面で意識を失い、喉がちぎれるほどの絶叫を上げてから、三週間が経過した。
エメラルドグリーンの空から差し込む不気味な光が、埃っぽい難民キャンプの地面を照らしていた。
泥と頽廃が入り混じる即席の路地を、二人の男が歩いている。一人は、モトラ国の赤い正規兵服を堂々と着こなした三十代の青年、エルウイ。その横を歩くのは、焦げ茶色のマントを羽織ったリオだ。リオは頭が大きいため、普段からマントのフードを被ることはない。その大きな頭を隠すことなく、堂々と歩いていた。
その姿を見咎め、壁に背を預けていた無精ひげの中年難民二人が、忌々しげにつぶやいた。
「モトラの兵だ。なんでこんなところに……」
難民男が、憎しみを押し殺した声で吐き捨てる。
「ふん。そのうち外をうろうろしていたら、カレン教徒にでも殺されるさ」
もう一人の男が鼻で笑うが、難民男の表情は晴れない。声を潜めて付け足した。
「だがよぉ……あいつら、戦争に化け物を使うって話だぞ」
道脇では、ハエの止まった薄いスープの器を抱えた幼児が、虚ろな目で通り過ぎる二人の兵士をぼんやりと眺めていた。その視線に気づいたエルウイが、前を見据えたまま口を開く。
「そいつは、この難民キャンプに住んでいるのか?」
「いや……」
リオが、その大きな頭を少し傾けて答える。
「任務で負傷したから、医療テントで休んでいるはずだよ」
二人は歩きながら言葉を交わし、やがて目的の場所にたどり着いた。
「だんな、この中だ」
リオがそう言って、エルウイは粗末なテントの布をめくる。リオはそのまま待機し、タバコに火をつける。
中に足を踏み入れると、つぎはぎの布を重ねてロープで固定しただけの雑な空間が広がっていた。廃材を強引に縛り付けただけの柱には統一性などなく、隙間から差し込むオレンジがかった日の光が、薄暗い室内を不気味に切り取っている。
その中央にある簡易ベッドで、一人の男が横になっていた。
気配を察し、額と右腕に白い包帯を巻いた男が、酷く眠そうに上半身を起こす。左腕を肘の上から失った傭兵――トレンだ。
「ん……なんだ?」
トレンが怪訝そうに目を細める。エルウイはその様子を冷徹に見下ろし、端的に問いかけた。
「片腕の傭兵とはおまえのことか?」
「それがどーした。見たところ、モトラの兵士みたいだな」
モトラ兵を嫌っているのか棘のある返答。エルウイは構わずに要件を言う。
「ルーブランドに行くための案内人を探している。おまえ、ルーブランド出身らしいな」
トレンの脳裏に、かつて故郷を蹂躙した、赤い刃を持つ骸骨頭の怪物 『赤刃兵』 の姿がよぎり、声に険が混じる。
「ケッ……わざわざ人間様が行かなくても、モトラご自慢の赤刃兵がいるじゃねーか。ただ働きのよ!」
ルーブランド――かつてオアシスと呼ばれたトレンの故郷は、三年前、そのモトラの兵器によって滅ぼされたのだ。
その時、入り口でタバコを一服し終えたリオが、エルウイの後ろからひょっこりと顔を出した。
「それが、けっこー報酬がいいんだな。モトラのだんなはふ――」
「ぶふぉっ!?」
リオが「懐が暖かい」と言い切るより早く、トレンの剥き出しの足が、その顔面を正確に捉えた。
凄まじい衝撃音と共に、リオの身体がテントの外へと派手に放り出され、そのままノックアウトされる。
「う……うーん……てててて……! なんで蹴るんだよ!」
鼻を押さえながら起き上がったリオは、大きな顔の口をさらに大きく開け、大声で抗議した。
テントの中から、釣り目状態の怒り顔になったトレンが、唯一残された右腕の拳を突き上げて怒鳴り返す。
「それがわからんほどアホかあ!? くそーっ……帰れおめーら!」
数分後。
嵐が去るのを待っていたエルウイが、何事もなかったかのように再びトレンの前に立った。
トレンはまだ忌々しげに睨みつけている。
「……まだ用があるのか?」
「傭兵は、金で動くのだろ?」
エルウイは懐からずっしりと重い巾着袋を取り出すと、無造作にトレンへ手渡した。
怪訝そうに右手で受け取ったトレンは、巾着袋の紐を口にくわえ、器用に引き解いて中身を覗き込む。
「お……おお……!?」
そこには、薄暗いテントの中でも鈍い輝きを放つ、大量の金貨が詰まっていた。まるで前人未到のお宝を発見したかのように、トレンの目が限界まで丸くなる。
そんなトレンの様子を見ながら、エルウイが淡々と釘を刺した。
「断るなら、その前金は返してもらうが」
トレンは、金貨の巾着袋を唯一の右腕でがっしりと胸に抱え込み、激しく首を横に振った。返すわけがない。
「じゃあ、やってくれるのだな」
今度は、壊れた玩具のように激しく首を縦に振る。
エルウイは小さく息を吐き、踵を返した。
「出発は明日だ。今のうちに休んでおけ」
◇
深く淀んだ夜の静寂の中、トレンは横向きに寝た姿勢のまま、突然、両目を見開いた。
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。全身から噴き出した嫌な寝汗が、つぎはぎのシーツを濡らしていた。
仰向けに寝返りを打ち、荒い呼吸を一つ、二つと吐き出して落ち着かせる。
――また、あの悪夢だ。
内容を思い出すだけでも悍ましく、心臓が削られるような悍ましい残像。それが何であったのか、トレンは決して口にしない。
トレンは唯一残された右腕を額に当て、雑なテントの隙間から覗く、不気味に輝く月空を見上げた。
「ケッ……あれから三年か」
吐き捨てた独り言は、隙間風に溶けて消えた。
◇
同じ夜、キャンプから少し離れた、サンブルグ国境内でもそれなりに値の張る上質な酒場。
難民たちの喧騒とは無縁の、静かで落ち着いた調度品が並ぶ個室で、国境警備隊の正規兵であるリオはある人物と向かい合っていた。
磨かれた木目のテーブルの上。そこへ、滑り込むようにして一本の『手』が伸び、無造作に細長い袋ケースを置いた。中には、禍々しい金属光沢を放つ『毒矢十本セット』が収められている。
焦げ茶色のマントを着たリオは顔をニヤリと歪め、そのケースを自分の手元へスライドさせた。
「俺を指名するとは、わかっているじゃないか!」
自信ありげに笑うリオの目は、いつになく冷酷な光を宿している。高級な酒のグラスを傾けながら、その視線は、毒矢を差し出してきた対面の闇へと、値踏みするように向けられていた。
「傷口に撃てばいいのだろ?」




